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聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

数・数字・・・聖書

2018年07月06日 | 日記

私はエホバの証人ではありませんが時々
エホバの証人より配布いただいてる「目覚めよ」誌・「ものみの塔」誌より引用の記事もあります。
(どこの宗教宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会創価学会キリスト教のカトリックプロテスタント等)
その中で聖書に忠実に教えてるのはエホバの証人と思います。

 





数、数字

*注・ヘブライ語(ヘブル語)
 
古代ヘブライ語(ヘブル語)で、数は文字でつづられました。
バビロンへの流刑より後のある時期に、ユダヤ人はアルファベットの文字を数字の記号として使う習慣をある程度取り入れました。
しかし、この用法は流刑後のヘブライ語聖書の写本の中にさえ見られません。
ヘブライ語の書き物で現存する最古の見本の一つは、シロアムの地下水道から取られた銘文(多分、ヒゼキヤの治世中[西暦前745~717年]のもの)
で、その文中では寸法が略さずに書かれています。ヘブライ語聖書の写本は幾度も書き写されてきましたが、
そこには数字が文字でつづられているためにその正確さと信頼性は一層の重みを帯びています。写本を行なう際、数字はたいてい単語より間違えやすいからです。
 
ヘ ブライ語では、10より大きい数は12(2と10)(創世記 14:4)の場合のように単語を組み合わせたもので、例外としては、20が10の複数形、
30は3から派生した複数形の語、40は4から派生した複数形の 語などとなっています。100は別個の語で、200はその両数形です。
300のような他の「・・・百」は、二つの語から成っています。ヘブライ語の一つの単語で表現できる最大の数は2万で、1万の両数形です。
それより大きな数は幾つかの単語の複合体です。例えば,歴代第一 5章18節では、4万4,760という数が、字義的には40と四つの千と七つの百と60となっています。
100万は一千の千と書きます。(歴代第二 14::9)リベカの家族は彼女を祝福して次のように言いました。「わたしたちの姉妹よ、あなたは万の幾千倍[字義、幾万の幾千]にもなるように」。
(リベカの子孫は実際に幾百万を数えるようになった。)(創世記 24::55、60)ダニエルの幻の中で、神(ヤハウェ、エホバ)
はそのみ前に立つ「一万の一万倍[字義、一万の万]」の者を有する方として示されています。
(ダニエル7:10)
 
数がおおよその意味で、つまり概数として使われることがあります。例えば、詩編作者が人間の年齢の限界について述べている詩編 90編10節があります。
「わたしたちの年の日数そのものは七十年です。そして、特別の力強さのためにたとえそれが八十年であっても
ただ難儀と有害なことが付きまとうだけです。それは必ず速やかに過ぎ去りわたしたちは飛び去ってしまいます」。
 
また、列王上(列王第一) 19章18節
バアルにかがまなかった7,000人)や歴代第二 14章9節(アサによって撃ち破られた100万人のエチオピア人)の場合もそうかもしれません。
 
新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)の中では、数は一般に幾つかの単語で表わされています。
シナイ写本およびアレクサンドリア写本では、「野獣」の数字が幾つかの単語で表わされています。
「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である」。
(黙示録・啓示13:18)
 
聖書の用法は数霊術ではない 聖書は歴史と預言の本なので、そこに示されている数は文字通りの数か象徴的な数のいずれかです。
ある数がどちらの意味で用いられているかは、大抵その文脈から明らかになります。
聖書中には幾つかの特定の数が、例証的、比喩的、もしくは象徴的な意味でよく出て来ますが、そのような場合、
その聖句を理解するにはそれらの数の意義を理解することがどうしても必要です。
しかし、聖書のこのような数の使い方を、数やその組み合わせや数字の合計にオカルト的な神秘主義を結び付けている数霊術と混同すべきではありません。
数霊術は多分、古代バビロンにその起源を有しており、他の形態の占いと共に神から非とされています。
「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、
霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主(神)はいとわれる。
これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう」。
(申命記18:10~18:12)
 
 
聖書の中で特によく用いられている特定の数の比喩的な用法を以下に幾つか論じます。
 
 1比喩的に使われる時、この数は、単一性、特異性、ならびに目的と行動における一致や調和という考えを表わします。
「わたしたちの神(ヤハウェ、エホバ)はただひとりの神(ヤハウェ、エホバ)である」とモーセは言いました。(申命記6:4)
神(ヤハウェ、エホバ)だけが主権者であられます。
神(ヤハウェ、エホバ)のような方はほかにいません。この方は異教の三神一体の神々がするように、別の者と栄光を分け合うことはされません。
(使徒 4:24、黙示録6:10、イザヤ42:8)
神とイエス・キリストの間には目的と活動における一致があり(ヨハネ10:30)、キリストの弟子たちも神とそのみ子、および互い同士との完全な一致を保たなければなりません。
(ヨハネ17:21; ガラテア3:28)
 
