どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

高松の池でマガンを見たのは仕事がなくなったおかげ

2016-10-27 00:54:04 | 日記

 

入る予定の仕事がないとわかったのは、午後1時だった。どうしようもないので高松の池を通って、ゆぴあすに泳ぎにゆくことにする。

途中、響の熱田氏に出会う。

 

 

カイツブリの2歳程度の幼鳥がいた。数えてはいないが、少しこの年のカイツブリが渡ってきているようだ。

 

 

キンクロハジロは相変わらず可愛い。

先日響で、シンゴジラのサントラCDを聞いた。映画館で気になっていたことがいくつかわかった。マルチトラックレコーダーでとった音源を手を変え品を変え、シーンに合わせてエフェクトかけたりしなかったりと、かなり凝った編集をしている。もう編集だけで映画音楽とはなんぞ?というほど映画だった。ヤシオリ作戦の時に「宇宙大戦争」のテーマがかかるのだが、エフェクトをかけてくぐもらせたような音にあえて下したと思っていたら、ものすごく演奏ミスが多い。なんじゃろと思ったら「宇宙大戦争」初演版の音楽をリマスターかけたものだった。道理でくぐもっていたわけだ。とはいえ、他の音楽も大なり小なりいじっているのでここだけではない。

それ以上に凄まじいのは音楽技法。4拍子から3拍子に重ねて移行し、3から4へ大幅に重ねながら移行してゆく。つまりポリリズムになっている。他にも変拍子やらポリリズムのみの音楽とか、同じテーマをオカズ違いで使い分けていたりする。まあ今じゃあこんなのが当たり前という時代なのだと実感した。

とはいえ映画音楽というのは、どこかミニマルになる、というのがよくわかった。古い映画のリメイクだから、凝りに凝ったことをしていても、音の繰り返しというのが、映画のコマにあっている。特に監督の庵野氏がシンプルで訴求力のある曲を要求したのでそうなった傾向にある。

 

 

ブリリアントクラシックスの「ミニマルピアノコレクション」の白が手に入った。これで白黒揃ったわけだ。白はどちらかといえばピアノ曲のミニマルミュージックを俯瞰的に見るという傾向にある。あとピアニストのイェーロン・ヴァン・ヴェーンの曲が多い。

俯瞰的というのは、フィリップ・グラスと自作が多い中に、エリック・サティのヴェクサシオンが入っていたり、「The Movies」という映画音楽を暑かったミニマルピアノ曲集があったりする。それでいてスティーブ・ライヒがいないのは片手落ちだが、多分ライヒは別物と考えているのだろう。逆に黒の方が、ミニマルピアノの博物館的でもある。白はどちらかといえば主観的なコレクションだ。そこが面白い。ピアノもファジオーリの278で統一されているのも面白いところだ。黒は曲ごとに変えている。

まあ一番大きな違いは、白はピアニストが一人の曲ばかり、黒は二人以上ピアノも2台以上必要という違いが大きいかもしれません。

ただこうやってミニマルを聞いていると、ミニマルの陥った閉塞というのもよくわかる。繰り返しという古典的な手法でありながら、最小の楽譜で最大の効果を出すという、または最小の楽譜で長大な音楽を書くという手法の斬新さゆえに、表現の幅が極めて狭い。そこをどうするのかというので様々な取り組みがあったが、結果ポップスに近くなってしまった。

まあそのせいだろうか、以前響でT君もいたので、黒箱で、ピアノの音比べをしたのだが、熱田氏はミニマルに辟易していた。私は楽しんでいた。T君といえば「これいい!」と言いだす。そうなんだな。ミニマルは60年代に発達するが実際にレコード等で出てくるのは80年代だ。それ以前の人はこの繰り返しが耐えられない。私の年代だと当時の最先端だった。そしてその30年後のT君の年代になると常識なのだ。ストラヴィンスキーの春の祭典の初演時には物議をかもしたという。確かにバレエの振り付けの問題はあったが、変拍子の問題は大きかっただろう。だがそれは今では常識でポリリズムも常識で、トーンクラスターも12音階技法も常識になっている。まあいつかはやってくるとは思っていたが、少し早いような気もする。

