縄文人のページ

何を書くかわからない

丹羽長秀

2018-01-23 19:26:17 | 歴史

 
◆丹羽長秀 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/丹羽長秀
丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前 守とも称した。

◆若狭の支配
天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。

若狭国内での当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。この頃の長秀の家臣として溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。

なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった。

織田家の双璧
その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げている。

天正9年(1581年)には、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。同年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。

家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。

本能寺の変後
天正10年(1582年)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害した。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。

変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した。

清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大名となった。

天正13年(1585年)4月16日、積寸白(寄生虫病)のために死去した。享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。

『秀吉譜』によれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると、寛政6年(1793年)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、天明7年(1787年)に竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している。これらによると、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当である。証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった。

人物
長秀は信長の養女(信長の兄・織田信広の娘で姪)桂峯院を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえる。
織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である。
方面軍司令の地位こそ得られなかったが安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事をそつなくこなし、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど行政と軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も変わらなかった。
清洲会議でも織田家の今後を決める宿老の1人として参加しているが、この頃の長秀は決して秀吉と対等な立場ではなく、その勢力差は歴然としていた。それを裏付けるように、山崎の戦い後に毛利輝元が秀吉の1家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である長秀に送った戦勝祝いは贈答品の内容から、付けられた書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったようである(蜂須賀文書、毛利家四代実録考証)。
天正3年(1575年)7月、信長が家臣達への官位下賜と贈姓を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられた。この際、長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられた。しかし、長秀はこれを一度「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断っている。
長秀は名刀「あざ丸」を所有していたことがあった。しかし、それを手に入れてからというものの長秀は眼病に悩まされるようになった。実はこの刀はかつて熱田神宮の神職でもあった織田方の武将である千秋季光の所有していたものであり、加納口の戦いで千秋が戦死した際に斎藤道三の家臣である陰山一景が「あざ丸」を鹵獲したものの、直後の織田方との戦いで陰山は両目を射抜かれてしまった、といういわくつきの刀剣であった。そこで長秀は周囲の人々の助言に従って熱田神宮へ「あざ丸」を奉納し、以降は眼病に悩まされなくなったという。
武田家滅亡後、長秀は信長の計らいにより休暇を与えられ、堀秀政、多賀常則とともに草津温泉で湯治したとされる。
 
◆丹羽長秀~織田信長と豊臣秀吉から厚い信頼を受けた重臣
https://senjp.com/niwa/
丹羽長秀は尾張春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)で1535年9月20日に生まれた。 幼名は万千代。
父は丹羽長政、母は不詳だが織田信秀の娘(能呂氏?)ともする説が ある。
児玉丹羽家は、武蔵七党のうちの一つである児玉氏の末裔とされるが、児玉党は 多数の諸氏に分かれており、丹羽長秀以前の系譜ははっきりしていない。
いつのころか 尾張国に住み、尾張守護の斯波氏に仕えるようになった。
丹羽長秀には兄・丹羽長忠 がいたが、早世したようで、丹羽家の家督を継いだようだ。 丹羽家は織田信秀の勢いが 増す ...

◆丹羽長秀はなぜ本能寺に一番近かったのに明智光秀を討たないで豊臣秀吉に合流したのですか?

信長の死が伝わった途端、兵が一斉に脱走してしまい、軍団が崩壊してしまったからです。とてもではありませんが光秀に立ち向かうのは不可能になってしまい、他の軍勢に加わる以外の選択肢はありませんでした。
もし、この時に信孝・長秀軍が兵をまとめて光秀を討つことに成功していれば、歴史は全く別な物になっていたでしょう。秀吉にとっては奇跡のような幸運だったと言えるかもしれません。
 
◆丹羽長秀(米五郎左)とは? 派手な織田軍団でお米のように欠かせない人と評された理由
https://bushoojapan.com/tomorrow/2014/04/15/17722
なんか名前は聞いたことがある 「ミスターオール4」丹羽長秀
恋愛でも仕事でも遊びでも、相性のいい相手と出会えると嬉しいものです。
が、なかなか簡単には見つかりませんよね。
出会いを求めていてもうまくいかないのに、ふとしたきっかけで話し込んだ相手と意気投合……なんてこともあるのが人生の奥深さというかなんというか。
あの信長にとっても、そんな相手がいました。

