縄文人のページ

何を書くかわからない

●何故 島原天草一揆は三ヶ月も持ったのか

2018-01-04 17:41:51 | 歴史

●何故 島原天草一揆は三ヶ月も持ったのか
フンダンに軍資金を持ち外国から武器を買い一揆を起こした。
奴隷商人として日本人を奴隷にして外国へ売っていたから。
秀吉は怒って日本のキリスト教信者を弾圧した。
其れに逆らったのが 【天草四郎】である。

◆あまくさ‐しろう〔‐シラウ〕【天草四郎】
[1621~1638]江戸初期のキリスト教信者。本名、益田時貞(ますだときさだ)。16歳で島原天草一揆の首領に推され、原城で90日間籠城(ろうじょう)の末、敗死。
幕府軍に抗戦し、島原の原城に籠城90日にして敗死。 
◆天草四郎 あまくさ-しろう
?-1638 江戸時代前期,島原の乱の首領。
小西行長の臣益田甚兵衛好次の子という。
天草甚兵衛の子。寛永14年圧政とキリシタンの弾圧に対して島原と天草に一揆(いっき)がおこると,小西行長の遺臣らにおされ大将となる。島原半島の原城に籠城(ろうじょう),幕府軍の板倉重昌を敗死させたが,15年2月28日落城,16歳で討ちとられたという。姓は益田。名は時貞。洗礼名はジェロニモ。
 
◆天草四郎
あまくさしろう
(1623/1624―1638)
島原・天草一揆(いっき)で一揆側の首領とされた少年。父の姓から益田(ますだ)四郎、居住地にちなんで江辺(えべ)四郎、大矢野(おおやの)四郎、一揆の首領としては天草四郎太夫時貞(ときさだ)、天の四郎秀綱、洗礼名はジェロニモといわれるが、経歴を含めて正確なことはほとんど不明である。父益田甚兵衛好次(ますだじんべえよしつぐ)は、天草大矢野の産で、領主小西行長(ゆきなが)に仕えたが、関ヶ原の戦いで改易されたので宇土(うと)郡江辺村で帰農した牢人(ろうにん)。四郎は、姉が大矢野村の庄屋(しょうや)の弟に嫁いでいる事実と、江辺生まれの四郎が9歳で手習いを始め、以後学問のために長崎にもときどき赴いた、という一揆勃発(ぼっぱつ)後江辺で捕らえられた母親などの申立てからすれば、かなり恵まれた境遇のなかで、当時の農村少年としては抜群の教養を身につけていたと思われる。
 寛永(かんえい)(1624~1644)中期の島原・天草地方は、重税と相次ぐ凶作のため飢餓的状態にあったが、年貢減免などの世俗的要求でも、かつてキリシタン勢力の一大中心地であったため、ことさら信仰による抵抗として、弾圧とさらなる収奪が正当化されたところに「苛政(かせい)」の特質があった。一揆を指導した庄屋層や牢人たちは、広範な農民を生死を顧みぬ一揆に組織し、結束を維持する手段として15、16歳の四郎を天より下った救世主に仕立て、さまざまな奇跡を演出した。四郎の名は一揆勃発の時点から中心人物として領主側に把握されているが、実際に軍事上の指揮をしたとは考えにくい。彼の原(はら)城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれるが、翌1638年2月27、28日の総攻撃で全員虐殺されるまでの約4か月、四郎を中心に籠城(ろうじょう)した2万人を上回る老幼男女は、10余万の幕府諸大名軍を相手に、いわゆる四郎の旗にみられる信仰による結束を崩さなかった。首領としての非凡な資質は否定できないであろう。多くの首のなかから熊本藩士陣野佐衛門がとった首が四郎のものとされ、長崎に送られて晒(さら)された。[中村 質]
『岡田章雄著『天草時貞』(1960・吉川弘文館)』
 
◆天草四郎の言及
【島原の乱】より
江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。

【益田時貞】より
江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ,捕らわれた母親の陳述では,時貞は9歳で手習いを始め,学問のために長崎へも行ったという。
 
◆益田四郎時貞
ますだしろうときさだ
[生]元和7(1621).肥後
[没]寛永15(1638).2.28. 長崎
江戸時代前期,島原の乱の指導者。天草四郎とも呼ばれる。父は益田甚兵衛好次で,小西行長の家臣。主家の滅亡後,肥後宇土郡に住み,のち天草の大矢野郷で農耕に従事したといわれ,幼少の頃肥後熊本の細川忠利の家中須佐美 (すさみ) 半之丞の小姓をつとめたこともあるという。その後学問をするため長崎へ行き,ここでキリシタン信仰に入って洗礼を受けたと考えられる。洗礼名ジェロニモ。寛永 14 (1637) 年 11月島原の乱の首領に推され,有馬氏の故城である原城に籠城したが,同 15年2月討死,長崎で梟首された。
 
