『三度目の殺人』予告編 9月9日(土)公開
昨日、たまたま時間が空いたので、是枝裕和監督(「そして父になる」や「海街diaryで有名)で福山雅治×役所広司×広瀬すず出演のこの映画を見てきました。(9月9日から上映しているので、もうすぐ上映は終わりますので、まだの方にはお勧めします)
見ていない人のために映画の案内チラシから引用すると、
「それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅(役所広司)が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし、弁護を担当することになった重盛(福山雅治)は、なんとか無期懲役に持ちこむため調査を始める。
何かが、おかしい。調査を進めるにつれ、重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が、会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが、週刊誌の取材では被害者の妻・美津江(斉藤由貴)に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには、被害者の娘・咲江(広瀬すず)と三隅の接点が浮かび上がる。重盛がふたりの関係を探っていくうちに、ある秘密に辿り着く。
なぜ殺したのか?本当に彼が殺したのか?得体の知れない三隅の闇に飲み込まれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない。そう信じていた弁護士が、初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける慟哭の真実とは?」
この言葉と予告編から想像していただくしかないが、
「殺人の動機は何か」が非常に大きく関係している。
ヒントは東野圭吾の「容疑者Xの献身」である。(と言っても、これを知らないとヒントにはならないが)
自分が見終わって、「うーん」と重いためいきをつく。特に笑うわけでも、泣くわけでもない。
これが、名作というものだろう。
そして、映画では「理不尽」と言っていたが、なぜか「不条理」という言葉が頭に浮かんだ。
「不条理」とはウィキペディアによると、
不条理(ふじょうり)は、不合理であること、あるいは常識に反していることを指す。英語の absurd、フランス語の absurde、ドイツ語の Absurdität の訳。これらはいずれもラテン語の absurdus を語源とする。このラテン語の意味は「不協和な」(cf. Cicero, De Oratore, III, 41)。
不条理とは何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。不条理とは通常の予測を外れた行動または思想であり、不条理な推論とは非論理的な推論である。
と書いてある。
この映画で三隅がとった行動とはそのようなものではなかったか?
いや、決して不合理ではない。滑稽でもない。しかし、常識に反しているからこそ、重盛以外に見破られずに「死刑」になるのである。
この映画、他にも吉田剛太郎、満島真之介、市川美日子、橋爪功ら実力派が出演し、美術監督の種田陽平氏、音楽はルドヴィゴ・エイナウディ氏が担当されている。そのため、特に音楽と画面がマッチしている。
「三度目の殺人」の意味がわかるだけでも、見る価値は大きいが、「裁判とはこうした間違いを起こすものだ」ということがわかれば、なお素晴らしい。
昨日、たまたま時間が空いたので、是枝裕和監督(「そして父になる」や「海街diaryで有名)で福山雅治×役所広司×広瀬すず出演のこの映画を見てきました。(9月9日から上映しているので、もうすぐ上映は終わりますので、まだの方にはお勧めします)
見ていない人のために映画の案内チラシから引用すると、
「それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅(役所広司)が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし、弁護を担当することになった重盛(福山雅治)は、なんとか無期懲役に持ちこむため調査を始める。
何かが、おかしい。調査を進めるにつれ、重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が、会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが、週刊誌の取材では被害者の妻・美津江(斉藤由貴)に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには、被害者の娘・咲江(広瀬すず)と三隅の接点が浮かび上がる。重盛がふたりの関係を探っていくうちに、ある秘密に辿り着く。
なぜ殺したのか?本当に彼が殺したのか?得体の知れない三隅の闇に飲み込まれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない。そう信じていた弁護士が、初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける慟哭の真実とは?」
この言葉と予告編から想像していただくしかないが、
「殺人の動機は何か」が非常に大きく関係している。
ヒントは東野圭吾の「容疑者Xの献身」である。(と言っても、これを知らないとヒントにはならないが)
自分が見終わって、「うーん」と重いためいきをつく。特に笑うわけでも、泣くわけでもない。
これが、名作というものだろう。
そして、映画では「理不尽」と言っていたが、なぜか「不条理」という言葉が頭に浮かんだ。
「不条理」とはウィキペディアによると、
不条理(ふじょうり)は、不合理であること、あるいは常識に反していることを指す。英語の absurd、フランス語の absurde、ドイツ語の Absurdität の訳。これらはいずれもラテン語の absurdus を語源とする。このラテン語の意味は「不協和な」(cf. Cicero, De Oratore, III, 41)。
不条理とは何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。不条理とは通常の予測を外れた行動または思想であり、不条理な推論とは非論理的な推論である。
と書いてある。
この映画で三隅がとった行動とはそのようなものではなかったか?
いや、決して不合理ではない。滑稽でもない。しかし、常識に反しているからこそ、重盛以外に見破られずに「死刑」になるのである。
この映画、他にも吉田剛太郎、満島真之介、市川美日子、橋爪功ら実力派が出演し、美術監督の種田陽平氏、音楽はルドヴィゴ・エイナウディ氏が担当されている。そのため、特に音楽と画面がマッチしている。
「三度目の殺人」の意味がわかるだけでも、見る価値は大きいが、「裁判とはこうした間違いを起こすものだ」ということがわかれば、なお素晴らしい。