天正十三年(1585年)の4月16日に亡くなった丹羽長秀という武将です。

彼は取り立てて身分が高いわけでもなく、織田家譜代の家臣でもなく、さらにこれといった武功も上げていなかったので、「聞いたことあるようなないような名前だな」と感じる人が多いかもしれませんね。
しかし、長秀はあの信長をして「友であり兄弟である」と言わしめたほど信頼されていました。
なぜかというと、とんでもなく器用な人だったからです。
戦でも内政でも、とにかく全ての面において一定以上の手腕を発揮できるという、他の家臣たちにはなかなかできない働き方をしていました。
現代で例えるなら、ミスターオール4というような感じでしょうか。

◆にわながひで【丹羽長秀】
1535‐85(天文4‐天正13)
安土桃山時代の武将。織田信長に仕える。柴田勝家と並び称される勲功の臣で,浅井・朝倉との合戦に功績があり,近江佐和山を拝領して居城とした。長篠の戦には一翼の大将として軍功をあげ,翌1576年(天正4)惟住(これずみ)の称号を得た。本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀を討ち,ついで柴田勝家,佐久間盛政と戦った。戦後,秀吉より越前・若狭両

国と加賀半国を与えられ,越前北ノ庄の城に住した。【西田 真樹】
 
◆豊臣秀吉と丹羽長秀の関係と秀吉に最後に抱いた本心とは?
http://hideyoshitoyotomi.biz/wp/archives/148
「丹羽長秀画像」江戸時代 十七世紀(福島県大隣寺蔵) 丹羽長秀は、織田信長の下で 柴田勝家と並び家老として仕えました。
長秀は鬼五郎左とも呼ばれ、豊臣秀吉(木下 藤吉郎)から見れば雲の上の存在でした。
豊臣秀吉(木下藤吉郎)と丹羽長秀の関係は 、織田信長の死を境に大きく変化して行きます。

◆「ダッシュでパン買って来い。」
〜 丹羽長秀 について、織田信長
「人質受け取って来い。ダッシュで」
〜 丹羽長秀 について、織田信長
「ダッシュで茶器買って来い。これ代金」
〜 丹羽長秀 について、織田信長
「安土に城建てるから。もちろんダッシュで。」
〜 丹羽長秀 について、織田信長
「はい、もちろんダッシュでやらせていただきます」
〜 馬揃え について、丹羽長秀
丹羽長秀。信長の部下とはいえ恐ろしいぜ・・・・
丹羽 長秀(にわ ながひで、1535年 - 1585年)は、元々織田信長のペットの鶏でありながら、「米五郎左」の異名をとるほどの卓越した経済手腕で戦国時代に活躍した最強のお米屋さんである。米穀販売業のみにとどまらず後に建築などの多角経営に成功している。一方で、米代を払わない不逞の輩には嘴で顔面を陥没させるまで突く力強さもあった事から「鬼五郎左」の異名もある。その腕力を見込まれ、副業として武将になり、織田信長の忠実なポチ(否、鳥だからコッコと呼ぶべきか)として召抱えられた。鳴き声は当然「コケコッコー」である。
 
◆経歴
「織田」と名前のつくチンピラどもが仲間割れを繰り返す厄介な国である尾張において、牧舎の鶏小屋で丹羽長秀は誕生した。一説によると金色の卵から生まれたとも言われるが、こんな地味な武将が煌びやかな金色の卵から生まれるわけがないので大方創作であろう。もともと斯波氏の元で飼育されていたが、当主の斯波義統は織田信友らの謀反によって家畜に餌をやる余裕さえなかったため、長秀を初めとする家畜達は餓死寸前まで痩せこけてしまう。そして例え生き延びる事ができても、家畜である手前、いつかはミンチにされて食卓に並べられるのがオチなのだ。そんな生涯絶対嫌だと思った長秀は脱走を決意。同胞の家畜達と共に逃走を図るが、長秀の鶏冠が目立ちすぎたため逃走が露見してしまう。長秀らは死に物狂いで遁走したが、追ってとの戦闘や山奥を闘争中に遭遇した狩人との激闘で多くの仲間が命を落とし、長秀も重傷を負って仲間とはぐれてしまう。それでも一命こそ取り留めた長秀だが、得る糧もなく、あわや行き倒れの危機に瀕していた。しかし頭脳明晰な長秀は尾張が肥沃な農業地帯であることに注目し米穀の販売業を起こし、幼少の頃人間から見よう見まねで覚えた算盤勘定の技術もあって成功を収めた。この頃、長秀は商売がうまくいったことに気をよくし、猿の木下藤吉郎、うりぼうの池田恒興など悪い友人たちと付き合いだすようになる。そしてその悪い友人の親玉がウツケ殿であり、当時寝不足に悩まされていた信長から「俺の目覚まし時計になれ」と下僕となる事を強要される。この運命の出会い以降、長秀は信長の手下A兼目覚まし係として活躍する。朝方信長がうつらうつらしているところを「コケコッコー」と甲高い声で鳴いて起こすのが長秀の日課となった。もはや米屋ではなくただのパシリも同然である。

