縄文人のページ

何を書くかわからない

【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】

2016-01-04 19:53:57 | 政治
【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】
原子力規制委が止めた癌治療 的外れな規制に国会監視を強化せよ

 原子力規制委員会の不合理な審査で日本が誇る世界最先端の研究が停止に追い込まれている。年間数十人規模で助けることのできる命が、2年間も犠牲にされ続ける許し難い事態が発生している。

 京都大学原子炉実験所は原子炉による実験および関連研究の拠点として昭和38年に開設された。以来、ここを舞台に全国の大学研究者が最先端の研究を進めてきた。2つの原子炉をはじめ各種加速器施設、大強度ガンマ線照射装置などを備える日本最大規模の統合的核エネルギー・放射線関連教育・実験施設である。

 世界が注目する京大の研究の核は中性子を使った基礎研究だ。それが規制委の壁の前で完全に中止された状態が続いているのである。

 中性子は物質の構造を比類なく正確に探るのに欠かせない。惑星探査機はやぶさが持ち帰った小惑星イトカワのサンプルの微量な元素の成分も中性子を当てることで分析できた。京大が中性子を活用して行う研究のひとつが「ホウ素中性子捕捉療法」(BNCT)という癌治療である。

 1990年以降、京大のBNCTの臨床研究は500例以上、症例数および適用範囲の広さで世界最高水準にある。原子炉実験所・原子力基礎工学研究部門の宇根崎博信教授は、京大が社会貢献として最重視するのが癌治療のBNCTで、京大は研究の傍ら週1日をBNCT治療に割き、近年は年間40人から50人を救ってきたと指摘する。

 BNCTの治療では、特殊なホウ素を含んだ薬剤を投与し、癌細胞が薬剤を取り込んだタイミングで中性子を当てる。するとホウ素が中性子を吸収して2つにパンと割れ、その際の放射線で癌細胞が死滅する。小さな爆竹を癌細胞に送り込むイメージだ。

 BNCTは癌の患部と正常組織がまじり合っている悪性度の強い癌にも有効で従来困難だった治療を可能にした。進化を遂げたBNCTの適用範囲は、当初の脳腫瘍と皮膚癌の黒色肉腫から舌癌、口腔癌、耳下腺癌、肺癌、肝癌に広がり、いまや癌克服の決め手として期待されている。

 治療の成功には、原子炉を運転して作る中性子を安全に扱う原子力工学、ホウ素を含む薬剤を開発する薬学、放射線治療専門の医学の、3チームによる高度の連携が欠かせない。それが全てそろっているのは世界でも京大原子炉実験所だけだ。ところが、このBNCT治療が中性子を用いた基礎研究とともに規制委に止められているのである。

 規制委が2013年に商業発電用原発の規制を強化した厳しい新基準を打ち出し、実験・研究用原子炉にも適用したからだ。京大の原子炉は出力5000キロワットと100ワット、近畿大のそれは出力わずか1ワット、関西電力大飯原発1基の約30億分の1、豆電球だ。これは空気で十分冷却される。

 にもかかわらず、規制委は大規模商業用発電原子炉と同じ基準をこの研究用小規模炉に当てはめる。地震、津波、竜巻、テロ、航空機、火災、活断層など全てを網羅した厳しい対処と、数万から40万ページ(九州電力の川内原発)にも上る膨大な量の書類作成を求める。

 京大の宇根崎氏ら教授・研究者は過去2年間、規制委対応に追われ、書類作りがメーンの仕事となり、本来の研究の遅延遅滞が続いている。

 なぜこんなことになるのか。規制委の役割は、現場を一番よく知っている事業者と対話し、原発および原子力利用施設の安全性を高め命を守ることだ。だが、強大な権限を与えられた3条機関としての独立性を、事業者とは意見交換しないとでも言うかのような孤立と混同しているのではないか。規制委は現場の実情を無視した見当外れの審査に走り、人命を脅かす結果を招いているのである。

