哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

自律と道徳的責任

2010-04-11 21:07:57 | Weblog
Arpalyの本の4章5章は、自律autonomyが道徳的責任(精確には、moral praiseworthinessとblameworthiness)の必要条件ではないとする議論を展開している。通常われわれは、道徳的責任を帰す条件として当事者が自律的に行為をしたかを重んじるように思われる。それは哲学者も変わりはない。マイケル・スミスはその一人だし、他にも合理的熟慮の役割を重視するC. コースガードのような論者や、1階の欲求が真に自らが深くコミットしている価値に適っていること(すなわち真正さauthenticity)に責任の条件を見出す論者(少し微妙だが、D. ヴェレマン)は、その代表的論客である。というわけでArpalyの議論は、そうしたわれわれの直観のみならず、哲学者の確信に挑戦するものとなっている。

上記でも明らかなように、自律は様々なかたちで論じられる傾向にあるため、分節化が必要である。Arpalyは様々な形式の自律を論じているが、主たるターゲットとするのはagent-autonomyである。agent-autonomyは他の動物ではできないとされる自己コントロールや自己支配を意味するもので、行為者が動機状態のうちどれかを選びそれを行為へとつなげるという流れ(実践)を含意するものである(p. 118)。このagent-autonomyはカント主義者や多くの行為論の哲学者の議論に見え隠れするもので、われわれの直観を捉えているものである。

問題は、このように規定されるagent-autonomyを道徳的責任の条件としてしまうと、われわれの行為の大半が帰責し得ないものとして扱わざるを得ないという点だ。たとえばこのagent-autonomyを理由応答性reason-responsivenessと同一視する立場は現在でも有力な学説(Fisher and Ravizzaなど)だが、もし特定の理由への応答を邪魔するものがなんらかのかたちで(本人の意識を伴わずに)もたらされたら、そのせいで責任を見出せない(あるいは低減される)ことになる。洗脳や中毒などはそうした例としてよく言及される。

問題はそうした理由への応答を妨害する要素が共時的に、さらには通時的に見出されることは、われわれの普段の生活では頻繁にあるという点だ。加齢やホルモンバランスの変化、恋愛や孤独感、家庭環境の違いなどは、そうした妨害要素となりうるものである。もしいちいちそうした要素を免責ないし責任低減を正当化する条件とみなすとすれば、ほとんどの人には行為の帰責性が問えないことになる。Huckleberry Finnのケースのように、agent-autonomousとは言い難い、あるいはそうしたagent-autonomyを完成させるcharacter-building exercisesを経ていない行為も、道徳的に賞賛に値するものではなくなってしまう(pp. 125-130, 138-139)。

だからこそArpalyは、道徳的責任を原初的な自律を意味するagent-autonomyを条件とするのではなく、端的にどの程度の道徳的に適切と言える考慮に配慮していたか(すなわち道徳的理由に直裁に応答する行為をする動機次第)で、責任の有無あるいはその大小が測られるとする議論を展開するのだ。それゆえ非難に値するということが意味するのは、罪深い動機をもっているかもしくは道徳的価値とされるものへの無関心の程度で決まってくることになる(pp. 130-132)。

ただ留意事項が2つある。第1に責任(あるいはblameworthiness)と制裁や罰則(端的にblame)を区別する点である。われわれがもしagent-autonomousではない行為に制裁や罰則を与えるとしたら、自責や心理的防御が働いて何も行為できなくなってしまうかもしれない。しかし責任性(blameworthiness)と制裁や罰則(blame)を分けていれば、そういう問題は起こらない。というのも、blameworthyな行為をした人を常にblameすることが望ましいわけではないことは、容易に指摘しうるからである(pp. 143-144)。

第2に、agent-autonomyと抽象化や一般化の思考にみられる(他の動物にはない)高次の能力や反省的能力を区別することの重要性である。後者は前者と違って、常に自らの欲求を信念をベースにコントロールする能力を意味するものではなく、他人の振る舞いなどをみて自らの振る舞いを改めることができる潜在的能力を示すものである。後者が道徳的責任の必要条件であるとするのは当然だとしても(Huckのケースでもそれは充分言える)、前者はそれよりも明らかに強い条件である(pp. 146-147)。洗脳や中毒あるいはその他の精神的病が免責条件になるかどうかは、実はこの後者の能力が関わっているのではないか。そのことを例証する試みを、Arplayは5章で行っている。

[感想]Arpalyの議論を受けて、agent-autonomyを責任の必要条件にするという議論は、もはや支持することはできないのではないかという思いを強く抱く。しかし、このArpalyの議論がコントロールを軸とした議論すべてを拒絶するものであるかというと、そうではないように思われる。とくにArpalyの議論は、合理的熟慮に限る実践合理性概念を拒否するものの、合理性概念を広く捉えれば自己コントロールとしての責任論を否定するものではなくなる。その際に鍵となるのは、やはり上記第二の点である。他者の振るまいをみて何かを得るわれわれの抽象化・一般化能力は、道徳的理由への応答性の前提条件とも言うべきもので、それをぬきに道徳的理由に応答する行為者は単なるmoral wantonだろう。かといってその能力はArpalyが喝破したように、agent-autonomyをつかさどる実践理性のようなものでもないだろう。前者にしても後者にしても、それを責任の必要条件とすることは、ほとんどの人を免責してしまうことになる。おそらく潜在的な抽象化・一般化能力は、自覚的コントロールというよりは他人の道徳的振る舞いの模倣を行える能力という、われわれが昔から何気なしにやってきたとと関わっているのではないか。なんだかSetiyaの議論に近い話になってきたが、おそらく小生の立場はこうしたHume系のsentimentalismに収斂しそうである(生煮え的だが・・・)。これと、認識的徳性の話とをどう折り合わせようか、うーん。

1 コメント

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道徳責任について (amitani)
2010-04-12 01:05:55
お世話になってます、amitaniです。
学部の時に、戸田剛文先生の授業に出たことがあって、そのときHarry Frankfurtの'Alternate Possibilities and Moral Responsibility'という論文を読んだことを思い出しました(難しくてあんまり理解できなかったのですが)。

「理由への応答を妨害する要素」と反省能力を加味した議論はすごく納得できました。


ところで、以前から、気になっていることがあるのですが、ある行為に対する道徳責任と、その行為の結果について認知していることにはどのような連関があるのでしょうか。


例えば、私が道を歩いていると、一人の男が寄ってきて「このボタンを押してくれませんか?報酬は一万円です」と言ってきたとします。私は怪しみながらもボタンを押して、一万円をせしめます。
しかし、実はそのボタンは、ある村全体を吹き飛ばすようにセットされた核爆弾の発射スイッチだったのです。私がをそのボタンを押した瞬間に、八千人ほどの人の命が木っ端微塵になり、その村は消え去ってしまいました。
しかし、そのことは私には知らされません。男は私に一万円を渡すと、その場から立ち去って雑踏に消えていきました。私は後日ニュースで、ある村に核爆弾が投下されたことを知るかもしれませんが、まさか自分が発射ボタンを押したのだとは思いません。
私は、果たして道徳的な責任を負っているのでしょうか? あるいは道徳的な罪を犯したのでしょうか?
一般的には、その行為の帰結について認知していないと、道徳責任は発生しないような気がします。


長々と失礼しました。
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