この頃から長秀は、桃太郎の三匹の手下、犬(前田利家)、猿(木下藤吉郎)に合わせて「雉」と呼ばれるようになった。「雉も鳴かずば撃たれまい」と言う諺を知っていた長秀は、雉と呼ばれて、目立ち過ぎると殺すぞと脅迫されていると思い込み、極力目立たないように細心の注意を払った結果、ますます地味な存在となってゆく。

しかしながら織田家が桶狭間の戦い・稲葉山攻略などで勢力を拡大すると、信長の信望の厚い長秀に運が回ってくる。勢力範囲が増えれば増えるほど扱う米が増えてきた丹羽家は莫大な儲けを得ることになったのである。長秀が一介の米屋(しかも鶏)であるのに武将のように現代に伝えられるのは、「各地に商売に行くのにただの米屋では舐められる、武張っていけば舐められない」という深謀遠慮があったため、あえて武士の真似事をしていたためである。鶏の分際で長秀は帯刀し、本人の目立たなさに反して目立ちすぎるその鶏冠を髷で結って武士を気取っていたが、あまりの似合わなさに失笑を買うばかりであった。少しでも驚くと全身に鳥肌が立ってしまうほどの小心者であったが、最も恐れる信長から一喝されると恐怖を通り越して発狂してしまい、奇声を発しながら物凄い勢いで敵に突っ込んでいくので、世間には「勇敢な武士」と生涯勘違いされていた。信長はこの便利屋のような長秀を手元に置き、他の将のような軍団長としては使用せず、こき使った。彼の知行が同輩の明智光秀達に比べて低いのは米の売買で儲けているためである。

織田信長が本能寺で非業の死を遂げた後は、一瞬放心状態になったが、トリ頭の彼は三歩歩いて主君を失った悲しみをすぐに忘れた。その後秀吉に「俺に従えば今後も米屋を続けさせてやるぞ」といわれたため秀吉に付き従うことになる。しかしこれが長秀にとって最大の不運となる。頭の上がらない信長が死んだのに今度は秀吉にナメられる羽目となった長秀はついにキレて自領である福井県に引きこもり胃癌で亡くなる。辞世の歌も勿論「コケコッコー」であった。長秀なきあとも丹羽家は秀吉に舐められ続け、最後には所領を没収され、江戸時代に入るまで大規模な米店を開くことはできなかった。

エピソード
不細工ともイケメンともいえない微妙な顔で描かれることが多い。というか、まんまニワトリである。
織田信長には「友であり、兄弟である」と特別扱いをされていたが、実際はただのパシリであり、ただのニワトリである。
手癖の悪い羽柴秀吉に名前を一文字盗まれたことがある。長秀は苦情を申し立てたが「織田家の出世頭の名前にあやかってつい…」とお世辞を言われ、気を良くしそれを許すというおっちょこちょいな一面がある。むしろトリ頭なので三歩歩いてすぐ忘れてしまった可能性が高い。
古田織部には小心者と見られていたようで、『「The小心者」と書いた鎧を着用すべし』と「お前が言うな」的な事まで言われている。
彼が副業でやっていたゼネコンもかなり儲かっていたようで、安土城建設は彼の手によるものである。しかしいくら功績があっても、所詮ニワトリである。
彼の最期の地である福井県にて伝説の米コシヒカリが誕生したのは非常に皮肉である。ちなみに、彼は所詮ニワトリであるため、福井県民からは全く敬われていない。
また、織田家に雇われた軍事顧問であるランスの事を快く思わなかった様だが、所詮ニワトリなので何も言えなかった。
信長の祐筆であった太田牛一が記した信長公記にはランスが信長に長秀のクビを進言した際、「地獄に堕ちるといい…」と発言したという記述がある。事実ならば彼が生前発した唯一の言葉である。