 原子炉施設の安全確保が万人共有の目標であるのは論をまたない。しかし現場に十分耳を傾けない規制委は非現実的なまでに厳しい要求をするだけでなく、具体策になればなるほど彼らの基準は揺らぐのである。

 たとえば放射線に関して十分な安全性を要求するのはもっともだが、何をもって十分とするのか、工学的要素やリスクをどう評価するのか、その基準は曖昧である。京大は核燃料物質関連の施設改造で補正申請を4回、繰り返させられた。宇根崎氏が「生みの苦しみ」と表現した同プロセスは、最終審査までに1年半かかったが、生みの苦しみの主因は規制委の基準が定まっていなかったことにある。

 審査に臨むに当たって、規制委は本来、最初に明確な基準を示すべきだ。だが、現実はそうではない。これまでの取材で審査のたびに規制委が新しい要求を出す事例は幾つも見てきた。規制委は実習しながら規制について学んでいるのかと問いたくなる。彼らが原子力研究を左右し、放射線医療の進展までも止めている現状は、日本のみならず人類にとっての不幸である。

 癌治療だけではない。研究も教育も停滞中だ。大学の研究用原子炉の運転停止で学生たちが学べなくなり、近畿大学は窮余の策として彼らを韓国水原に送り、慶煕大学の試験研究炉で学ばせている。かつて日本は慶煕大学をはじめソウル国立大学など韓国6大学の精鋭学生約20人を毎年京大原子炉実験所に迎え、教えていた。現在の逆転を、宇根崎氏ならずとも「情けない」と思うのは当然であろう。

 あらゆる研究分野で先駆者としての地位を守り続けることが国益であり、日本人の幸せである。政府は規制委の的外れな規制を正し、彼らが正しく機能するように、専門家会議を設置し、医療や研究が完全ストップのわなから解き放たれるように、国会の監視機能を強めなければならない。

●日本教(にほんきょう)

2016-01-04 19:33:35 | 文化
●日本教(にほんきょう)
◆日本教(にほんきょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99
「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。

山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。

奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる
 
◆日本教についてのメモランダム
 http://www.ne.jp/asahi/ts/hp/file1/file1017_religion_of_japan.html

日本教についてのメモランダム

 ウェブ上での様々な記述を見てみますと,山本七平の提唱した『日本教』について,概念が混乱しているようですのでまとめてみました。

 

 前提

 

1 宗教とは「人間の精神」を形成する根本的なルールの集まりである。

 
 宗教は,いわば,自分の良心,信念,意欲,家族,社会を形作るルール(憲法)である。
 人間生活の根拠といってもいい。
(・・なぜ,これをするのか? に対する答えです。)
 

 それは,ある集団に共通する「思想」であり,その思想と自分自身の関係を繰り返して考えることによって,自分の行動に影響を与えるものです。
 

(ここらへんは多くの日本人には極めて理解しづらいと思いますが,この前提がないと、日本人にはキリスト教もイスラム教も,ひいては自分自身の行動さえも絶対に理解できませんよ)

 

 

2 日本教とは,日本人の伝統的思想体系である。

 
 日本人が縄文以前から現代に至るまで,さまざまな思想家,宗教家や,外来文化などに影響されつつ形成してきた,生活する上で絶対に必要な,自分たちの「精神を支える」ものです。

 従って,日本教を失っては文化的に日本人ではなくなると思ってください。 
 日本人でクリスチャンを自称する人がいます。
 もし,本当にクリスチャンなら,棄教する時には精神的破滅状態になりますが,そのような方は少ないようです。

 山本七平は,日本人クリスチャンを日本教徒キリスト派ではないかと問題提起しました。同じように,日本人に仏教徒はいません。日本教徒仏教派がいるだけなのだと言います。

 ちなみに「神道」は日本教の中核ではありません。要素(エレメント)です。

 

 

