天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

太平記3

2022-07-05 12:50:40 | 日記

 先帝後醍醐は警固の尊王義士、佐々木富士名(ふじな)判官や船乗りの機知にって隠岐の島脱出に成功。これを聞きつけた各地の討幕派が挙兵した。神戸の摩耶山を拠点とする赤松入道円心と貞範、則祐親子ら討幕軍はいよいよ六波羅幕府方が支配する京の都に攻め上った。洛西の桂川で両軍対峙し大合戦となった。数に勝る幕府方は河野九郎左衛門尉、陶山次郎らの奮戦によって討幕勢をいったん撃退した。
 しかし、戦争には手柄を挙げたいけれど危ない橋は渡りたくない、せこい人間が居るのは昔も今も同じ。軍奉行の大役を任せられた隅田、高橋両名は大した戦闘もしなかったのに、掃討し終わった京中を駆け回り、道端や溝に落ちていた戦死者や瀕死者の首を狩って手柄にした。それだけでは大した報奨にありつけないと思ったのか、そこいらに居た町人や百姓の首まで取って、適当に首級名を付けて戦勝報告した、というから下種も極まっていた。
 この結果、敵大将の赤松円心の首が5つも検死場に運び込まれたという。前線に出て標的を正確に狙うのを厭い、後陣から砲、ミサイルをめくら撃ちし、民家、アパート、スーパーなど民間施設を破壊し尽くすウクライナ侵略のロシア兵と同じような戦犯行為は昔からあった。太平記でなく狂乱記として永遠に歴史に残り、語り継がれるであろう。
 なお、口さがない京童は、討たれもしない赤松入道を討った討ったと虚偽報告するとは、「武家の滅ぶべき相なり」と嘲った。

 


太平記2

2022-07-04 12:38:49 | 日記

 軍記物『太平記』を読んでいると、昔も今も東も西も、戦いの実相は違わないと感じ入る。ロシアの大義無きウクライナ侵略戦争を傍で実見しなくても、戦いぶりが手に取るように分かるのが古典名作の力である。
 第6巻の9章「赤坂合戦幷びに人見本間討死の事」は長い経緯の結末が浅はかで醜い。まず、天皇方の赤坂城を幕府方が数十万の兵を投入して攻略に掛かる。雲霞の如き兵が出揃ってからでは自分の見せ場が作れないと、武蔵野国の住人、人見四郎入道恩阿は73歳の老武士ながら、末代までの家運を上げるため抜け駆けして見事、討死した。辞世の歌として、「花さかぬ 老木の桜 朽ちぬとも その名は苔の 下にかくれじ」を残した。この辺りは潔く文学だけれど、そのあと戦争のリアルが出てくる。
 赤坂城は山城で水利が悪いのに、包囲されても抗戦を続けられるのは、隣接の山から樋を通して受水しているのだろうと気付いた六波羅幕府方は、怪しい所を掘り続けて導管を発見。これを破壊して水の供給を妨害した。これで戦闘力を無くした城の大将、平野将監入道は最早これまでと、城兵に無駄死にするより降参を説いた。他の拠点で奮戦している天皇方を死に物狂いにさせないため、自分たちが武装を解いても、見せしめに殺すことはよもや無いだろうとの計算だった。そこで、平野は包囲軍と停戦交渉をし、敵大将の赤橋右馬頭が快諾、赤坂城軍幹部の地位保全と褒賞を約束した。ところが降参兵を受け取った長﨑九郎左衛門は全員後ろ手に縛り上げ、虜囚の辱めを与え、六波羅に送った後、捕虜達は京都鴨川の六条河原で1人残らず首を刎ねられた。
 自分の革命のためには、ウクライナ人を始め逆らう者を徹底的に弾圧、処刑したスターリンのやり口とそう変わらない。彼を尊敬するプーチンの戦争に対して、まず戦火による人命損失を防ぐため、領土を割譲してでも取り敢えず和睦を優先するということには、歴史の残虐さから慎重にならざるを得ない。

 


太平記

2022-07-02 13:11:45 | 日記

 ロシアのウクライナ侵略戦争が膠着状態に入り、メディアも現場報道抜きの伝聞や当局誘導ばかりでは手詰まりとなり、目覚ましいニュースが無くなったので、戦記物語を読むことにした。北条執権鎌倉幕府の滅亡から足利室町幕府の樹立までの戦乱を描いた『太平記』は声に出して読んでも名調子が味わえる逸品である。中に聖徳太子の将来を見通した未来記も出てくるように、やはり名作は700年や千年後の世の中も見通していて、いつまで経っても古びない。
 北条9代高時の鎌倉幕府は、後醍醐天皇挙兵に対し、京阪奈の拠点征伐の兵を全国から差し向け、まず天皇を捕らえ隠岐に流し、その皇子大塔宮護良親王を吉野に破り、いよいよ楠正成が立て籠もる金剛山・千早城(太平記では千剣破城と表記)を攻めた。
 正成軍勢千人に対し兵数200万騎で取り囲んだとあるから、白兵戦を避けミサイルをめくら撃ちするロシアもびっくりである。その例えが面白い。「見物相撲の場の如く打ち囲みて、尺地(僅かな空間)をも余さず充満した」という。14世紀初頭にも、相撲見物がぎっしり埋まるくらい大人気だったことが分かる。映画とかテレビが無かったから、両国以上に盛況だったのだろう。
 北条方は一気に捻り潰すつもりで安易に攻め立てたけれど、千早城のある険阻な山の断崖絶壁を多勢が寄り固まってよじ登っていくと、大岩を落とされたり、奇策、謀計により散々な目に遭った。長﨑四郎左衛門という軍奉行が戦死者名簿を作るため、書記12人を使って数え上げたら、徹夜作業で3日3晩掛かったというから被害甚大であった。損耗が激し過ぎたため、六波羅幕府方は正攻法を捨て、「食攻め」という包囲持久戦に切り換えた。ところが鎧兜を締めたものの、戦いが無いわけで、全く締まらず戦意が萎えてきた。
 有給休暇状態となった戦士は暇を持て余し、少しハイクラスの将校連中は、連歌でもして遊ぼうかということになり、1万句を詠み合うことになった。手始めの発句に、
 さきかけて 勝つ色みせよ 山桜
と詠んだのに対し、別の武人が脇の句として、
 嵐や花の かたきなるらん
と付けた。先駆けして勝ちたい心情とか、山桜に嵐とか、歌としては風流であったけれど、実際の戦いぶりが花に嵐が吹いたようなボロボロの結果だったため、締まらない話となった。
 兵隊たちとなると、将棋や双六で暇を潰した一方、大将クラスになると江口や神崎の傾城というから、要するに従軍慰安婦を呼び寄せて遊んだ。それでも鬱が晴れなかったのか、双六中に名越宗教と名越兵庫助という名のある武士の伯父と甥が、インチキするなと口論した挙句、刀で刺し合って共に死ぬという事件が起きた。ロシア軍陣中でも、そんな命令に従えないと上官に銃を向けたという事件が報道されたけれど、いつの世にもあることと、『太平記』の不朽ぶりに感銘している。