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神は戦争をどう見ているか・・・聖書

2018年07月08日 | 日記

 


『神は戦争をどう見ているか』


あなたならこの質問にどう答えますか。神は戦争を認めている,と考える人は少なくありません。神はかつてご自分の崇拝者に戦争を行なうよう命じたことがあった,聖書にもそう書いてあるというわけです。
一方,ある人たちは,神の子イエスが敵を愛するよう弟子たちに教えたことに注目し,神はある時点で戦争に対する見方を変え,今日では戦争に反対していると考えます。


【あなたがたも聞いているとおり,「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし,わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』
(マタイ 5:43,44)


あなたはどう思われますか。神は戦いを認めているでしょうか。もしそうなら,神は今日の紛争においてどちらの側につくでしょうか。こうした点が分かるなら,戦争に対するあなたの見方も変わってくるかもしれません。
例えば,神が戦争を認めているだけでなく,特定の戦争においてあなたと同じ側を支持しているとしたら,自分の立場はこれでいい,支持している側が勝つと思うことでしょう。反対に,神が違う側を支持しているなら,どちらの側につくか考え直す必要があるかもしれません。

さらに,もっと重要な事柄が関係しています。戦争に対する神の見方が分かると,神に対するあなたの見方も変わるかもしれないのです。あなたが戦争で深い傷を負った無数の人たちの一人なら,次の点を是非考えてください。
「ある人々が考えるように,神は戦争に伴う苦しみを容認したり助長したりするような方でしょうか。また,戦争で苦しむ人たちに無関心で,助けることもしないのでしょうか」。

そのように考える人は少なくありませんが,聖書の述べる事柄はそれとは大きく異なっています。過去から現代に至るまで,戦争に対する神の見方は変わっていません。
では,古代における,そしてイエスが地上にいた1世紀における戦争に対する神の見方に関して,聖書は何と述べているでしょうか。

その答えが得られるなら,神が今日の戦争をどう見ているか,戦争は将来もなくならないのかという点も分かるでしょう。



「戦争に対する神の見方 古代において」


ずっと虐げられてきたその民は,神に何度も救出を祈り求めますが,何の答えもありません。少なくともしばらくの間はそうでした。
その民とは古代の神の民イスラエルで,彼らを虐げていたのは強国エジプトでした。
【それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた】
(出エジプト記 1:13,14)

イスラエル人は長年,神がエジプトの圧制を終わらせるのを待ち望んでいました。そしてついに,神が行動される時が来ます。
【主(神)は言われた。「わたしは,エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見,追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き,その痛みを知った。
それゆえ,わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し,この国から,広々としたすばらしい土地,
乳と蜜の流れる土地,カナン人,ヘト人,アモリ人,ペリジ人,ヒビ人,エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
見よ,イスラエルの人々の叫び声が,今,わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
今,行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ】
(出エジプト記 3:7~10)

聖書によると,神自らエジプト人と戦われました。エジプトに一連の壊滅的な災厄を臨ませ,王とその軍勢を紅海で滅ぼします。
【ファラオとその軍勢を - 葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。慈しみはとこしえに】
(詩編 136:15)

神(ヤハウェ,エホバ)は,ご自分の民のために「主(神)はいくさびと」として行動されました。
【主(神)こそいくさびと(戦人)そのその御名は主(神)。(神)はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み - えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ】
(出エジプト記 15:3,4)

神自らエジプト人と戦われたことからすると,神はすべての戦争に反対しているわけではありません。
戦争をする権限をご自分の民イスラエルに与えたこともあります。
例えば,神はイスラエル人に対して,甚だしいまでに邪悪だったカナン人との戦いを命じました。
【あなたが正しく,心がまっすぐであるから,行って,彼らの土地を得るのではなく,この国々の民が神に逆らうから,
あなたの神,主が彼らを追い払われる。またこうして,主(神)はあなたの先祖,アブラハム,イサク,ヤコブに誓われたことを果たされるのである。
ヘト人,アモリ人,カナン人,ペリジ人,ヒビ人,エブス人は,あなたの神,主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。
それは,彼らがその神々に行ってきた,あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ,あなたたちがあなたたちの神,主に罪を犯すことのないためである】
(申命記 9:5; 20:17,18)