3 日本人ほど宗教に対して,排他的な文化は珍しい

 
 なぜなら,日本社会には『日本教徒』しかいないからです。

 日本人が教会で結婚式をあげ,神社に初詣や七五三にいき,葬式で寺にいっても,それは決して宗教に寛容で多様性があるからではありません。

 これらは実質はすべて日本教なのですから、他の宗教に対してこれほど侮蔑的な対応を行っているのは戦慄すべき事態です。

 本格的一神教へ日本人が行っている迫害・差別は,いまも終わってはいません。

 キリシタン弾圧はけっして昔話ではなく,日本教の宿命なのです。
(これは日本人が持っている最大級の自己認識の誤りです)

 

4 なぜ日本には日本教しかないのか。
 

 日本教が『見えない宗教』だからです。

 日本教はこれまで体系的に研究されたことはおろか,山本七平が発見するまで概念的にすら、指摘されたこともありません。

 まだ発見されていなかったものが、他の宗教と対決することはありえません。
 無自覚の宗教(思想)は検討・評価・発展の対象にできません。

 同時に、その欠点の克服もできず、同じ失敗を繰り返す根本原因となります。
(呪縛・・という言葉を山本七平は使用しました)

 

 

 ここで「日本教の特徴とはなにか。」に移りましょう。

 

1 体系的宗教ではありません。(文字化されていない)

 
 キリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどようなの絶対契約文書がないため,正確な定義ができない

(仏教の経典は絶対契約文書ではなく,単に悟りを開くためのノウハウ集である。従って日本教と仏教に似たような一面があるとはいえる)

 

 

2 絶対的超越者(神など)を想定しない水平的宗教である。

 
 日本教は徹底的に「人間的」な宗教であって,ここにキリスト教や仏教を表面的にとりこめる秘密があります。


 人間同士の力関係と感情の関係によって、話し合われたことがその場その場の「絶対」となり,その証人として八百万の神様でもお釈迦さまでもひっぱりだされます。

 それらは,しょせん便宜上の存在であって、「役にたちそう」ならなんでもいいのです。

 キリスト教,イスラム教などの一神教は、個人別の垂直的構造をとっていて「自分個人が契約した神」が絶対なのであって,それ以外のものは『無価値』です。

 だから同じ文書によって同じ契約を結んだ同一教徒の間では,人間同士の約束も信用できますが,異教徒は一切信用できない存在となります。

(ちなみに戦前の天皇絶対の尊王思想は、江戸時代に幕府が導入した朱子学が変形したもので,日本の思想の中では異常な一時期だったといえます)

 この特徴によって,日本教徒は『成文宗教』にたいして敬意を持つことはありません。
 日本人が他の宗教に対して時に侮蔑的態度をとるのは当然に発生する現象なのです。

 同時に異教徒からは,契約による拘束の通用しない「狡猾で信用のおけない。最後には必ず裏切る民族」として評価されるのもムリはありません。

 日本人自身の主観では日本教に従って,誠心誠意・全力をつくしてまごころあふれた行動をとっているとしてもです。

 

3 組織原理が,共同体原理である。そして、秩序は敬語で保たれる。

 
 ここまでで解説したように,日本教にはもともと神聖文章との契約――つまり「成文憲法」といった発想はありません。
 契約という考えも,神による自由という発想もありません。

 
 一神教では契約による「組織化」がおこなわれますが,日本ではこの方法がとれません。

 
 日本人は組織を作る場合,縄文弥生から続く「村社会」と同じ「擬似家族共同体」以外の原理を思いついていないのです。

 したがって,会社にも「全人格的」参加が求められてしまうのです。
 (それが自分の全世界だとして。)

 
 日本の社会で、秩序を保つには相手との力関係によって極めて複雑に変化する「敬語」が発達しました。

 
 これは「敬語」しか相手との関係をはっきりさせて、秩序を維持する方法がないからなのです。(言葉は正しく使いましょう。日本人ならね。)

ちなみに欧米でいう「組織」とは,血縁,地縁,階級,共同体から離れて,契約によって機能を遂行するための集団」というのが定義です。

 従って,「組織」は断じて家族やコミュニティなどの共同体ではなく,むしろ対立,反対する概念です。

 契約以外には,血も涙もありませんからレイオフに躊躇があるはずないのです。(日本で会社からリストラされると、生きるの、死ぬの、はては生きがいがどうのといった事態になるのは極めて興味深い現象です)

