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●日露戦争で日本軍が203高地を占領(1904年)

2015-12-05 14:17:48 | 歴史
●日露戦争で日本軍が203高地を占領(1904年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
◆日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。

 
◆樺太庁(からふとちょう、ロシア語: Префектура Карафуто)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E5%BA%81
この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。

 
◆ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英語: Treaty of Portsmouth, Portsmouth Peace Treaty)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。

また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。

 
◆関東州(かんとうしゅう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%B7%9E
ユーラシア大陸の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地である。1905年日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した地域で、日本人はここで植民地経営をおこなった。1945年、日本の敗戦により機能停止した。現在の中華人民共和国大連市の一部地域(大連及び旅順地域)などに該当する。
 
◆関東都督府(かんとうととくふ、旧字体: 關東都督府)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%83%BD%E7%9D%A3%E5%BA%9C
大日本帝国時代の日本の機関。遼東半島先端部の関東州を統治する任務を帯びた。
 
◆日露戦争後、ロシアより譲り受けた関東州と長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)を防衛するため、1905年9月26日に公布された「関東総督府勤務令」により天皇直属の機関である関東総督府が設置された。本部は遼陽に置かれた。関東総督は満州北部に依然として勢力を保持するロシアの脅威に備えるため排他的な軍政を断行したが、市場の門戸開放を主張するイギリスやアメリカ合衆国の対日感情を悪化させる結果を招き、第1次西園寺内閣の外務大臣の加藤高明が辞任する事態となった。

外相を引き継いだ西園寺公望や文治派の巨頭である伊藤博文(当時は朝鮮統監)は関東総督府の軍政を民政に移行するため動き、1906年5月22日より伊藤主導で元老や内閣、軍上層部を集めて開催された「満州問題に関する協議会」において伊藤ら文治派の主張が児玉源太郎ら武断派の抵抗を退け、軍政から民政への移行の方針が決定された。

同年9月1日、関東総督府が廃止され、旅順に移転・改組された関東都督府になった。

関東都督府は関東州の統治と防備を受け持ったが、天皇直属であった関東総督府時代とは異なり、政務や軍事の各権能について外務大臣・陸軍大臣・参謀総長・陸軍教育総監らの監督を受けることとされた。また、南満州鉄道株式会社(満鉄)の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。

これ以降、満州統治は関東都督府と領事館(外務省)と満鉄によって担われることとなったが、それぞれが権限を主張し、行政の一元化を妨げることとなる。

1910年、第1次山本内閣において拓殖局が廃止されると、関東都督府は軍機事項を除いて、再び外務大臣の指揮監督下におかれた。

大隈内閣の時代、第一次世界大戦が勃発し、日本が中国に対華二十一ヶ条をつきつけるなど強行姿勢をとると、関東都督府の元で関東州の行政を一元化させようとする提案がなされ、また第二次満蒙独立運動に積極的に関与するなど活動が活発化した。

1917年、寺内内閣の時代、陸軍出身の寺内首相の下で、懸案であった関東州の行政一元化問題につき関東都督府に有利な解決がなされ、在満領事が関東都督府の指揮下におかれることなった。さらに拓殖局が復活すると、外相の権限は再び縮小した。また、関東都督府官制の改定により関東都督は首相の監督下におかれることになり、かつ満鉄総裁と兼任されることとなるなど、関東都督府の権限は再び強化された。1918年6月1日、陸軍兵器部が事務を開始[1]。

1919年、原内閣の時代になると、寺内退陣による陸軍の弱体化と外務省の巻き返し、それに大正デモクラシーという時代の風潮もあって、関東州の民政への移行などを定めた関東庁官制が公布された。これにより関東都督府は廃止となり、軍事と政治が分離されそれぞれ関東軍と関東庁とに分かれた。

 
◆旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦[編集]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E6.97.85.E9.A0.86.E8.A6.81.E5.A1.9E.E6.94.BB.E5.9B.B2.E6.88.A6.E3.83.BB.E9.BB.84.E6.B5.B7.E6.B5.B7.E6.88.A6.E3.83.BB.E9.81.BC.E9.99.BD.E4.BC.9A.E6.88.A6
詳細は「黄海海戦 (日露戦争)」および「遼陽会戦」を参照
「黄海海戦 (日露戦争)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6_(%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)
「遼陽会戦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E9%99%BD%E4%BC%9A%E6%88%A6


黒木為大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。だが海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[23]ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12〜13日に実施されたが失敗した。

ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。

6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。

6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(共に第二軍より抽出された)を貴下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。

10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。

旅順攻略

詳細は「旅順攻囲戦」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

旅順要塞への28サンチ砲の砲撃
第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら港湾への大弧山からの観測射撃を8月~10月まで、黄海海戦を挟んで実施し旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。

第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促す。

11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領。これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などで殆どの艦は船底を貫通されることはなく、殆どの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないように全て自沈させられた。

沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。

奉天会戦[編集]

詳細は「奉天会戦」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

渡河を実施する奉天のロシア軍
日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。

日本海海戦[編集]

詳細は「日本海海戦」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6

バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。

欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされたロシア側も和平に向けて動き出した。

樺太攻略[編集]

詳細は「樺太の戦い (1905年)」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1905%E5%B9%B4)

日本軍は和平交渉の進むなか7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる[24]。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。

講和へ[編集]

詳細は「ポーツマス条約」を参照

ロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、国民の間には厭戦気分が蔓延し併せて経済も停滞の一途をたどり、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。さらにバルチック艦隊が壊滅し制海権も失っていた上に、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、国家としての戦争継続が困難な情勢となっていた。

日本は勝利に次ぐ勝利でロシアを土壇場まで追い詰めたものの、19か月の戦争期間中に戦費17億円[要出典]を投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、また当時の日本軍の常備兵力20万人に対して総動員兵力は109万人に達したことなどから、国内産業の稼働が低下し経済的にも疲弊するなど国力の消耗が激しかったことから、講和の提案を拒否しなかった。

アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した

 
◆バルト艦隊、バルト海艦隊
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AF%E8%89%A6%E9%9A%8A

 
◆ロシアないし旧ソビエト連邦海軍のバルト海に展開する艦隊を指す。

日本においてはバルチック艦隊という呼び名が広く定着しており、またこれは、日露戦争の折にロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことを指す場合も多い。すなわち旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するために上記のバルト海所在の艦隊から戦力を引き抜いて新たに編成した艦隊を指す

 
◆203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/203%E9%AB%98%E5%9C%B0
1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。

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