バンマスの独り言 (igakun-bass)

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唐突に「コンチネンタル・タンゴ」

2009年09月23日 | 音楽:ポピュラー系
僕が音楽を好きなのは他でもない、両親の音楽好きを受け継いだものである、と思う。で、唐突なのだが今日は「コンチネンタル・タンゴ」のことを。


母は僕が18歳の春に心臓弁膜症で東京女子医大に入院中に47歳の若さで死んだ。
僕がポピュラー音楽、特に後にロックと呼ばれる音楽を好きになり、小学校6年生の時からドラムを叩き始めたきっかけは母の強い影響である。
母は独身時代、職場のバンドでドラムを叩いていたそうだ。それが遺伝したのか、ベンチャーズやビートルズ、ストーンズなどのドラムを見よう見まねでマネするようになった。数年でその興味が高じてドラムセットを買ってもらうことになる。

母は当時「不良音楽」と呼ばれていたロックを集中的に聞き込んで、周囲の友人に影響を与える息子(僕)への周囲(友人の親など)の非難からいつも僕を守ってくれた。小学校の父兄会でも周りの父兄からだいぶ問題視されていたらしい。
でも母は毅然として「ロックのどこが悪い!」と言い放ったそうだ。
母は強い人だった。
だから僕は12歳でもうロック少年になってしまった。


一方現在87歳の父は先日「要介護認定」を受けるほど、老化が進んでしまった。さらに先月医者の診断で「アルツハイマー型認知症」と認定されるほど問題児!になってしまった。
その父は当時国内で流行していたラテンとかタンゴとかのダンス音楽が好きだった。
僕の当時の担任の先生をコンサートやダンスホールに誘うほどで、今の時代ではそういう関係はちょっと考えられないが、先生もよく付き合ってくれたらしい。きっとウマがあったんだろう。
また父は仕事から帰れば毎日のように食後はウイスキー片手にレコード鑑賞だった。けっして裕福な家庭ではなかったが、音楽が絶えず流れる洋風な家庭だった。

父にはたくさんのLPコレクションがあったように記憶する。タンゴ関係だけでも今現在倉庫の片隅に残っているレコードは、

フランシスコ・カナロ楽団
パルナバス・フォン・ゲッツィ楽団
リカルド・サントス楽団
ザビア・クガート楽団
マランド楽団
などがあり、その中でも親子して一番好でいつでも聞いていたのが、
アルフレッド・ハウゼ楽団だった。



今考えてみると母からはビート感覚、父からはメロディー感覚を植えつけられたようだ。

その中で思春期に入りかかった僕が一番影響を受けた音楽がコンチネンタル・タンゴ(大陸のタンゴの意)だった。
もちろんその頃の僕は60年代のロックはもちろん、クラシックのほうもかなりの量を聞きこんでいたのだが、ウイスキーをおいしそうに飲む父の傍らで普及し始めたステレオ・セットから流れ出る流麗なアルフレッド・ハウゼのその音楽にに耳を奪われていた。そしてハウゼは我が家の一家団らんの音楽だった。


アルフレッド・ハウゼ・タンゴ・オーケストラはドイツの楽団である。弦のセクションにはクラシック系の奏者もかなりいたようで、そのサウンドは泥臭い本場のタンゴとはまったく趣の違うシンフォニックなものだった。
ハウゼは父より1歳年上で2005年に死んだ。
もともとバイオリン奏者だったらしく、ストリングスの流麗なハーモニーにオーボエやハープやバンドネオンを重ねていく芳醇極まりないオーケストラ・サウンドは、本場のタンゴが持つ土着的・民族的なサウンドに比べ、軽く流れていく貴族趣味といっていいゴージャスさだ。



僕はこのいかにも大人びたスマートさが好きだった。そしてその音楽はいかにも「洋酒」に合った。
父は先ほど書いたようにウイスキーがそのころ大好きだった。僕は興味半分にその液体をよくなめた。
どうしてこんなまずいものがうまいんだろう、そういつも思った。
けれどハウゼのコンチネンタル・タンゴはこのまずいお酒の色によくなじんで、一家だんらんに花を添えた。

コンチネンタル・タンゴは僕の音楽ルーツの重要な部分をしめている、かもしれない。



19世紀の後半、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスの下町に生まれたアルゼンチン・タンゴは、20世紀の前半にはヨーロッパにも渡り、そこでは新たなスタイルのタンゴが生まれた・・・これが一般的なコンチネンタル・タンゴの説明だ。
つまりアルゼンチンがオリジナルで、そこから派生したのがコンチネンタル・タンゴということになるが、両者の関係はそう単純でもない。