二 2 という数は法的な場面によく出て来ます。二人の証人の陳述が一致していれば、証言の効力は増します。
裁き人たちの前で物事を確証するには、二人の証人、あるいは三人の証人さえ求められました。この原則はクリスチャン会衆でも受け継がれています。
(申命記17:6、19:15、マタイ18:16、コリント第二 13:1、テモテ第一 5:19、ヘブライ10:28)
神はご自分のみ子を人類の救い主として人々に示すにあたり、この原則に付き従われました。
イエスは次のように言われました。「あなた方自身の律法の中に、『二人の証しは真実である』と書いてあります。
わたしは、自分について証しする者であり、わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」
(ヨハネ 8:17、18)
 
何かをもう一度行なうと ― 例えば、陳述や幻を単なる似た方法で繰り返した場合でさえ ― その物事を確かで真実なこととして堅く定めることになりました。
(雌牛と穀物の穂に関するファラオの夢の場合がそれに当たる;創世記41:32)聖書のヘブライ語の詩は考え抜かれた対句法を随所で用いていますが、
それは述べられた真理を思いに一層堅く据えると同時に、対句法の中の多彩な表現によって物事を明確にしています。詩編 2編、44編、その他を参照。
 
ダニエルの預言の中のある野獣が「二本の角」を持っていることは、メディア・ペルシャ帝国の支配が二重のものであることを象徴しました。
(ダニエル書8:20、21)
 
三  3同じ事柄に対して二人の証人が証言することは法的な措置を講ずるのに十分な証拠を確立しましたが、三人ならなお一層強力な証言となりました。
ですから、3という数は、時に強烈さ、強調または一層の強さを表わすために用いられています。「三つよりの綱は素早く断ち切ることはできません」。
(伝道の書4:12)
ペテロが3度イエスを否認した後にイエスが3回続けてペテロに質問されたことは強調を成し遂げました。
(マタイ26:34、26:75; ヨハネ 21:15~17)
律法で汚れたものとされたものも含め、あらゆる種類の動物を食べるようペテロに告げた幻は、3度彼に与えられることによって強化されました。
そのおかげで、ペテロはコルネリオとその家の者たちが良いたよりを受け入れた時、ユダヤ人から汚れているとみなされていた諸国の無割礼
の人々に今や神がご自分の注意を向けられたことを理解するのが一層容易であったに違いありません。
(使徒 10:1~10:16、10:28~10:35、10:47,48)
 
神(ヤハウェ、エホバ)がいかに神聖で清い方かは、「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな・・・神(ヤハウェ、エホバ)」という天的な被造物の宣言によって強調されています。
(イザヤ 6:3; 黙示録4:8)
神 はダビデの家系に属する地上で最後の王を位から除く前に、こう言われました。「わたしはそれを破滅、破滅、破滅とする。
これについてもまた、それは法的権 利を持つ者が来るまで、決してだれのものにもならない。わたしはその者にこれを必ず与える」。
ここで神(ヤハウェ、エホバ)は、神がご自分のメシアを王国 の権威に就ける時まで、エルサレムで神の名において王座に座るダビデの家系の王はいないこと、
つまり王座は全く空席となるということを強調を込めて示され たのです。
(エゼキエル21:27)
地に住む者たちに臨む災いの強烈さは、「災い」という宣言が3度繰り返されることによって予告されています。
黙示録・啓示8:13。

四  4 は時折、普遍性、もしくは均整と形の点で真四角であることを表わす数です。この数は啓示 7章1節に3回見られます。
そこでは「四人のみ使い」(完全な滅びのために用意された「四方の風」を管理するみ使いすべて)が、「地の四隅」(風を斜めに、
つまり対角線方向に放つことができ、地のどの場所も残されないことになる)に立ちました。
(ダニエル8:8; イザヤ11:12、 エレ ミヤ49:36、ゼカリヤ2:6)
新しいエルサレムは「四角」で、すべての方向への寸法が等しく、事実、立方体の形をしています。
(黙示録・啓示21:16)
4という数を用いた他の比喩的な表現がゼカリヤ 1章18‐21節,6章1‐3節,黙示録・啓示 9章14,15節に見られます。
 
 
六 6この数は時として不完全さを表わします。「野獣」の数字は666で、「人間の数字」と呼ばれており、不完全で堕落した人間と関係していることが示唆されています。
それは「野獣」によって表わされているものの不完全さを象徴しているようです。
6という数が3段階まで強調されているので(6が一、十、百の位に現われる)、
野獣が表わすもの、もしくは描くものの不完全さや欠陥のある状態を際立たせています。
(黙示録・啓示 13:18)
 