 

4 血縁主義がない,家族制度に原則がない,能力主義である

 
 これらについては別の機会に補足したいと思います。あまりに長くなりますので。

 

 なお,ここにあげたメモは,文学的,神学的定義ではなく,あくまでも社会学的,文化人類学的で,科学的手法によって実証可能なものです。
 つまり事実(仮説)なわけです。

 
 駆け足で記述しましたので根本的に舌足らずですが,参考になれば幸いです。

 
 ご意見,ご感想があれば,お気軽にどうぞ。
 

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「さよなら日本教」を読んでの感想

「さよなら日本教」という本がある。
 インターネット上で見つけたのだが山本七平や小室直樹氏の熱心な読者による自費出版で,手にとって見たことのある人は少なかろう。
 その本に対するかなり手厳しい評論がこの小文である。


 このような批評を書くのは失礼かもしれないし、あるいは私の考え方の欠陥をさらしているかもしれない。
 しかし著者の努力と、倫理的で前向きな方向性は高い評価したいと思う。議論の進め方も普通の日本人にはあまり見られない論理的な手法を使っている。

 そして違うかもしれないが著者とはもしかしたら会った事があるかもしれない。
 資料がなくなってしまって確認できないが,数年前の銀座で出会ったのがこの本の著者であるならもう一度お会いして,語り合ってみたいと思っている。

紹介


題名 「さよなら日本教」 ~私の宇宙観による日本教の清算~

◆目次
    まえがき
    第1章  序論
    第2章  人間行動の原理
    第3章  人間社会の特徴
    第4章  キリスト教の構造
    第5章  日本教の構造
    第6章  私の宇宙観

 以下,上記の本を読んでの感想

 著者の言いたいことはだいたいわかる。(わかったと思う)
 でも。『人類の栄光をます行為』に何の意味があるのかなあ。と思った。
 意味が無いとはいえないだろうが,それは別の表現にもできてしまう。

 つまり絶対神の栄光ではなく,相対的に有限な存在である人類に無常の価値を置くということである。
 これは,「天皇の栄光を増すため」や「(オウムの麻原みたいな)教祖の栄光を増すため」といった,ごく一部の限定的対象への忠誠とさほど変わるまい。
 『人類が特別で大切な存在だという思想』は人類にとって意味があろうが,他の動物にとってどういった意味があろうか。

 人間の栄光が増すことを,山にすんでいるケモノや海のサカナが、無常の栄光・幸福と感じることはあるまい。あったら,腹をかかえて笑ってもよかろう。
 人間でしかない日本の天皇が,全世界の人間が服従すべき対象だと『尊王思想家』は考えたことがある。『人類の栄光』も結局は、それと同じことででしょう?。

 繰り返すが,人間の栄光と幸福と快楽と自己満足に、最高・至上の価値があると考えるなら、それはそれでよかろう。勝手にやっておくれ。ただし私はそれに反対の立場をとるつもりだ。

 絶対と相対,無限と有限の差ははてしなく大きい。
 有限なものを無限と認識してしまったら,どんな世界となるのか。さらにはそんなもんが本当に、現実的に、カンペキに機能しうる世界なのかどうか。考えてみるのは面白い実験である。

 『絶対』を硬直的に扱った思想や社会運動は,歴史上に数限りなくある。
 ユダヤ教やキリスト教の原理主義,イスラム教,近代ヨーロッパの絶対王制,戦前日本の尊王思想,二十世紀に世界を二分した片方である社会主義もそうであったろう。
 それらは,どう評価すべきなのだろう。

 どの思想もある程度の実力と現実性・正統性・妥当性をもっていたが,最終的には本当に「存在するに足る」堂々たる思想であるのか、実はそうではないのか。が,問題ではなかろうか。
 それらの思想たちは,はたして過去・現在・未来のいずれにおいても「現実的」であり、柔軟で、実力ある思想であるのだろうか。
 そして勝利者として、現代に生き残っているのか?。
 将来も発展していくのか?。
 結果論で言えば、どの思想も破綻においやられて消滅するか、硬直化して身動きできなくなっていったように思える。

 ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教の一部にある原理主義は、聖書やコーランなどの『文書を絶対』とするため、新しい科学上の発見をどうやって『神聖文書』の中の記述と折り合いをつけるのか七転八倒して、部外者からみたら抱腹絶倒の迷走を続けている。ソ連時代の社会主義擁護の文章もいまから読めば、よくできた喜劇になろう。

 思想の方を先にカタメテしまえば,その思想から出発して、どう解釈しても、取り込めないものがでてくる。想定していなかった部分が後から出てくるのである。
 取り込めないものは、思想を守るために、新しい矛盾を抑えこみたくなる。
 いわば排除・粛清したくもなるのだ。
 しかし,都合の悪いものを抹殺したところで、実は抹殺したほうが次の瞬間に現実から遊離して,「逆排除」されて機能できなくなっていったわけである。

 それにそもそも絶対を考えるときに、それがなぜ絶対なのかの根拠を示されなければ安易に「それは絶対に正しい」と賛成するわけにいくまい。
 原理主義,絶対主義の落とし穴は,この説明ができないところにある。質問に質問を重ねていくと必ずどこかで「わからない」といわざるをえない。

 当然の事ながら「わからない」といった瞬間,それは根拠を失い,いかなる権威も消失する。思想は無力となる。
 本当の絶対的思想なら、すべてに対してちゃんと答えが出せるはずだから、「わかりません」と言いたくなければ、ここで人は「ウソ」をつく。
 そうでなければ、自分で自分の思想を『根拠がありません』と言わざるをえないのだ。これは自分を権威にしたい「人間」にとっては,実にカッコウが悪い。

 ごまかして自らの権威を維持するためには,「だまれ」とか「この悪魔め」とかいって質問者を倫理的に糾弾して抹殺・粛清・消去してしまいたくなるのも感情としては当然である。
 そして,いろいろな形での粛清がおこなわれることで,逆にその思想が実は破綻してしまっていることを自白してしまうのだ。

 事実のみを取り扱う科学は原理主義をとった瞬間に消滅してしまう。だから,徹底的な相対主義をとっている。とらざるをえない。科学には『真実』も『絶対』もなく,ただ『限定的事実』と『仮説』しかないのだ。

 だが,人間が生活するには必ず何らかの思想が必要であり、相対主義だけでは生きられないことも確かなのだろう。
 思想は,人間という入れ物にいれるために,必ず有限なものになる。
 我々はこの有限な思想で,この宇宙・世界のすべてを取り扱い、生きていこうとしている。考えてみれば憐れなものである。

 不可能なことをやらねば生きてはいけないのが「我々の知性という変テコな存在」なのだ。
 原理主義をとれば実に楽だが,それは安易な逃げ道と呼ばざるをえない。
 限定的なものを絶対とした瞬間に我々は知性的とはいえない存在になってしまうのだ。
 人間という有限な存在が無限を考えることは,無謀で悲惨だ。それでも考えようとする。せざるをえない。
 風の前のローソクのともし火のようである。
 なんと可憐なことであろう。

 つまらない小文の最後にガリレオのようにいってみたい。

「それでも我々は存在しているんだ」(それでも地球はまわっている。)

 なんてね・・。(ああ,絶対なるものよ。我々をあわれみたまえ)

◆本当に日本人は無宗教なのか?~世界で最も強固な宗教=日本教~
 http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-71.html
◆私は宗教というものに全く疎いのですが、日本人の宗教観について、29日の読売新聞に面白い調査結果↓が出ていたので取り上げてみます。

宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査

読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。

死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%――がこれに続いた。

(2008年5月29日23時41分 読売新聞)
 
◆「日本教」とは
 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B6%B5
◆山本七平が提唱した概念で、日本人の行動を規定する、神道+日本的仏教+日本的儒教の形式知化されざる宗教。

日本を覆う「和の空気」と「世間体」のこと

形式知されるのは不可知ではないかと
日本教について (文春文庫 155-1)

日本教について (文春文庫 155-1)

作者: イザヤ・ベンダサン,Isaiah Ben-Dasan,山本七平
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 1975/01
 
◆日本教の解析
 http://www.geocities.jp/shoquioc/ezu/japanism.html

★日本の閣僚、政治家のお仕事

2016-01-04 18:48:57 | 政治
★日本の閣僚、政治家のお仕事

ズバリ、これですよ!