また,イスラエルの王ダビデに,圧制的なペリシテ人(フィリスティア人)と戦うよう指示し,必勝戦術を授けることさえしています。
【ペリシテ人は,ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞いた。すべてのペリシテ人が,
ダビデの命をねらって攻め上って来た。ダビデはこれを聞いて要害に下った。やって来たペリシテ人はレファイムの谷に陣を広げた。
ダビデは主(神)に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」
主(神)はダビデに答えられた。「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す」。
ダビデはバアル・ペラツィムに攻め入り、彼らを討ち滅ぼして、こう言った。「主(神)は敵をわたしの前で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった」。
その場所をバアル・ペラツィム(破れ目の主)と呼ぶのは、このためである。
ペリシテ人が自分たちの偶像をそこに捨てて行ったので,ダビデとその兵はそれを運び去った。ペリシテ人(フィリスティア人)は再び攻め上り,レファイムの谷に陣を広げた。
ダビデが主に託宣を求めると,次のように答えられた。「攻め上らず、背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。
茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ。主がペリシテの陣営を討つために,お前に先んじて出陣されるのだ」。ダビデは主の命じられたとおりに行動し,ゲバからゲゼルに至るまで,ペリシテ人(フィリスティア人)を討ち滅ぼした】
(サムエル下・サムエル第二 5:17‐25)

聖書のこうした記述から分かるとおり,神は,ある種の悪や圧制がイスラエル国民を脅かす場合に,民の保護と真の崇拝の存続を目的とした戦いをよしとされました。
とはいえ,神が命じた戦いについては,見過ごしてはならない3つの重要な点があります。

だれが戦うかを神が決定した。神はイスラエル人に,「あなた方は……戦うにはおよばない」と告げたことがあります。
なぜでしょうか。イスラエル国民のために神自らが戦われるからです。
(歴代第二 20:17; 32:7,8)
ほかにもそのような事例は多くあり,記事の冒頭で述べた出来事もその一例です。
神はまた,古代イスラエルのご自分の民に,約束の地を征服し防衛するために戦うよう命じたこともあります。
【 あなたが行って所有する土地に,あなたの神,主があなたを導き入れ,多くの民,すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民,
ヘト人,ギルガシ人,アモリ人,カナン人,ペリジ人,ヒビ人,エブス人をあなたの前から追い払い,
あなたの意のままにあしらわさせ,あなたが彼らを撃つときは,彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず,彼らを憐れんではならない】
(申命記 7:1,2)
【それからヨシュアは,山地とネゲブとシェフェラと斜面の全土またそのすべての王たちを討った。
ひとりの生存者も残さず,息あるすべてのものを滅びのためにささげて,イスラエルの神が命じたとおりにした】
(ヨシュア 10:40)


いつ戦うかを神が決定した。神の僕たちは,神のご予定の時まで,周囲の圧制者や邪悪な人々と戦うのを辛抱強く待つ必要があり,
その時までは戦ってはなりませんでした。待たずに行動した場合,神の恵みを失いました。
聖書は,イスラエル人が神から権限を与えられていない戦争をあえて行なった時には,たいてい悲惨な結果になったことを示しています。





神は人の死を喜ばれない。邪悪な人の死も例外ではない。神(ヤハウェ,エホバ)は命の源で,人間を造られた方です。
【命の源はあなたのもとにあり,わたしたちはあなたからの光によって光を見ることができるからです】
(詩編 36:9)

ですから,神は人が死ぬのを見たいと思ってはおられません。しかし残念なことに,他の人を虐げることや殺すことさえ画策する邪悪な人々もいます。
【悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために】
(詩編 37:12,14)

神は過去に,そうした悪をやめさせるため,イスラエルに邪悪な人々と戦う権限を与えることがありました。
しかし神は,イスラエルを虐げる人々に対し,いつでも,「怒ることに遅く」「憐れみ」深いことを示しました。
【しかし主よ,あなたはあわれみと恵みに富み,怒りをおそくし,慈しみと,まこととに豊かな神でいらせられます】
(詩編 86:15)