七 7は聖書の中で完全さを示すのによく用いられています。業を完成させることに関連している場合もあります。
あるいは、神により定められた、もしくは許された物事の完全な周期を指すこともあります。
神(ヤハウェ、エホバ)は地に対するご自分の業を創造の六日間で完了し、七日目に休まれることによって、
七日間の週から7年を7回繰り返した後に来るヨベルの年に至るまで、安息の取り決め全体の型を残されました。
(出エジプト20:10; レビ記25:2,25:6,25:8)
種を入れないパンの祭りと仮小屋の祭りはそれぞれ七日間の長さでした。
(出エジプト34:18、 レビ記 23:34)
 
「黙示録・啓示の書」の「七つの会衆」は、その特色と相まって、地上にある神のすべての会衆の状況を完全に示しています。
(黙示録・啓示 1:20~3:22)
 
「野獣」の「七つの頭」(黙示録・啓示  13:1)は野獣が発展を許される限界を示します。
「緋色の野獣」は「八人目の王」と呼ばれていますが、それはその七つから出ており、七つの頭を持つ野獣と別個に存在しているわけではありません。
(黙示録・啓示17:3,17:9~17:11)
このことは「野獣」の「像」についても同じです。
(黙示録・啓示13:14)
同様に、2本の角を持つ「野獣」は実際にはその最初の「野獣」と共存しており、その「印」をすべての人に付けようとしています。
(黙示録・啓示13:11,13:16,17)
 
神はイスラエルに対して辛抱強さを示されましたが、神の懲らしめにもかかわらずイスラエルがもし神(ヤハウェ、エホバ)を無視するなら、
彼らをその罪のゆえに「七倍」、つまり徹底的に打ち懲らすであろうと警告されました。
(レビ記26:18、26:21、26:28)
 
聖書の歴史的な部分では、7が完全さ、もしくは業を完全に行なうことを表わすものとして頻繁に出て来ます。
イスラエル人はエリコの周囲を七日間行進し、七日目には7回包囲することによって全き信仰と従順を示しました。都市の城壁はそのあと崩壊しました。
(ヨシュア6:2~6:4、6:15)
カルメル山上でエリヤはその従者に、雨雲が現われるまで7度行って空を見るようにと命じて、神に対する自分の祈りの効力に全面的な信仰を示しました。
(列王上 18:42‐44)
らい病人のナアマンはヨルダン川で7回水浴しなければなりませんでした。
シリアの力ある将軍であったナアマンは、預言者エリシャに勧められたこの手順を実行するのに少なからず謙遜さを示さなければなりませんでしたが、
彼が従順にそうしたために、神は彼を清められました。
(列王下 5:10、5:12)
神のことばの浄さ、完全さ、完璧さ、優美さは、詩趣に富む力と感動を込めて、溶鉱炉で精錬され、7度純化された銀になぞらえられています。
(詩編12:6)
神の憐れみは、「義なる者はたとえ七度倒れても、必ず立ち上がる」という言葉によって大いなるものとされています。
(箴言24:16)
神(ヤハウェ、エホバ)があらゆる賛美を受けるに値することは詩編作者の、「わたしは日に七度あなたを賛美しました」という言葉に明言されています。
詩編 119:164
 
黙示録(啓示の書)には、神と神の会衆に関する物事、また神とその民に反対して総力を挙げて戦う神の大敵対者サタン悪魔に関する物事に関連して、
7という数が至る所で象徴的に用いられています。
 
7の倍数も同様に完全さを意味するものとして使われています。70(7の10倍)は、メシアの到来に関するダニエルの預言の「七十週」に預言的に用いられています。
(ダニエル9:24~9:27)
エルサレムとユダは神に不従順であったため、「この地がその安息を完全に払い終える」まで70年の間荒廃したままでした。
(歴代第二 36:21; エミヤ 25:11; 29:10; ダニエル9:2; ゼカリヤ1:12; 7:5)
 
一つの数の中で7を繰り返した77は、「定めなく」、または「無制限に」と言うことに相当しました。イエスはクリスチャンに対し、自分の兄弟たちをそこまで許すよう助言しています。
『その時ペテロが寄って来て,こう言った。「主よ,兄弟がわたしに罪をおかすとき,わたしはその人を何回許すべきでしょうか。七回までですか」。
イエスは彼に言われた,「あなたに言いますが,七回までではなく,七十七回までです」』。
(マタイ18:21、22)
殺人者カインを殺す者はだれでも「七倍の復しゅうを受ける」と神が定めておられたので、身を守ろうとして人を殺したと思われるレメクは、
「カインについて七倍の復しゅうがあるなら、レメクについては七十と七倍」と言いました。
(創世記 4:15,4:23,24)
 