先日学生と話をしていたら、バルトークが好きだという。別な時に別な学生だが、「ショスタコーヴィッチって変態ですよ」という。「いや、もっと変態がいるぞ。ストラヴィンスキーだ」と笑いあったが、こうゆう会話ができる時代が来るとは思ってもみなかった。

 

 

ゆぴあすは倍増した成人スクールで、コースの半分が埋まっていた。成人といっても60歳以上ばかりなのだが、彼らは習った後に復習をキッチリする。なのでこの後どうなるのかなと思っていたら、結構大変だった。ということで休みは多いけど結果としてキツイメニューになった。

腱鞘炎のせいか右手中指が痛かった。ただ後半戦痛みが消えたので、何か細いとげが刺さっていただけなのかもしれないと考えている。でも腱鞘炎と水泳は、腰痛ほどでもなけど相性が悪いです。

 

 

帰りにも高松の池によります。

 

 

 

カイツブリですが、雛のようです。一体どこで繁殖していたんだか。

 

 

餌を取ってきた親と雛のふれあいです。どうも高松の池の釣り堀の、ヨシの原のキワに巣を作り直していたようです。雛は4羽いるようです。

 

 

ということでマガン登場です。天然記念物です。なんかデカイのがいるなと思っていたのですが、マガンでしたか。

最大4羽いるようですが、今日は2羽だけです。どうも一羽以上に人懐こいのがいるようです。昔高松の池に一羽だけ飛来していた、マガンのガンちゃんの子孫でしょうか。

 

 

高松の池ではガン類はレアなので眼福ものです。まだ10月なので高松の池で越冬するかどうかはわかりませんが、越冬してもらいたいな〜。

 

 

寒くなってきたせいだろうか、ポケモンGOの人がかなり減ってきた。だが夕方になると車は増える。

この盛岡では、ポケモンGOはヘルシー効果より地球温暖化促進の方向にあるようだ。


天気が崩れる前

2016-10-26 01:00:59 | 日記

 

午前中は天気が良かった。これが崩れるというのがイマイチ信じられない。だが夕方からこれを書いている現在まで27ミリの雨が降った。久しぶりの雨だが、なぜか嬉しくない。

 

 

フィリピンのドゥテルテ大統領が来日する。その前の訪中でこれまた言いたい放題だった。特に「中比経済貿易提携フォーラム」での発言はどうしようか。

オレが本当に理解不能なのは、腐敗が出てきたって、アメリカの奴らは、まだそこにカネをつぎ込もうとするのだ。だからフィリピン人は、アメリカ人のカネを、争って掴もうとする。だがそういうカネに限って生かされない。実際、アメリカ人が提供する高利貸しの資金は、役に立ったためしがない。(中略)

インド大使は、今日ここに来てないだろうな。インド人はどこへでも行って高利貸しをやる。フィリピンが経済的苦境に陥っていようがお構いなしだ。奴らはカネは貸してくれる。だがその代わり、奴らが指定するものを買わなきゃいけない。インドの冷蔵庫とかだ。そうでないとカネを貸してくれない。だから条件付きなのだ。利率も高くて、元金の倍も取ることさえある。

そんなことが、ずっと続いてきた。そしてフィリピン国内のどの政党も、これまで真の解決には至らなかった。

オレは家を2軒持っている。一軒目の家は他人に貸している。だから家賃収入が入って悠々自適だ。だが帰る家もない人々の生活は、凄惨を極めているのだ。

日本が、フィリピンを助けてくれるという。中国もそうだ。日本は鉄道をよくしてくれるという。あと韓国もそうだ。でもわれわれが一番望むのは、中国からの借款だ。なぜなら中国は時に長期借款にしてくれるし、後になって「両国の友誼に鑑みて」借金をチャラにしてくれたりする。

だが日本と韓国の場合は、そうはいかない。だから中国からの資金援助があれば、もう十分だ。そしてわれわれがさらに嬉しいのは、あなたたち中国人は、誠意に満ちていることだ。

