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聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

「神に近づく」・・・聖書

2018年05月07日 | 日記

 

『神に近づく』

神は『不公平な方ではない』

あなたは差別を受けたことがありますか。肌の色や民族的背景や社会的地位が異なるという理由で,

要望を受け入れてもらえなかったり,サービスを拒否されたり,あるいは軽蔑されたりしたことがありますか。

あるとしても,それはあなただけではありません。

人がそのようにして他の人に屈辱を感じさせることはよくありますが,神が人にそうなさることはありません。

クリスチャンの使徒ペテロは,全き確信を抱いて,『神は不公平な方ではありません』と言いました。

『そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」』。
聖書(使徒行伝10:34.35)



ユダヤ人であったペテロがそう言ったのは,極めて異例な場面すなわちコルネリオという名の異邦人の家でのことであり,
ユダヤ人が異邦人を汚れているとみなし,どんな交友も許されないと考えていた時代です。
では,ペテロがコルネリオの家にいたのはなぜでしょうか。それは,二人が知り合うよう神が導かれたからです。
ペテロは神からの幻の中で,「神が清めたものを汚れていると呼んではならない」と言われたのです。
ペテロは知りませんでしたが,その前日,コルネリオも幻を与えられ,その中で天使から『ペテロを呼びなさい』という指示を受けていました。

『さて、カイザリヤ(カエサレア)にコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で,
信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。
ある日の午後三時ごろ、神の使が彼のところにきて、「コルネリオよ」と呼ぶのを、幻ではっきり見た。
彼は御使を見つめていたが、恐ろしくなって、「主よ、なんでございますか」と言った。
すると御使が言った、「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。
ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。
この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている」。
このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び,
いっさいの事を説明して聞かせ、ヨッパへ送り出した。
翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。
彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。
すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
ペテロは言った、「主よ、それはできません。
わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」』。
聖書(使徒行伝10:1~10:15)


ペテロは,その出来事に神の介入を認めると,ためらうことなくコルネリオと話しました。
ペテロは,『神が不公平な方ではない,ということがはっきり分かります』と言いました。
聖書(使徒 10:34,35)


「不公平な方」と訳されているギリシャ語の字義は,「顔を受け取る者」です。
(「ギリシャ語聖書 王国行間逐語訳」[英語])
この語に関して,ある学者は,「人の顔を見て,つまり事の理非によってではなく,
当人に対する自分の好き嫌いの感情によって判決を下す裁判官を指す」と説明しています。
ですから,神が人の顔を別の人の顔以上に,人種,国籍,社会的立場,
あるいは他の何らかの外的要素ゆえに好意的にご覧になる,ということはありません。


神は,顔ではなくにあるものをご覧になります。
『しかし神はサムエルに言われた,「その容姿や丈の高さを見てはならない。わたしは彼を退けたからである。
神の見るところは人の見るところと異なるからだ。人は目に見えるものを見るが,神はがどうかを見るからだ」』。
(サムエル記第一 16:7)

『人の道は自分の目には正しく見える、しかし主(神)は人の心をはかられる』。
聖書(箴言 21:2)

ペテロは,『神は不公平な方ではない』と述べたあと,
「どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる」と言いました。
(使徒 10:35)

神を恐れるとは,神を尊び,敬い,信頼し,神に不快な思いをさせないということであり,義を行なうとは,神の目から見て正しいことを進んで行なうことです。



神は,人が心に抱く畏敬の念に促されて正しいことを行なうとき,喜ばれるのです。