長野県産のつがるなど、今年生りのリンゴが出始めた。新鮮なのをしゃきっと頂くのもいいけれど、この時季、ゆく秋を惜しんで、秋果をもっぱら梨に集中している。去年あたりまでは、梨の王者は幸水と見切って、9月に入って豊水が出る頃には撤収していた。しかし、今年は豊水の色形の立派なのを見付けて試しに食べると、幸水と何らそん色なく美味だった。これまで甘みもジューシーさも劣ると先入観があったのが間違いだった。盛期が過ぎる前にせっせと頂こうと思う。
今日は何の日と数えれば、「消費税10%に増税の日」のほかに、「コーヒーの日」であれば、「日本茶の日」でもあり、暑から寒への季節の変わり目のため、心の持ちようの曲がり角として数え上げたらキリがない。
今日は何の日と数えれば、「消費税10%に増税の日」のほかに、「コーヒーの日」であれば、「日本茶の日」でもあり、暑から寒への季節の変わり目のため、心の持ちようの曲がり角として数え上げたらキリがない。
豊臣秀吉が北野大茶会を催したのがこの日だったのか。藤原道長が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」、と詠んだのと同じくらい誇らしかったろうなあ。11年後には息子の後見を五大老らに託して、「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪華のことは 夢のまた夢」、と辞世した。執着すればするほど儚いものである。預かっていた猫をあんなに可愛がっていたのに、飼い主の娘一家が1カ月余りでさっと持ち帰った。別れてもう2週間近く経つけれど、夢の中でなく生きながらにして大阪城炎上を目に突き付けられるような悲しみが増す一方である。猫の身代わりにけさ、玄関脇の水場にバッタが来訪してくれた。つぶらな瞳がひときわ可愛いけれど、抱くこともならず、肉球もなく、飼ったところで寿命が物足りなさそうなので、好きに飛ばせてやった。
きょうの誕生日の花は金木犀というけれど、毎年芳香をもたらすご近所の年季の入った樹はまだ青葉のみで、一輪の小花も綻んでいない。10月というのに30度近い気温が続いているから開花が遅いのかもしれない。トゥンベリさんが声を荒げるはずである。花言葉は「高潔な人」とかで、滝川クリステルさんのお誕生日でもあるそうな。ポエムでセクシーな新婚生活を送っていると思いきや、議員宿舎がペット禁止で愛犬が入れないため別居生活中だという、余計なお世話の記事が目に入った。
猫ロスの胸の痛みを紛らわせるため、爺仲間の秋の仙台・松島旅行の日程づくりに、余計なお世話だと貶されながら、精を出している。仙台ならまず牛タン、の案を出したら、肉はチョットねえ、の声が出た。今春、大阪に旅行した際も、鶴橋の朝鮮焼肉を主張したのに、歯がチョットねえ、と拒絶された。本物のマラソンも人生のマラソンも、ゴール近くになるとばらつきが大きくなる。ああ云やこう言う、ばっかり。翌日は松島海岸に行って、湾島巡りクルーズ船に乗って、牡蠣で祝杯を挙げることには異論は出なかった。秋保温泉辺りの紅葉は時間的にキツそうである。まあ、生存確認の会合なので、そう無理をすることはない。
ゆく秋を しづくに残す 梨を食ひ
別れし猫の あとぞ偲ばゆ
別れし猫の あとぞ偲ばゆ