中国は元来、他国を侵害したりしない。侮辱することもない。これはオレにとって大変重要なことだ。オレの母親の父は中国人だ。だからオレは中国人の流儀は分かっている。友人として、中国はいつでも快く助けてくれる。われわれの友誼は源遠流長なのだ。オレは自分のルーツによって、そのようによく理解している。

ウーン、訪日前にこんなこと言っていて南シナ海の問題とかで日本の協力を要請するとかなんかなあ。アメリカへの恨みつらみはよくわかるが、中国に対する認識はリップサービスにしても甘すぎる。韓国の朴槿恵大統領の陥った状況を考えれば、言いすぎなような気がする。もう中国人の間では、小話ができていると書いている。

 

習近平主席:「さあ、声を上げて言いたまえ。『南シナ海は中国のものだ』と。これを言ったら、一字あたり1億元を差し上げよう」

ドゥテルテ大統領:「はい、言います。『南シナ海は古代から現在に至るまで一貫して中華人民共和国の神聖にして犯すべからざる不可分で固有の領土なのであります!』

そう中国はドゥテルテ大統領を見限っているのだ。

ただ中国の支援の中で麻薬対策が目を引く。療養施設の建設と運営資金を出すという。まあ理由はその麻薬が中国から来ているのがわかっているからだ。ドゥテルテ大統領の問題ある麻薬対策も、元は中国発なのだ。その中国はアヘンで国を潰したのに他国に麻薬を輸出しているというなんとも言えない状況にあったわけだ。大統領の強烈な麻薬対策で、刑務所はスラム化している。大規模な施設が早急に必要なのは間違いがない。

中国がその野放図な麻薬輸出の取り締まり、つまり反腐敗運動をどこまでできるかで、かなりアジア全体の様相が変わる。ただ13億人のアンダーグランドの摘発はかなり難しいだろう。

 

 

今年の盛岡市内の紅葉はとても悪くなると考えている。春から木の成長がおかしかったのだが。その原因がわかった。カツラマルカイガラムシという虫が寄生することで木が衰弱していた。だがカイガラムシ類にしても広範性でえらく厄介な虫だ。防除方はこの森林総研のPDFに書いている。

マツグリー ン液剤 2 という農薬を樹皮の下に穴を開けて浸透させて、長期間木を保護する農薬だ。だがネオニコチノイド系の農薬で、マツノマダラカミキリ成虫のためにできた農薬だ。その後カイガラムシにも有効となったもののようだ。健康被害は散布ではなく木に注入する方法なので、かなり安全だ。クリでは人間に全く影響のない薬剤なのだが、蜜源となりそうな花木ではどうしよう。とにかくカツラマルカイガラムシがつく木の種類が多すぎる。カツラは当然、コナラ類、モミジ類、サワシバ、サクラも種類によっては認められる。ユリノキもそうだ。コブシも被害にあっている。ハンカチノキというもの被害にあっている。通常のカイガラムシはある程度の範囲でしか移らないものなのだが、この範囲は脅威だ。

特にカイガラムシは幼虫期でしか薬剤が効かないという特徴がある。期間さえ合えばなんと無農薬指定農薬が使えるのだが、それは本当に完璧に管理していないとタイミングが掴めなくてムリなことだ。そして期間を外すとどんな薬剤も効かない。例外的に落葉樹では冬季に石灰硫黄合剤の強アルカリや、窒息死系のマシンオイル乳剤を散布する方法がある。ただ石灰硫黄合剤は強烈な温泉の匂いがするので、あまり市街地では使いたくないし、アルミサッシ等にかかると腐食する可能性もあって養生をしっかりする必要がある。また常緑樹がないことが前提なので、庭では使いにくい。マシンオイルも常緑樹がある庭では使いにくい。風で拡散する可能性を考慮しなければいけない。

カツラマルカイガラムシの出現は温暖化で上昇した結果だと言われている。

 

 

我が家の庭にもやらないといけないような気がする。石灰硫黄合剤が今結構入手困難なのが気になるところだが、問屋に聞こう。


まあ

2016-10-24 22:08:19 | 日記

 

仕事が早めに終わったので、高松の池にゆく。作り物のようなオシドリがさらに海洋堂の精密なフィギアのように写ってしまった。

日本で繁殖する鳥のうち、一番派手な鳥だと思う。

 