埴輪鶏(はにわにわとり)は、日本固有の鳥である。非常に希少な種であり、国から絶滅危惧種に指定されている。


概要
名前が指す通り、その姿は埴輪と鶏に酷似している。しかしながら、鶏の近類ではない。近縁種には埴輪インコや埴輪カラスがおり、いずれもその姿が埴輪に酷似している。当然、生物なので埴輪の近縁でもない。

埴輪鶏の羽や外皮は素焼きの器並に強度がある。特異な姿は土に色を似せて擬態するため、表面の硬度は自己防衛のための進化であると考えられている。また、その容姿と同様に泣き声も独特である。

小さな昆虫などを食するが、体が重いために動きが遅く飛行も不可能なために、土中のミミズなどを食べる場合が多い。

非常に個体数が少ないので捕獲・調査が難しく、その生態などについては未だ謎が多い。とはいえ、近年では少しずつそれも解き明かされてきている。

例えば、体が何故硬いのか、という疑問は長らく明確な説明がなされてこなかった。しかしながら、近年捕獲された体組織の一部らしきものを分析したところ、土器に非常に近い成分が含まれる事が分かった。この事から、土中のミミズなどを食べる際に同時に土を摂取し、その成分を体表に送っているのではないか、という説が現在では一般的になっている。

歴史
その特異な姿から古来より神として、あるいは悪魔として扱われてきた。埴輪鶏の頑丈さから、それにあやかるべく人間や動物の人形に埴輪鶏の姿を巧みにとりいれて作られた「埴輪」はあまりにも有名だろう。

また、近年ではその貴重な体組織を一人で研究するための「神の手」という行為が横行しており、非常に問題になっている。「神の手」は、埴輪鶏の組織片を遺跡から発掘された土器に偽装して縄文・弥生期の遺跡周辺に埋め、それを後日掘り出して土器の研究と称して持ち帰るという、非常に悪辣な行為である。1匹丸ごと殺して埋めたという例もあり、研究者の間ではこの行為に対する罰則を強化せよ、という声も大きい。

存在の確認
その特異性から、一部には埴輪鶏の存在を疑問視する声もある。しかしながら、以下に示す方法でその存在を容易に確認する事が可能である。

PC、携帯などでメモ帳を開く
「にわにはにわにわとりがいる」と打ち込む。
この時、途中で変換せずに一気に打ち込むよう注意する。
変換する。
「庭に埴輪鶏がいる」となり、埴輪鶏が現実にいることが確認できる。
天下のMicrosoftやアップルコンピュータやNTTドコモやauやソフトバンクモバイルやらが変換させてくれるんだから間違いない!
なお、近年では使われる機会が減ってきているために、一回で変換出来ない場合 もあるので注意すべきだろう。

 
◆丹羽長秀の家紋「丹羽直違紋」を解説!安土城を作った信長の家臣
http://kisetsumimiyori.com/niwanagahide/
丹羽長秀の家紋

丹羽長秀(にわながひで)は、織田信長に仕えた家臣です。
「本能寺の変」で織田信長が亡くなったあと、人生が変わった武将はたくさんいるのですが、この丹羽長秀もその一人かも知れません。
最期まで織田信長に忠誠を尽くした丹羽長秀の生涯に迫ります。
 
◆丹羽長秀(にわ-ながひで)
https://sengokumiman.com/niwanagahide.html
プロフィール

Nagahide Niwa
近江(滋賀県)佐和山城主。幼名は万千代。

柴田勝家や佐久間信盛と並ぶ織田信長の老臣。

安土城普請奉行、四国方面軍副将を担った。

享年51歳(1535-1585)。同い年は、荒木村重、島津義弘、九戸政実。信長より1つ年下。

詳細
織田信長織田信長の重臣であり、四国方面軍・副将でありながら、意外にノーマークなのが彼・丹羽長秀のような気がします。

長秀は柴田勝家柴田勝家や佐久間信盛と並んで、織田家トップの家臣。織田家臣時代、豊臣秀吉秀吉が羽柴秀吉と名乗っていたのは、柴田と丹羽、両方の苗字を一字取ってのことでした。

信長からの信頼が厚い長秀は、信長の兄の娘をお嫁さんにもらいました。信長だけでなく秀吉を始め、織田家中の多くも長秀の人柄を慕っていました。信長の厳しいリストラ政策、出世争いが激しい織田家で、癒し的な役割を果たしていたのかもしれません。



コメントを投稿