どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

風邪は一進一退

2016-05-10 00:32:28 | 日記

 

昨日の撮影が響いたのか、今日は朝から具合が悪い。飲みすぎたからというのはあるが、鼻が重く喉が痛い。とは言っても熱はないんだな。夕方になると多少上がるが、医者に行くレベルでもないし、人に体温が高いと言っても「さぼるんじゃネェ!」と怒られそうなレベルだ。

なので一進一退だ。今日も少し気になったところを撮影しに行くとバンバン、ネタが釣れる。結局仕事をしてしまった。これでは治るものも治らない。

 

 

アメリカでチーズバーガーで争って、弟が兄を射殺するという事件があった。

「セントクラウド警察の広報によれば、けんかの原因はチーズバーガーだった。調べに対してミデンドーフ容疑者は、母や兄と飲みに出かけて深夜に帰宅し、自分は飲んでいなかったが、兄に「いじめられて」けんかになったと供述。それ以降のことはあまり覚えていないと話しているという。」

わかると思うが、兄は28歳、弟は25歳だ。なんだろうなこの事件は。そこに銃があったからということなのだろうが、その前に兄はどうやって「いじめた」のかが気になる。

 

 

こどもの日に飲んだクソまずいコーヒーだが、どうも盛岡市内で新しく店を出したところの可能性が出てきた。なぜ流行に乗るのかはまあともかくとして、飲めばわかるだろうというものから金を取ろうという意識がわからないものだった。

響の常連とその話になった。彼曰く「あの店にいたのではコーヒーのことはわからないだろう。その上彼はわかろうともしていなかったと思う」。どうゆうことなのだろう。「なにか途切れたところから起きているように感じる。それが何かはわからない。単なる流行だけではないようだ」。

しばらく話しているうちに、盛岡の自家焙煎コーヒー屋は独自研究を経たところが多いというのがわかった。ただその独自研究のサイクルが短くなっていると考えればいいのだろう。

日経ビジネスに元KADOKAWA アスキー・メディアワークス事業局の編集者、三木一馬氏のインタビューがあった。ライトノベル編集者であり編集長でもあった立場の氏の発言は、まったく違うジャンルの特殊出版にとってもかなり気になる発言があって面白い。

「みんなの趣味の変化がもう本当に早くて、イラストのトレンドについても同様ですね。たとえば半年前に有効的だった手段が、今はもう全然使えなかったりとか、結構肌で感じるところです。

昔なら、カバーイラストはヒロインを1人立たせて、その背景を白くしてキャラ重視で印象を高めるイラストが流行ったんですけれども、今はすこし変わっていますね。どちらかといえば、作品の「背景」をちゃんと伝える、世界観を描いたものが多くなっています。作品の内容以上にイラストについては、はやり廃りがすごくあると感じていて、なので、常に「半年先にみんなを魅了するものは何だろう」ということに気をつけています。」

そう、日産の広報が「5年後に発売する車のデザインについてはお客様の意見は反映しません。理由はそれは5年前の意見だからです」に通じるものだ。さすがに出版はサイクルが早いから、半年になるのだ。それでもしんどい仕事になる。PDCAサイクルも事業部ではなくて個人で行うしかないし、出した作品の反省も事業部単位ではしない。それは「粗探し会」になりがちで、「いいとこ探し」の方が健全だがそこに粗探しが忍び込んでくる。それは良くない。とかまあいろいろ金言ばかりです。

「これは僕の個人的な意見ですが、例えばスマホゲームですと、「クリック3回以内に、ユーザーを褒めなければならない」という噂があるんです。つまり、それくらい、腰を据えてじっとそのコンテンツに向き合ってくれる方が少なくなってきているんです。言い換えると読者の皆様が「選ぶ努力」をもうしてくださらないんですよね、与えられるランキングを追い掛ける傾向が、より顕著になっていると思うんです。」



ポストモダン理論でも、中回帰説というのが一番現実的ではないのかと考えている。一時的な盛り上がりを繰り返しながら流行の様々な遍歴を身につけつつ、そのまんまで行くのかもう少し成長するのか、ポストモダンがマクロ的な視点なのにミクロ的な視点に変わって申し訳ないが、そういった遍歴はあると思う。とはいえポストモダンの理論が変質しつつあるように感じる。宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」という本は、もしかすると古くなってしまったのかもしれない。まああの本は出た時から古かったのだが、彼の怒りは新鮮だった。なぜ古くなったのかといえば、それはボトムラインを良く見ていなかったからだ。

本を読まない層にとってはまったく意味のない話だったのだ。

確かに本を読まない層には、ポストモダンはまったく意味がないものだった。生活が破壊されていたのだ。そう考えるのが合理的だろう。

コーヒーの話に戻るが、その意味で盛岡の自家焙煎コーヒー屋は社会学的に面白いサンプルになるだろう。ここまで多様になっている状況はそうないものだろう。人口比でもかなりだ。