 

午後は風が強かった。

 

 

20日にベネゼエラで大統領罷免の国民直接選挙が停止した。

争点となっていた罷免を求める20%の署名集めが始まる日まで1週間を切った時点で、チャベス派知事が治める州の裁判所が「20%の署名集めを実施するための1%の署名は無効である」と次々と(実際には数時間の差でほとんど同時に、つまりは裏で示し合わせて)発表しました。」

最高裁の判決ではないので現実には無効だ。

で、23日にベネゼエラの国会で大統領弾劾決議をだした議会に、反対派が乱入。

どうなるんだろうね。ソフトな独裁政権が、全くの独裁政権に移り変わった。

なおコーヒが好きですが、ベネゼエラ産のコーヒーは現地消費量が多いらしく海外輸出向けが日本にほそぼそと入ってきているというようです。特に好きではないのですが、イエメン同様紛争が起きても何故か輸出されてくるコーヒーというのはどうなのかと思います。ベネゼエラはまだそこまでいっていませんが、そういった地域からまともな農産物が出てくるわけがないと思います。トレーサビリティが保証されていないというのは大きいです。

とはいってもどうでもいいことですね。



風は止んだ。


第一人称の唄

2016-10-24 00:53:50 | 日記

 

今日はゆぴあすに泳ぎにゆく。途中高松の池によりハクガンを探すが、やはり旅の途中のようでもはやいなかった。せっかく望遠を持ってきたのに残念なことだ。ただただ重い荷物になった。

 

 

ゆぴあすまで重いレンズと一緒だったせいか、随分疲れた。泳いだら泳いだで、昨夜少し重いものを持った時に手首をクキっとやってしまい、腱鞘炎が悪化しているのが響く。パフォーマンスが出なくて苦しかった。

ハアハア休んでいると、BGMが空想委員会のような気がする。随分とまあマニアックだこと。そう思っていたらB'zのヘビーローテーションになる。ゆぴあすのBGMは90年代のJ-POPが多い。空想委員会とB'zは自然につながっていた。多分まあ年代的に空想委員会は影響を受けていたのだろう。ただB'zのなんというか癖のようなこぶしメロディラインはないが。

聞いているうちに、第一人称の唄というのが頭に浮かんできた。私の恋、私の恋愛、私の失恋、私の見た景色、私の時代、私私わたしたわし…。

それではわたしではない他人を歌った曲というのはあるのだろうか。あんまり思いつかない。そこにはわたしが見た誰かということになってしまう。さだまさしの「親父の一番長い日」なんかそうだな。殿様キングスとか前川清とクールファイブの女唄というのは私視点だが、男が歌うのでズレまくってある意味他人の願望を歌っているので他人唄だな。ご当地ソングなんかは作詞家と歌手の立場のズレみたいなのがあって、他人の唄と言えるだろう。

民謡には他人唄が多い。正確に言えば古くて過去の私の唄になってしまって、他人の唄でもある。歌い継がれることでそうなってしまう。宗教曲は宗教の曲なので、私視点はできない。合唱曲では最近私視点の曲が増えているように感じるが、合唱なので制限はある。

浪曲歌謡というジャンルがあった。これは全部他人唄だ。古典だしね。演歌はほとんど自分だ。

フォークはどうだったのだろうか。なぎら健壱の曲とかフォーククルセイダーズの曲にあるような気がする。とくに「いっぽんでも人参」なんかそうだな。コミックソングは基本他人の唄だ。ただフォークソングは社会的視点がなければいけないと言われた時代があって、私の唄という概念は少し違うところにあったと思う。それがメジャーフォークになると、私の唄が増えてゆくような気がする。

 

 

沢田研二の「Tokio」なんかは東京を擬人化した唄で、他人唄だ。でもあれはかっこいかった。沢田研二だからこそ冒険できた曲なのかもしれない。

そう考えてゆくと、どうも何かプロの作詞家が少なくなった90年代と、それ以前のものとでは様相が違うように思える。プロの作詞家は他人が歌うのを前提にして書く。だから第一人称でも少しだけ突き放したところがある。戸川純に書かれた詩は、その意味では極端に他人の唄が多いような気がする。