だから、政治家やるんですものね。

やめられませんよね。

氷山の一角ですね。

安倍さんみたいに売国政策を推進すればするほど、儲かるわけですよ。

政治家のお仕事は、実に愉快ですね。

陛下や日本国民のことは完全に無視して、

政治と称して、国家を私物化したり、

日本国民の金を使い、

アメリカや中国に言われるままに、陛下の国、日本を売る簡単なお仕事ですからね。

閣僚なら特に逮捕されないから、美味しい儲けネタには尽きないのですからね。

まあ、せいぜい袖の下を膨らませて下さいな。

神は、すべてをご覧になっていますから、地上にいる間のわずかな間だけしか持ちませんが、

せいぜい今のうちに楽しんでおきなさいね。



アベノミクスを利用して現役大臣達が荒稼ぎしていたことが判明!竹下亘復興相は6億円、塩崎氏や山谷氏は6割増!
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-4573.html

アベノミクスで日銀が行った追加緩和を利用して多くの大臣たちが儲けていた事が判明しました。報道記事によると、年金資金を株式に投入しようとしている塩崎恭久厚生労働相は4633万円相当の株を7423万円に増やして、山谷えり子国家公安委員長も保有株の価値を約67%も増やしていたとのことです。
また、竹下亘復興相に至っては株資産を3億円から7億円に激増させていました。大臣たちが持っていた株は三菱電機、三菱商事、住友不動産、富士通、関西電力、東京電力、武田薬品工業、新日鉄住金、帝人、全日空等で、いずれも有名な大企業ばかりとなっています。

安倍首相は何度も株価が上昇して良い影響が出たと強調していましたが、それはこの事だったようですね(苦笑)。わずか2年で資産が倍に上昇したということで、彼らは笑いが止まらないでしょう。別にお金を稼ぐのは良いですが、そんなに株が好きならば、株取引を専門にした職業に変更するべきです。
それに、国の政策と密接な関係にある東京電力や関西電力などの株を持っているのどうかと私は思います。


☆“株長者”閣僚ホクホク 塩崎厚労相は資産6割増 竹下復興相 4億円以上増 山谷国家公安委員長 67%増やす
URL http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-11-21/2014112114_02_1.html

http://blog-imgs-47.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/20141122034521d5f.jpg

4億円以上も資産価値を増やしたのは、竹下亘復興相です。

 夫人を含め、中堅ゼネコン「福田組」、トヨタ自動車、三菱倉庫など6銘柄、約72万株を保有しています。政権発足時、すでに3億2040万円の資産価値を誇っていましたが、約2・4倍の7億6319万円に膨らみました。

 山谷えり子国家公安委員長は、三菱電機、三菱商事、住友不動産、富士通、関西電力など17銘柄、6万3500株を保有。7014万円から1億1679万円に、約67%増やしています。

 自民党・稲田朋美政調会長は17日、「第2次安倍内閣になって株価は倍以上になった」とアベノミクスの“成果”を強調してみせましたが、消費税増税や物価高で、庶民の暮らしは厳しくなる一方なのに、株価上昇で資産を増やしてきたのは閣僚たちです。
:引用終了