あるタンゴ研究家はタンゴの歩みを女性の人生にたとえて、
「タンゴはアフリカ生まれの母とヨーロッパ人を父にして、モンテヴィデオ(ウルグアイの首都)で生まれた。そしてブエノスアイレスで育ったが、大人になってダンスの好きな美人になり、ヨーロッパへ渡って、パリ、ローマ、ウィーン、ロンドン、ベルリンなどで花嫁修業をして、ブエノスアイレスに帰り、イタリア人と結婚した」と書いている。

今書いた話でコンチネンタル・タンゴの大まかな雰囲気が分かってもらえると思うが、情熱と洗練と流麗と陶酔が複雑にブレンドされたこの音楽をまだ子供のうちから聴いて影響を受けた僕の音楽観というか音楽センスは、後にロックやクラシックなどと合流して出来上がったものだと考える。

僕の音楽好きのルーツなど、どうでもよいことだが、最近年老いた父を見ていて思うのだ。
音楽は人生の最後の最後まで心の中にあるはずじゃなかったのか、と。
あんなに父が好きだったハウゼを聞かせても、彼の反応はごくわずかだ。
脳の病気なんだから仕方がないと思う反面、あまりにも悲しいことだという僕の落胆は抑えきれない。

家族みんなで聴いていたコンチネンタル・タンゴ。
元気だったころの母の笑声が思い出される。ステレオの前の低いガラステーブルに肘をついて目の前のウイスキーグラス越しに見たハウゼのレコード・ジャケット。
赤いドレスをまとったラテン系らしき女の人の妖艶な微笑み。
名曲「碧空」の澄み切った秋の空を思わせる気持ちの良い音楽。
「真珠採りのタンゴ」で聴けるビゼーのオペラからの一節。
「ヴィオレッタに捧し歌」の元歌、ベルディの椿姫のアリア。

CDの時代になって僕はハウゼをいくつか揃えた。
昔からあるドイツ・ポリドールの演奏を収めたものと90年代半ばに新たに組織したメンバーと最新デジタル録音されたものなど。
デジタル録音盤は確かに音に混濁がなく澄み切った美しい音質だ。一方、昔のアナログ録音はと言えば、音質では多少見劣りがするがオリジナル・アレンジの素晴らしさはやはり忘れられないほどすばらしい。

新旧のアレンジは大筋において(もちろん両方ともハウゼ本人のアレンジなので)変わらないが、楽器の使い方(選び方)に数々の変更がある。昔聞いた鳴るべき時に鳴るべき楽器が違う、というのは僕は嫌だ。
デジタルはあの頃の温かい家族のだんらんを思い返せない。
ちょっと前なら父もその違いに気づき、違和感を覚えたに違いない。


たくさんのハウゼによる名曲を今また父とともに聴いている。
父の顔に感動の色はないが、きっと心の奥底で楽しかったあの頃の一家団らんをかすかに思い出していることだろう。

老いた父の横顔を見て、あの「コンチネンタル・タンゴ」のことを書きたくなったのだった。「三丁目の夕日」のころがなつかしい。


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3 コメント

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ひぇ~~~!! (yoko)
2009-09-24 02:45:26
バンマスのお母様東京女子医大で亡くなられたんですね・・・私東京女子医大で生まれました。お母様の生まれ変わりかしら・・・しかも私の母もtango大好きです。つい最近までダンスをやっており、大会とかは情熱的なtangoでダンスを披露してたものです。今年82歳ですが、まだ車の運転バリバリなんですよ。昔からどこに行くのも自分で運転していきます。芸事とか華やかなことが好きで、今は日本舞踊の名取になって年に2回程発表会で踊ってます。4年くらい前の発表会ではなんと・・・「八百屋お七」を踊ったのです。お七は、ム・ス・メですよ~~。ははは78歳のむすめ!
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続編・・・ (yoko)
2009-09-24 03:02:49
でもね・・そのお七が寺の小姓「吉三」に激しく恋慕し、なぜか、再会したい一心で気が狂い、江戸の町を放火するシーン「はしごを昇り半鐘を叩くシーンです」ここでは母がえらく色っぽい女に見えましたよ。と、同時に涙が出ました。幼いころからの母への思いがね、走馬灯のように浮かんできましたんです。はい・・・
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いつまでも親は親 (igakun@発行人)
2009-09-25 20:08:56
>yoko さま

介護はね、時には腹が立つし、時には今まで育ててくれた感謝の気持ちから優しい気持ちで接することもあるし、悲しい気分になることもあるし・・・要するにすごいストレスになってます。

父親の今までの人生経験や知識や人間味が日を追うごとに消えていくさまを正視するのはとてもつらいことではあります。
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