昭和歌謡史を全て知っているわけではない。だからなんとも言えないのだが、それでも第一人称の唄は多いだろう。特に90年代ポップスは私が私たちと複数形になっても、私の唄であって、他人の唄ではない。

レキシというソロバンドがあるが、個人の妄想だ。作家の世界観を出すためには作家を打ち出す必要がある。結果第一人称の曲が多発しているのが現在なのだろう。もっと進んで業界の内輪ネタをそのまま曲にするものもある。それも他人を語っているわけではない。

ただ、一人だけ他人の唄を歌える歌手がいたのに気がついた。中島みゆきだ。中島みゆきの「時代」と「地上の星」だ。他にもあるだろう。かなり特異的な人なのだ。

ただ、第一人称の唄でもヒットした曲を考えてゆくと、他人の唄という変な感じなのだ。自分の体験を他人に共感できるように変換した曲だけが生き残っているように思える。それが時代だったのかもしれない。

今はもう少し複雑な気がする。ポリリズムも変拍子も当たり前のリズムの世界になっている。その中での歌詞は、私を超えないと難しくなるのかもしれない。

 

 

帰りに響によると、なぜか「シン・ゴジラ」のCDがある。お客さんがプレゼントしてくれたもののようだ。なんとお客さんがシン・ゴジラを見た人で揃ってしまったのでかけてもらう。

真面目に、映画音楽としてここまでやってんだというほどすごいのだが、これが常識な世の中なのね。音楽は超高度に発達しているのです。

たぶん誰もが遅れてしまう勢いで。


高松の池に白鳥が来ているんだけど誰もハクガンに気がつかない

2016-10-23 00:51:45 | 日記

 

高松の池には先週コハクチョウが来ていたようです。でもまだ渡で寄ったというだけで本格的な越冬というわけではなさそうです。火曜に寄ったのですがその時にはいませんでした。

 

 

今年の高松の池のバラ園は、なかなかの花を見せています。花数も発色も見事です。市営の公園としてはいいのではないのでしようか。

 

 

オシドリもいつのまにか戻って来ています。オオハクチョウ、コハクチョウ、マガモ、オナガガモ、ヒドリガモ、キンクロハジロ、ホシハジロ、オオバンと一通りの水鳥が来ています。ミコアイサはまだなようです。

 

 

飛んでいったり飛んで来たり、まだまだ出入りの激しい渡りの季節です。こんな時には大物がいるんですね。

 

 

いました。ハクガンです。世界的にはまだ数はいるようなのですが、日本に飛来する数は乱獲で1940年代に激減し、環境省のレッドリストでも、野生では絶滅寸前となっています。つまりかなりレアです。

でも誰も気がつかないんだね。コハクチョウの群れに混ざっているから。コハクチョウの子供だと誰もが思ってしまうようです。100メートル離れて仕舞えば普通の人にはわかりにくいです。ハクガンは結構大きいので、遠いとサイズがわかりにくいです。あとシーズン初めはまだ白鳥撮影の人たちも少なく、騒ぎにはならないというのもあります。でもこれがシーズンだったらニュースになっていただろうね。

家出る前に300ミリを持ってゆくか考えたのですが、まあ大したことないだろうと思っていたら、この大物。残念です。多分春に寄った個体だろう。レアが続くというのはそれしか考えられないのだ。

よいちでアオゲラ農場に話すと「明日までいますか!」という。さすが野生動物出身だね。でもこればっかりはわからない。でもこの疲れ具合だと、もしかするといるかもしれない。なお、鳴き声でのオオハクチョウとコハクチョウの違いは、オオハクチョウは全てにおいてジャイアンだということ。コハクの方が少し繊細です。とはいっても栄養状態のいいコハクと、栄養状態の悪いオオハクの区別はやっぱり困難です。

 

 

オオハクチョウと思われる、というかそれしか考えられない群れにちっこい鳥がついていた。迷ってもついていけばなんとかなる。渡りが一斉に行われるのには、意味がありそうです。