雨ニモマケズ 宮沢賢治 朗読
この詩は日本人ならほとんどの人が知っていると思われる有名な詩です。
中学生くらいに習ったように思いますが、ほとんど忘れていました。
そして、先日この詩のことで前に取り上げさせていただいた
「抜萃のつづり その七十七」に書かれていた鍋島直樹氏(龍谷大学教授)のエッセイを読み、感銘を受けました。
そのエッセイは
「雨にもマケズ」のこころ
というタイトルで書かれていましたが、
この詩の中で宮沢賢治が大切にしていた言葉とは何か?との問いを発していました。
みなさんはわかりますか?
私は、このエッセイを読ませていただくまでわかりませんでした。
答えを言ってしまうと宮沢和樹(賢治の弟清六の孫)によると、「行って」という言葉だということです。
この東西南北へ「行って」できることをする(何か助言するとか微笑んでいるだけでもかまいません)という行為こそが、賢治が言いたかったことらしいです。
でも、これが簡単にはできません。
「おせっかい」と思われたら、たまりません。
自分のことで精一杯な日常の中で他人のために「行って」できることをする。
それを恩着せがましくなく、お礼を言われなくても、自分の幸せのためにするのだという行為は本当に尊いことだと思います。
何か特別役に立つことができなくても、気持ちを重ねて寄り添うだけで、相手がどれほど安心するでしょう。心細さがどれほど和らぐことでしょう。
自分の所へもし、来てくれた時は、「本当によく来てくれました」と言えるように、
そして、困ってる人がいれば、ほんのささいなことでも助けになりたいものです。
(真剣に祈るだけでもいいと思いますが、それでは「行って」にならないのでしょうか?
「行って」は、だから難しいのです。)
この詩は日本人ならほとんどの人が知っていると思われる有名な詩です。
中学生くらいに習ったように思いますが、ほとんど忘れていました。
そして、先日この詩のことで前に取り上げさせていただいた
「抜萃のつづり その七十七」に書かれていた鍋島直樹氏(龍谷大学教授)のエッセイを読み、感銘を受けました。
そのエッセイは
「雨にもマケズ」のこころ
というタイトルで書かれていましたが、
この詩の中で宮沢賢治が大切にしていた言葉とは何か?との問いを発していました。
みなさんはわかりますか?
私は、このエッセイを読ませていただくまでわかりませんでした。
答えを言ってしまうと宮沢和樹(賢治の弟清六の孫)によると、「行って」という言葉だということです。
この東西南北へ「行って」できることをする(何か助言するとか微笑んでいるだけでもかまいません)という行為こそが、賢治が言いたかったことらしいです。
でも、これが簡単にはできません。
「おせっかい」と思われたら、たまりません。
自分のことで精一杯な日常の中で他人のために「行って」できることをする。
それを恩着せがましくなく、お礼を言われなくても、自分の幸せのためにするのだという行為は本当に尊いことだと思います。
何か特別役に立つことができなくても、気持ちを重ねて寄り添うだけで、相手がどれほど安心するでしょう。心細さがどれほど和らぐことでしょう。
自分の所へもし、来てくれた時は、「本当によく来てくれました」と言えるように、
そして、困ってる人がいれば、ほんのささいなことでも助けになりたいものです。
(真剣に祈るだけでもいいと思いますが、それでは「行って」にならないのでしょうか?
「行って」は、だから難しいのです。)