八 8という数も何かの完全さをさらに強調するために用いられ(完全さを指して一般に用いられている7より一つ多い)、したがって豊かさを表わす場合がありました。
神は、アッシリアに対して「七人の牧者を、いや、人の中からただの七人ではなく八人の君侯を」
起こさねばならないと述べて、ご自分の民にアッシリアの脅威からの救出を保証されました。
(ミカ 5:5)
聖なる年の最後の祭りである仮小屋の祭りにふさわしい最高潮として、
八日目は聖なる大会、聖会の日、完全な休みの日とされました。
(レビ記23:36,23:39; 民数記29:35)
 
十 10は何かの満ち満ちた様、全体性、総計、存在するものの合計を表わす数です。
また、7と10の数が一緒に用いられている場合、7はより高く、優れたものを表わし、10は下級のものを表わすことにも注目できます。
 
エジプトに注がれた十の災いは、エジプトに対する神の裁きを十分に表現しました。エジプトの偽りの神々に徹底的な屈辱を被らせ、
神の民イスラエルに対するエジプトの束縛を断ち切るにはそのすべてが必要でした。
「十の言葉」は律法契約の基本法を構成し、600ほどの他の律法は単にそれらを敷えんし、明瞭にし、その適用を説明したものでした。
(出エジプト記20:3~20:17、34:28)
イエスはご自分が話された幾つかの例えの中で,何かの全体もしくは数のそろった状態を示すのに10という数を使われました。
「そのとき、天の王国は十人の乙女と同じものであると言えるであろう。彼女たちは自分自身のともし火を取って、花婿を迎えるために出て行った」。
(マタイ25:1)
 
 
 
ダニエルの幻に出て来る野獣の一つと,黙示録・「啓示」の書に描かれている幾つかの野獣には10本の角がありました。
それらは,野獣のような取り決めを構成する地のすべての権力,つまり「王」たちを表わしていたようです。
(ダニエル7:7,20,24; 黙示録12:3; 13:1; 17:3,7,12)
黙示録・啓示 2章10節には、神がご自分の僕たちのためにお定めになる、
もしくは僕たちが遭遇するのをお許しになる試練もしくは試練の期間が次のように表現されています。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはならない。
見よ、悪魔はあなた方のうちのある者たちを次々に獄に入れるであろう。それは,あなた方が十分に試されるため、また十日のあいだ患難に遭うためである」。
 
十二  12 族長ヤコブには12人の息子がいて、その息子たちはイスラエルの12部族の基礎となりました。
神はそれらの息子たちの子孫を神の国民として律法契約のもとに組織されました。
したがって、12は神によって制定された、完全な、釣り合いの取れた取り決めを表わしているように思われます。
(創世記35:22; 49:28)
神(ヤハウェ、エホバ)は12使徒を選ばれましたが、彼らはイエス・キリストの上に築かれた新しいエルサレムの副次的な土台を成しています。
(マタイ10:2‐4; 黙示録・啓 21:14)
「[霊的]イスラエルの子ら」には12の部族があり、各部族は1万2,000人の成員で成り立っています。
(黙示録・啓 7:4‐7:8)
 
12の倍数も重要な意味を持つ場合があります。ダビデは後にソロモンによって建てられる神殿で24組の祭司たちが交替で奉仕するように定めました。
(歴代第一 24:1‐24:18)
このことは、白い外衣をまとい、冠を頂いて神のみ座の周りに座った「二十四人の長老」を見分けるのに役立ちます。
(黙示録・啓示4:4)
イエス・キリストの足跡に従うキリストの霊的な兄弟たちは、天でキリストと共に王権と祭司職を受けることを約束されています。
これらの長老たちは、わずか12人から成る使徒たちだけであるはずはありません。
ですから、24人の長老は「王なる祭司」、すなわち冠を頂いた王また祭司として天におけるその立場に就いた(神殿で仕える24の祭司の組によって表わされている)
14万4,000人の全体を表わしていると思われます。
(ペテロ第一 2:9; 黙示録・啓示7:4‐7:8; 20:6)
 
四十  40 二、三の例では、裁きまたは刑罰の期間が40という数と結び付けられているようです。
(創 7:4; エゼ 29:11,12)
ニネベは悔い改めるために40日を与えられました。
(ヨナ 3:4)
40という数のもう一つの用法は、イエス・キリストの生涯と、キリストの予型となったモーセの生涯との類似性に注意を向けています。
この二人はいずれも40日間の断食を経験しました。
(出エジプト 24:18; 34:28; 申命記9:9,9:11; マタイ4:1,2)
 

                 













2016-08-24の再掲