石破東電株もち大王
石破も東電の株、山ほどもってるからホクホクやね。だからこのごろ目つきが少しマシなんかな
[ 2014/11/22 12:06 ] 名無し [ 編集 ]
完全なインサイダー取引ですね
米奴隷の安倍特権階級に尻尾を振ると、美味しい儲け話がついてくる。この腐敗構造を過去からそして、今でも絶ちきれないのが残念です。
[ 2014/11/22 12:10 ] さる [ 編集 ]
うらやましいのう。
[ 2014/11/22 12:12 ] 名無し [ 編集 ]
皆、金に対する執着心凄すぎ( ̄∀ ̄)www
[ 2014/11/22 12:29 ] 熊んちゅ [ 編集 ]
これは日本国民からの略奪ですよ。

日本国民が白痴すぎて、財布に手を突っ込まれていることすら理解できないだけの話でね。
[ 2014/11/22 12:30 ] 名無し [ 編集 ]
ほとんどは「計算上儲かっている」だろ?
早く株を売って、ちゃんと儲けを自分の手にしないと(笑)
[ 2014/11/22 12:44 ] 名無し [ 編集 ]
朝鮮反日ウヨク山谷ザイトク国家公安委員長久々の登場
最近見かけないと思ってましたが、エセ愛国団体朝鮮系右翼(日本会議)の 山谷ザイトク国家公安委員長も金目欲だけは旺盛のようですね。
公開されない資産も興味深々ですが、そんな金目より山谷先生を始め自民党清和会と在特会(統一協会)との図太いパイプ、見方を変えれば南北朝鮮半島地下パイプの方が最大の興味対象です。
今回はうまいこと逃げ切った用に見えますが、世の中そんなに甘くはないと思いますよ。北朝鮮による拉致疑惑が表面化したのは、自民党 金丸信と金日成の極秘会談より以前からでしたね。当時から国会にて問題視されてました。自民党はなぜ動かなかったのでしょうか。金丸、金日成極秘会談で何が話し合われたのでしょうか。本当に拉致被害者を「トリモロス」気はあるのですか。
朝鮮右翼ザイトクカイの山谷先生や稲田先生を筆頭にした日本会議系エセ保守議員団の方々と、自民党工作員は北朝鮮に対しては非常に弱腰ですね。韓国には表向き対決姿勢を演じていますが竹島問題はなぜかスルーですよね。パチンコ屋献金が減るからですか。
裏では韓国や北朝鮮の利権組織と繋がっているので仕方ないのは理解できますが、嘘の上に嘘の上塗りを続けてきた結果、言葉と行動が伴わないケースが多くなってきましたね。安倍晋三教祖様を筆頭に…。
大丈夫ですか(笑)
[ 2014/11/22 12:50 ] 名無し [ 編集 ]
結局それなんだ。腐敗。
[ 2014/11/22 13:01 ] 名無し [ 編集 ]
民主政権の時もこんなもんだったが
自民の時だけこういうのよく出すよね
[ 2014/11/22 13:14 ] 名無し [ 編集 ]
インフレ化を目指す内閣にいて、株の現金化を急ぐ者が居たとしたら
それは何らかの知的障害を発しているとしか考えようがありませんねw
[ 2014/11/22 13:15 ] 名無し [ 編集 ]
個人の私的財産に過ぎないと言うには程度が酷すぎる。インサイダーみたいなもんじゃん。

他の国なら暴動の末没収、拘留など何らかの処分になるんじゃないの

中国のオッサンが腐敗役人の乗る高級車を体を張って止めて抗議している動画だかニュースだかあったけど、あれが本当なら日本の統制度は中国以下だね

[ 2014/11/22 13:18 ] 名無し [ 編集 ]
>民主政権の時もこんなもんだったが 自民の時だけこういうのよく出すよね

まあ悔し紛れなんだろうけど、程度が違うでしょ。金儲けはどの議員も好きだろうが今の自民は他に山ほど反民衆政策を、過去類を見ない量とスピードで進めてるから嫌われ、警戒されるのです。

それと自民支持者やネトウヨは、よくマスコミが反自民に偏向していると言うが寝ぼけちゃいけません。真逆。これはあなたの自公支持のご両親にも聞いたら分かる。昔より明らかに今の自民はマスコミに攻撃されていません。
聞いてごらん。
[ 2014/11/22 13:25 ] 名無し [ 編集 ]
>インフレ化を目指す内閣にいて、株の現金化を急ぐ者が居たとしたら
>それは何らかの知的障害を発しているとしか考えようがありませんね
w