◆奴隷(どれい) - ウィキペディア
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjWsfjD7L3YAhUJxrwKHTVND6MQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%25B4%25E9%259A%25B7&usg=AOvVaw2gQAj3MtH_tHn0qWj89hR9
人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。
1948年に国連で採択された世界人権宣言では、次のような宣言がある。
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。(第4条)

概説
あらゆる地域・時代の文献から、広範にその存在が確認され、その様態もさまざまである[2]。定義は古代から議論の対象となっており、アリストテレスは「生命ある道具」と擁護し、ソフィストの奴隷制批判に反論した。マルクス主義においてはスターリンの定義が最もよく知られている。しかし福本勝清によれば多くの奴隷制は生産と必ずしも結びついていないか、生産様式や生産関係を規定づけるほど主要なものではなく、本質的には「自己の勢力を増やす手段であった」とする。パターソンによれば「生まれながらに疎外され、全体として名誉を喪失し…永続的かつ暴力的に支配される(人間の)こと」。
人種差別、性差別、幼児売買などは奴隷に固有のものではないが、多くの場合密接に関係していた。暴力と恐怖による支配が社会階層におよぶ場合農奴制や奴隷労働者の階級が形成された。
 
◆https://ja.wikipedia.org/wiki/奴隷#日本
日本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7#日本
一説には、すでに縄文時代に存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代の大化の改新によって、中国の唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。日本の律令制度では、人口のおよそ5%弱がとされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、(くぬひ)と(しぬひ)は売買の対象とされた。この2つの身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大に伴い、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。907年の延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、良民と同等または3分の1の口分田が班給されており、古代中国などと同じく、欧州人や現代人が想像する奴隷とは大きく異なる存在であった。
平安時代後期に、日本が中世へと移行すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」(こういん)や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王(山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。
自力救済の時代である中世日本では、人身売買は民衆にとって餓死を免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった。身売りすることで近い将来に餓死する事だけは避けえたからである。鎌倉時代に寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となった。そのため、鎌倉幕府は1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに、例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴隷の発生は黙認する態度を示した(『吾妻鏡』延応元年4月13日・5月1日条)。その後、元帝国と高麗の連合軍が壱岐・対馬と九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴隷として献上された。国内においては、鎌倉幕府や朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴隷を利用した。
いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して東南アジアなどに輸出された。関白の豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。他には、弥助という名のアフリカ系奴隷が、戦国大名の織田信長に宣教師から献上され、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。
江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。これらは1872年のマリア・ルーズ号事件をきっかけに、時の司法卿・江藤新平によって、芸娼妓解放令が太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。
明治時代、島原・天草を中心とする地域から、日本女性の日本国外への「輸出」が大規模に発生した(からゆきさん)。
この公娼、私娼の問題は、近代化を進める日本社会において、階級対立の象徴として影を落とした。二・二六事件は青年将校が、部下の兵士が国家に対し兵役義務を果していながら彼らの姉妹が貧しさゆえに遊郭に売られていく矛盾への憤りがその一因となっている。
 
◆日本娘を売り渡したキリシタン大名
http://sound.jp/sodaigomi/dorei/amakusa/amakusa.htm
島原の乱(天草の乱:1637-38年)の首謀者と目された少年。しかし、その「素顔」を晒すことはついになかったとも云われる。
したがって、長崎に送られて晒されたという彼の「首」も、果たして「天草四郎」本人であったかどうか・・・謎に満ちた少年である。

彼は、時に、益田時貞/江辺四郎/大矢野四郎/天草四郎太夫時貞/天の四郎秀綱などの名で呼ばれ、
また洗礼名はジェロニモであったとも伝えられている。
恐らく、こうした複数の名前から、「天草四郎」という少年について、人々は憶測的なイメージしか持っていなかったのではないかと推測されて来る。
とりわけ、注意すべきは、「時貞」と「秀綱」の違いだろうか。
これは、二人の異なった人物ではないのだろうか?/いったい「天草四郎」とは、どちらのことを指していたのだろう?・・・
あるいは、ジェロニモという洗礼名を持つ少年は、さらに第三の少年だったかも知れない。

