天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

光より陰の物語

2024-01-06 20:12:12 | 日記

 新大河ドラマ『光る君へ』が明日から放送開始とかで慌てて予習の手始めに『天皇たちの孤独』(繁田信一著)を読み始めた。TV主人公の紫式部とライバル清少納言が活躍する一条天皇サロンを取り巻く、ゴッドファーザーの兼家と道隆親子をはじめ、藤原摂関家一族のどす暗さが描かれている。特に兼家の娘で一条天皇の母となる詮子がむかつく。息子の天皇位を急ぐため一条とは従弟関係にある先代の花山天皇を若くして退位させる陰謀に加わり、同著では首謀者でないかとも扱われている。一条の即位は満6歳であった。夫である円融天皇は皇子を産まない「素腹の后」の遵子を皇后に立て、今で言えば妾扱いにされるなど詮子は嫌われていた。しかし、内裏外に住んでも第一皇子の母親として東三条院という院号をもって遇されていた。夫の死後は皇太后の尊称を与えられ、皇室人事などに権勢を振るった。一条天皇が11歳で嫁に迎えた定子(清少納言の主)は兄道隆の娘であったが、兄嫌いの詮子は彼女ををいびり倒し、定子の兄たちの素行の悪さに居たたまれなくなったこともあって出家することになった。その後、詮子は新たな嫁探しに奔走し、一条にあてがった。しかし、一条天皇の第一皇子(敦康親王)を産んだのは、出家後も愛され続けた定子だった。
 弟道長とは相性が良く、関白就任に力添えした。しかし、関白より皇太后の方が偉いとの考えの持ち主で、政治にいろいろと嘴を挟んだ。院号の持ち主と言うより、むしろ因業婆と呼んだ方が良いくらいに描かれている。そしてこの姉弟は、定子の息子の皇位継承を阻止するため、道長の娘彰子(紫式部の主)が12歳に育つと入内させ翌年、一条天皇の実質正妻である中宮に据えた。幼な妻ながら8年後に第一子を産み、後一条天皇(次いで後朱雀天皇)の国母となる。外祖父として月の欠けたるも無き道長が権勢を振るった藤原摂関政治の絶頂期である。この中に生涯どっぷり浸かったのに『大鏡』のような藤氏物語でなく、源氏物語を描いた紫式部は、偉大で立派だった。


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