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『ぶどう園の労働者』のたとえ

2011-06-28 | 労働
 『ぶどう園の労働者』のたとえ

新約聖書・新共同訳・ マタイによる福音書20
 『天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けにでかけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
 また、9時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑いなかを辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
(おわり)
 疑問の1つは、なぜ、朝から働いていた者から先に賃金を払わずに、最後に来た者から支払ったのか。
 ということである。朝から働いた者は、1日中汗を流して働いたはずなのだ。最後に来た者から金をもらうとなれば、はじめに来た者たちはかなりの長い間、うしろに立って待っていなければならない。こんな不公平な扱いがあるだろうか。話を聞きながら、いささか憤慨した者もいたかもしれない。
 日本でも、大阪や東京のある地域では、自分たちを雇いに来る人を待って、群がる場所があるという。その人たちをいわゆる『立ちんぼ』と呼ぶらしい。何もせずに立っているのは、遊んでいるのではなく、「誰か雇ってくれないか」と、雇い主を求めて立っているのである。
 その1番目に選ばれた人たちは、どんなにうれしかったことだろう。1日1デナリの約束だったというが、1デナリの賃金は、当時の農園労働者の労働賃金、ローマ兵士の1日の賃金と同じであったという。
 1デナリの約束で、朝のうちに仕事にありついた人たちは、どんなに安心であったろう。まずは食いはぐれがないのだ。妻にも子にも飢えさせずにすむのだ。当時の労働者は、奴隷よりもその日の暮らしに困っていたという。奴隷たちにはとにかく主人がいる。主人は自分の持ち物である奴隷を飢えさせはしまいから、その意味では生活は安定していた。しかし労働者たちは違う。
 ぶどう園の主人が夕方5時ごろ出て行くと、まだ立っている人々がいた。5時といえば、もう1日が終わろうとしている時刻だ。彼らはまだ、雇ってくれる人を必死になって待っていたのである。
 もし、誰も雇ってくれないことに自暴自棄になり、絶望してその場を立ち去っていたならば、彼らは雇い主の目にとまることはなかったにちがいない。なんとしてもその日の食物を得るために、何時間も待っていた労働者たちの心情を思うと、胸に応えるものがある。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と、言われた時の彼らの表情を私は想像する。それは、朝9時に雇われた人の喜びとはちがって、恐らく泣かんばかりの深い感動があったにちがいない。そしてそのぶどう園の主人は、その彼らの、自分に対する絶大な感謝を深く心に受けとめたにちがいない。
 一方、朝から雇われていた者たちは、夕方になってやって来た労働者たちに、どんな視線を投げかけたことだろう。「なんだ、今ごろやって来て」といった、古参特有の冷たいまなざしを向けていたかもしれない。そこには、人を見下す傲慢なまなざしがあったのではないだろうか。
 午後5時に来た人たちは、そうした視線を浴びながら、小さくなって、わずかな時間を夢中になって働いたに違いない。こうしてぶどう園の主人は、最後に来た者たちに、深い同情を抱いたのではないだろうか。
 もう一つの疑問は、1日中働いた者の賃金と、1時間しか働かなかった者の賃金が、同じ1デナリだということである。これがもし現実に目の前でなされたとすれば、確かに私たちも、不平を言うであろう。私もここの箇所に、大いにひっかかったわけである。
 文句を言った古参の者に主人は答えた。
「友よ」
 主人はそう労働者たちに呼びかけた。
 日本にどれほどの数の企業があるか知らないが、その企業主が、労働者たちを、「友よ」と呼ぶ姿勢を、果たして何人持っているだろうか。恐らく1人もいないと断言していいのではないだろうか。
 友というのは、対等の関係を表す言葉である。労使関係は対等でなければならない。が、人間というのは不思議なもので、金を払うほうが、人間的にも上であるかのような錯覚を覚えるらしい。片方は労働力を提供し、片方はその代価を提供しているにすぎない。つまり『ギブ・アンド・テイク』なのである。対等の関係なのである。『友』なのである。しかし、そうはいかないのが、私たちの実態である。イエスは2千年も前に、そのことを喝破しておられた。
 さて、このぶどう園の主人は、文句を言われたがなんらの契約違反もしてはいない。1日1デナリオンの約束どおりに賃金を払っているのである。だが、1時間しか働かない者にも1デナリを与えたということで、1日中働いた者は、カッとなったのではないか。冷静に考えれば、自分は約束だけの分をもらったのである。なんの文句もないはずなのである。
 1デナリはわずか100円そこそこの賃金である。辛うじてパンを食べ得るだけの額である。
 主人が後の者に金を払ったのは、単に労働時間だけではなく、雇い主を待って、夕方の5時までも絶望せずに立っていた労苦を思いやったからに違いない。が、人間は、自分が人からもらうものは喜ぶにもかかわらず、人がもらうのを見ると素直に喜べない。喜べないだけならまだしも、与えた主人に文句をつけるのだ。
 それはそれとして、とにかく天国とは、このような主人のいる所なのだ。主人が人を見るのに、何を見るか、単なるその人間の、能力でもなければ、学力でもない。ましてや体力でもなければ、容貌でもない。地位や富が重要でないことは、もはや言うまでもない。
 朝から夕方まで、ただ雇われることだけを願って、絶望的な場にありながらも、絶望せずに立っていた労働者たちのように、ただひたすら、神を待っている者が、祝福される場所なのである。
 しかも、ただ、ぶどう園の主人のために、幾らで雇われるかどうかも心にかけず、ひたすら謙遜に、一心に、主人につき従う者が祝福されるところなのである。先に雇われた者のように、古参面をしたり、お前たちと自分たちとはちがうというような顔をする者は、天国では先に立つことはできないのである。
 イエスは他の箇所で
「幼子のように神を受け入れる者が、天国に入ることができる」
 と言われているが、この幼子のようなへりくだった姿を、午後5時に雇われた労働者にイエスは見られたのであろう。
 このたとえ話は、われわれの生き方、現代社会のあり方、特に労働問題にもさまざまな示唆を与える話であり、また、信仰上、実に深い真理をもたらしてくれるたとえである。
 
解説【 三浦綾子  新約聖書入門 光文社文庫 】

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