「天草四郎」が、一人であったにせよ、複数の少年たちの面影であったにせよ、それはそれでかまわないと思う。
天草四郎はこういう極端に美化されたものしか存在しない。

天草 四郎(あまくさ しろう、元和7年(1621年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、
江戸時代初期の吉利支丹、農民反乱である島原の乱の指導者とされている人物。
本名は益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ/苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞)。
洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。
一般に天草四郎時貞という名で知られる。
本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。
通姓の「天草」は戦国時代天草の有力豪族だった天草氏からと言われている。
 
◆主なキリシタン大名

有馬義貞 (有馬義直) 肥前日野江領主。
宇久純尭? 五島島主
ーーーーーーーーーーーーーーー
大村純忠 日本最初のキリシタン大名。 彼が重要な役割を果たす。
ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えて14年後の永禄6年(1563)18代領主大村純忠は、
ドン・バルトロメオの名で洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名になりました。
純忠は、横瀬浦や長崎に港を開いて南蛮貿易を広め、日本の文化、社会の近代化に一役をになうとともに、
領内のキリスト教布教を熱心に援助し、領内のほとんどをキリシタン化しました。
 天正年間には、大友宗麟、有馬晴信の両キリシタン大名とともに、
少年使節団をローマに派遣するなどして、大村のキリシタンは全盛時代を迎えました。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
大友宗麟 豊後領主。
大友 義鎮(おおとも よししげ、1530年1月31日(享禄3年1月3日)~1587年6月11日(天正15年5月6日)は、
九州の戦国大名、キリシタン大名(戦国時代、安土桃山時代)です。
当初は禅宗に帰依しました。法名は宗麟(そうりん)。
後にキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名はドン・フランシスコ
大友義統? 大友宗麟の子。のち棄教。
織田有楽斎 織田信長の弟。
織田秀信 信長の孫。
蒲生氏郷 会津領主
木下勝俊? 若狭小浜城主。
黒田孝高(黒田如水) 
小西行長
京極高知?
ーーーーーーーーーーーーー
高山右近 追放先のマニラで客死。
高山右近は、戦国時代末期の高槻城主であり、キリシタン大名です。
右近は天文21年(1552)に、摂津高山(現大阪府豊能郡豊能町)で生まれました。

右近と父・ダリオ高山飛騨守は、元亀4年(1573)に主君和田惟政(これまさ)の敵荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長(これなが)を追放しました。
こうして高山右近は高槻城主となりました。
天正6年(1578)、摂津守護である荒木村重が織田信長に反旗をひるがえしたとき、信長は右近に降伏をすすめました。
これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。
信長の死後、天王山、山崎の合戦(1582)では豊臣秀吉方につき、功績を挙げました。
右近は天正13年(1585)、明石に転封されるまで、高槻城主として高槻を納めました。
のち、豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)、徳川家康のキリシタン禁教令(1612)の後、右近は祖国日本を追放(1614)され、
マニラに行き現地で大歓迎を受けました。
(1615)熱病にたおれ、2月5日、日本を憶念しつつ63歳の生涯を閉じました。
高山友照? 高山右近の父。
蜂須賀家政?
毛利高政? 豊後佐伯領主
 
◆キリシタン宣教師の野望
キリシタンは一夫一婦制を厳格に守り、女性の人権をも守った。
彼らは領主とは思えぬ 謙遜な態度で領民に接した。

女性の人権を守った? 違うでしょ。売り飛ばしたです。


キリシタン大名、高山右近が高槻城主であった頃、
現在の大阪府高槻、茨木地区には多数のキリスト教信者がいたが、
キリスト教に対する弾圧により、それが消滅したかに見えた。
しかし、一部のキリスト教信者は信仰を捨てきれず、
山奥深く潜み、隠れキリシタンとして隠遁生活をおくっていたという。

ーーーーーーーーーーーーー
キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却

さて これが本題です。

 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した理由は、スペインやポルトガルが日本を植民地化する下心を持っており、
宣教師がその先兵になっているということを知ったためだと、
中学校ぐらいで習い、今に至るまでそれぐらいの認識しかなかった。
しかし、もう一つの理由としてキリシタン大名による日本人女性の
大規模な奴隷輸出が、あったということを初めて知った。
現代の私たちは、高山右近らに代表されるキリシタン大名は、
一般の日本人より高い倫理性を持っていたようなイメージを持っているが、
日本人女性の奴隷輸出というおぞましい一面を持っていたのだ。
倫理観というのは時代とともに変遷する。
 
◆日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html
前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

以前このブログで、15世紀にローマ教会が相次いで異教徒を奴隷にする権利を授与する教書を出していることを書いた。
 
◆鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-category-1.html
何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。

