【タイ山岳民族の村に暮らす】

チェンマイ南西200キロ。オムコイの地でカレン族の嫁と綴る“泣き笑い異文化体験記”

【理解できる人・できない人】

2005年01月13日 | 天翔ける我がカミさんに捧ぐ相聞歌
 いまの僕にとって、世の中には2種類の人間しか存在しない。
 
“カミさんを現在形で語ることのできる人”と“語れない人”。
 言葉を換えれば、僕とカミさんの関係を“理解できる人”と“できない人”だ。

 おかげで、身辺がずいぶんとスッキリした。
 大学時代に知り合った2人の友人とも、すっぱりと縁を切った。

 たとえば、僕が信頼する3人の山仲間とカヌー仲間は、こんな風に言ってくれる。
 “いまの幾子さんは、自由でいいよな。車椅子もいらなくなって、山だろうが川だろうが、お前さんと一緒にどこにでも行けるんだからな”

 これが「理解できる人」の代表例だ。

 けれど、「理解できない人」には、まったく何も分からない。
 
 たとえば、僕が「歌舞伎座でカミさんと初芝居を観て来たよ」と言う。
 すると、その人はキョトンとした顔で、こんな風に聞く。
「え?それって、いつの話?」
「ついさっき、キミと会う少し前だよ」
 すると、その人は妙な顔をして、こんな事を言うのだ。
「まさか、そんなこと、できるわけないじゃん・・・」

 これが「理解できない人」の代表例だ。

 無論、人はひとりで生きていくことはできない。
 山でも川でも仕事でも、基本的に“単独行”を好むこの僕ですら人の支えなしにはここまで生きてくることはできなかった。

 けれど、これからは少し考え方を変えざるを得ない。
 カミさんの旅立ちを通じて、“理解できない人には永遠に理解できない”という事がハッキリと分かったからだ。また、理解してもらうために費やす無駄な時間も一切ない。

 「ふるいにかける」と言えば不遜に聞こえるだろう。
 だが、今後僕がカミさんと共に生きていくためには、人をふるいにかけることがどうしても必要になってくる。
 約1年半に及ぶ看護生活の結果「全身ボロボロの状態」(腰痛を診てもらっている整体師の言葉)の僕にとって、“人を選ぶ”ことはとても重要な仕事なのだ。

 会いたい人には、網走だろうがサンフランシスコだろうが、どんどん会いに行く。
 手紙を書きたい人には、首相だろうが大統領だろうが、どんどん書いてしまう。
 それを実行するためにも「理解できない人」と付き合っている暇は、まったくない。

 もともと、カミさんも僕も本当に好きな人とだけ付き合うタイプで、しかもベタベタした関係を好まない。
 ときおり、最初からベタベタしてくる人もいたが、そんな人に限ってある日突然態度を変え、陰口を言い出したり根も葉もない噂を流したりする。
 いま思えば、本当に無駄な時間を費やしてしまったものだ。

 今回の“ふるい”を通じて、古い友人・知人の数は随分と少なくなった。
 反面、「理解できる」あるいは「従来以上に理解し合えるようになった」新たな友人・知人およびカミさん公認の素敵なガールフレンドの数は、飛躍的に増大した。
 つまり、チャラ以上の大成果である。

 副業・高校音楽教師、本業・カヌーイストの年上の友人は、河原での焚き火を囲みながらこう言ってくれたものだ。

“幾子さんには、人を惹き寄せる不思議なパワーがあるんだよな。それに較べれば、お前さんはまだまだ修行が足りないぜ”

 うーむ、なるほど。
 確かに、僕はいま、いつも背中にカミさんの“プッシュ・パワー”(元大関・小錦の言葉)を感じながら、昨日は整体治療、今日は歌舞伎見物、明日は不眠症治療とコマネズミのように走り回っている。

 だから、僕もその友人に心の中でこう言い返した。

“そうだよな。考えてみれば、結構すげえ女だぜ、ウチのカミさん。自慢じゃないけど、惚れ惚れするようないい女だしさ・・・”

 焚き火がパチンとはぜた。
 「どうだ、どうだ参ったか!」
 カミさんが腕まくりし、片足をどんと踏み出して僕に向かって大見得を切る。
 

 


















 


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