例えば,都市を攻める際に「和平の条件をも告げ」るようにとイスラエル人にお命じになりました。
都市の住民に,行ないを改めて戦いを回避する機会を与えるためです。
【ある町を攻撃しようとして,そこに近づくならば,まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し,城門を開くならば,その全住民を強制労働に服させ,あなたに仕えさせねばならない。
しかし,もしも降伏せず,抗戦するならば,町を包囲しなさい。あなたの神,主はその町をあなたの手に渡されるから,あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない】
(申命記 20:10‐13)
神は,「邪悪な者の死ではなく,邪悪な者がその道から立ち返って,実際に生きつづけることを喜ぶ」のです。
【・・・わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から・・・】
【また,悪人に向かって,わたしが,『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても,もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら,
すなわち、その悪人が質物を返し,奪ったものを償い,命の掟に従って歩き,不正を行わないなら,彼は必ず生きる。死ぬことはない。
彼の犯したすべての過ちは思い起こされず,正義と恵みの業を行った者は必ず生きる】
(エゼキエル 33:11,33:14‐33:16)

これまで取り上げてきた事柄から分かるとおり,神は古代において,戦いを,様々な虐げや悪を終わらせる正当な手段とみなしておられました。
そして,いつ戦うかだれが戦うかを決めたのは,人間ではなく神でした。それにしても,神は残虐な戦いを積極的に行なったのでしょうか。
そのようなことはありません。「神は暴虐を憎まれる」からです。
【主(神)は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは,暴虐を好む者を憎む】
(詩編 11:5)



では,戦争に対する神の見方は,イエス・キリストが宣教を開始した1世紀に変わったのでしょうか。


次のような例があります。アマレク人とカナン人との戦いに関して,イスラエル人は,戦ってはならないと神から命じられていたのに
それを無視したため,敗北を喫しました。
【するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ,主(神)の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。
上って行ってはならない。主(神)はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。
そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから,あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが
主(神)にそむいて従わなかったのだから,主はあなたがたとともにはおられない」。・・・・そこで、その山に住んでいたアマレク人と,カナン人が下ってきて,彼らを撃ち破り,ホルマまで追ってきた】
(民数記 14:41~45)


また何百年も後,忠実なヨシヤ王は神の認めていない戦いに臨み,この軽率な行動によって命を失いました。
【ヨシヤが神殿を整えるために行ったこれらのすべての事の後、エジプトの王ネコがユーフラテス川の近くのカルケミシュを攻めようとして上って来た。ヨシヤはこれを迎え撃つために出陣した。
しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、
わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる」。
しかし、ヨシヤは引き返さず、攻撃のために変装して、神の口から出たネコの言葉を聞かなかった。そして彼はメギド平野の戦いに臨んだ。
射手たちがヨシヤ王を射た。王が家臣たちに、「傷は重い。わたしを運び出してくれ」と言ったので、
家臣たちは王を戦車から降ろし、王の第二の車に乗せてエルサレムに連れ帰った。王は死んで、先祖の墓に葬られた。ユダとエルサレムのすべての人々がヨシヤの死を嘆いた】
(歴代下(第二) 35:20~35:24)

イスラエル人はカナン人には和平の条件を告げませんでした。
なぜでしょうか。カナン人は,その邪悪な歩みを正すために400年の期間を与えられていたからです。
イスラエル人が攻めて来た時,その邪悪さは,集団として矯正不能なまでになっていました。
(創世記 15:13~16)

そのため,カナン人は完全に滅ぼし尽くされました。
【神はカナン人に対する戦いを行なったが,ラハブとその家族など,一部の人々の命を救われた】

しかし,行ないを改めた個々の人の命は救われました。
【遊女ラハブとその一族,彼女に連なる者はすべて,ヨシュアが生かしておいたので,イスラエルの中に住んで今日に至っている。
エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである】
(ヨシュア 6:25)
【ギベオンの住民たちは,ヨシュアがエリコとアイにおこなったことを聞いて・・・彼らはヨシュアに言った,「われわれはあなたのしもべです」・・・
そしてヨシュアは彼らと和を講じ,契約を結んで,彼らを生かしておいた・・・・ヨシュアは彼らにそのようにし,彼らをイスラエル人の手から救って,殺さなかった。
・・・こうしてヨシュアは,その日,彼らを会衆のため,また主の祭壇のため,主が選ばれた場所で,たきぎを割る者(柴刈り)水を汲む者とした。今日もそうである】
(ヨシュア9:3~9:27)