16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。
 
◆乱取り(日本の戦国時代の奴隷狩り)は「白人による人種差別」なのか?~豊臣秀吉は同胞愛あふれる愛国者か?
http://nationoflequio.hatenablog.com/entry/2015/08/22/132854
にほんブログ村 政治ブログ 政治思想へ
にほんブログ村
昨今のNHK大河ドラマでは、主人公の戦国武将が愛や平和を訴えたりする。
「なんで、戦国武将が平和主義者なんだ? まるで21世紀の人間じゃないか。当時の人間がそんな考え方はしないだろう!」という苦情がおこる。
 
戦前の日本が朝鮮半島を植民地にしたことや、帝国陸海軍が朝鮮人慰安婦を利用したことを、戦後になって日本の左派や韓国人が批判する。
「当時は、国家が植民地を獲得することも、売春も、普通に認められていた。そういう時代だったのだ。今の倫理で過去を裁くのはおかしい!」という反論がおこる。
 
私も基本的に賛成である。
 
だから、こういうのも、なんだかなあ(笑)、である。
戦国時代の日本と、明治以降の近代日本を、ゴッチャにしてないか?
 
この人、政治学者なんでしょ? 
そこらへんを厳密にしないと社会科学じゃないよね?
・・・あ、他の発言を読んで、納得。
「そういう」タイプの政治学者か(笑)。
 
日本人奴隷の存在に激怒した愛国者・豊臣秀吉
 それは、豊臣秀吉が、日本における奴隷制の強烈な反対論者だったという事実だ。
 奴隷制というのは、日本の内部の話ではない。戦国時代、多くの大名たちが欧米人との間で奴隷貿易を行っていた。これも教科書に記載されていない重要な事実だ。
 多くの日本人が奴隷として売りとばされ、哀しい想いをしていた。これに関して、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師に対して詰問する。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」
私自身、この秀吉の言葉を知ったのは、奴隷について一生懸命研究するようになった後だ。多くの日本人は、愛国者であり、日本人を奴隷とすることに断固として反対した秀吉の姿を知らないはずだ。
 先に引用した言葉を何度も読み返してほしい。
 私は非常に真面目で、同胞を想う秀吉の愛国心、同胞愛が滲み出たよい言葉だと思う。
 何故、教科書では、こうした豊臣秀吉の功績を記載しないのだろうか。
 伴天連追放令が出されたことだけを取り上げれば、まるで秀吉がキリスト教を弾圧しただけのような話に聞こえるが、この伴天連追放令の前段階で、キリスト教徒たちによる奴隷売買に秀吉が激怒しているのだ。
 こうした事実を記さなければ、「伴天連追放令」に至る理屈が理解できないだろう。
人種差別の歴史は根深いが、私たち日本人の先祖が奴隷として売りとばされていた事実を多くの国民は知らない。
こうした過酷な事実を知ることは、大きく日本史を眺める際に重要なことだろう。
教科書で「南京事件」「慰安婦」の問題が取り上げられることは多いが、こうした豊臣秀吉の功績については、問題にすらされていない。
 
 
◆奴隷貿易をしていたユダヤ人
ヨーロッパ人に隠れてユダヤ人が
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68402119.html
  奴隷制は昔から何処にでもあった。古代バビロニアとかエジプト、アッシリア、ギリシア、ローマを調べれば、奴隷を使っていない方が珍しい。日本人は太平洋を隔てたアメリカの黒人奴隷ばかりに目を向けるが、すぐ隣の朝鮮や支那を見ようとしない。李氏朝鮮では奴卑など至る所にいたし、支那では皇帝が支配する人間すべてが奴隷だった。天子を補佐する「宰相」とは、もともと料理を作る罪人という意味で、皇帝の召使い程度。さらに酷いのが「民」という言葉。「針で目を潰された奴隷」という意味で、盲(めくら)になった無知蒙昧の小人(しょうじん)に相応しい漢字である。法律で「奴隷制」をつくらずとも、支那の民衆は端っから搾取の対象である。支那皇帝にとり、天然奴隷は野生動物と同じで、使い捨ての家畜で殺そうが食べようが、ご主人様の勝手。漢籍を学んできたはずの日本人は、これを子供に伝えないなんて、論語読みの論語知らずと一緒である。西歐の奴隷制ばかりに注目する日本人は、学校教育における情報操作に気づいていないのだ。アメリカの黒人奴隷に詳しくても、ロシアの農奴をコロっと忘れている日本人が如何に多いか。奴隷と平民の区別が曖昧なアジアの方をもっと勉強すべきである。(ロシアはスラブ系だけど、モンゴル系アジア人と考えた方が理解しやすい。)



コメントを投稿