残念なお知らせですが世界の名だたる投資家及び傘下のファンドは、現金化比率を過去最大にまで引き上げています。
アベノミクスを病的に支持するカルト団体の方々の常識と投資家の常識は真反対です。投資は自己責任ですからご自由にどうぞ(笑)
[ 2014/11/22 13:29 ] 名無し [ 編集 ]
湧いてきた、自民ネトサポ統一協会の連中が。
[ 2014/11/22 13:32 ] 名無し [ 編集 ]
暇人自民党ネットサポーターズの方は信用取引で目一杯株式を購入してください。どうなっても知りませんが 笑
[ 2014/11/22 13:38 ] TPP断固反対 [ 編集 ]
人種差別的発言は許されないですが日本会議とかいう保守団体?の中には、確かに朝鮮半島が生誕の地である新興宗教が入り込んでますよ。それもかなりの割合をしめてる。
よく出てくる統一教会の下部組織も日本会議内では相当な影響力を持ってますからエセ保守団体と言われても間違いではないと思いますよ。
何より、日本会議の思想の中身は統一教会の原理公論とそっくりですから。普通の日本国民はとても違和感を感じるはずです。
山谷国家公安委員長もこの組織と近いというか、支持母体みたいなものですから怪しいと思われて当然だと思います。
ましてや公安委員長のポストに居座るのもどうかなと思いますし、任命した安倍首相にも不信感を持たざるを得ないのが私の認識です。
[ 2014/11/22 13:48 ] 名無し [ 編集 ]
・アベノミクス解散に、米国のネットユーザーがコメント「これが日本の民主主義?」「溺れる者はわらをもつかむ」

安倍首相は21日、衆院を解散し、首相官邸で記者会見を行った。今回の解散を「アベノミクス解散」と名付け、衆院選ではアベノミクスを進めるのかどうかを争点として選挙戦に臨むと述べた。この報道に、米国のネットユーザーがコメントを寄せている。

「日本は安倍首相を追い出すべきだ!」

「日本は追加緩和を行う前に、苦い薬となるが、付加価値税と物品サービス税を導入すべきだったと思う」

「溺れる者はわらをもつかむ」

「これまで行われてきた円安を進める経済改革は良くなかったと思う。景気が停滞している中で消費税の増税を延期したのは、ナンセンスだ」

「アベノミクスは完璧だったが、唯一の失敗は、税金をかける相手を間違えたことだ。1%の高所得者ではなく、中低所得者層に税金の負担を背負わせた。そのせいで、アベノミクスはうまくいかなくなっているんだ」

「これが日本における民主主義なのか?」

「オバマ大統領がもし解散したらどうなるだろう?もし私が日本で投票することができるとしたら、安倍首相には投票しない」

(翻訳・編集/Yasuda)
[ 2014/11/22 14:15 ] 名無し [ 編集 ]
別に金を持つなとは言わないが、そんなにまでして儲けに儲けて一体何を買いたいんだ?
それなりの身分があるのにあくどい金儲けしてまで欲しいものがあるのか?
もう60過ぎて先が長いわけじゃないのに金銭欲だけが突出しているって悲しい生物だな
死ねば全部手元からなくなるっていう自然の大原則すら忘れていそうだ
[ 2014/11/22 14:19 ] 名無し [ 編集 ]
金や権力を持つと皆んながそれにあやかり、たかろうと盛り集まって来るらしいですよ
それが堪らなく嬉しいらしいです
[ 2014/11/22 14:29 ] 名無し [ 編集 ]
今、日本の政党で、本気で『国民の生活が第一と考えている政党は99%いませんね』今まで、選挙になれば、脱官僚政治撲滅とか言っていましたが、今の安倍政権は、官僚政治その物ですからね。消費税8%も財務省のいいなりで増税しただけ。
[ 2014/11/22 15:02 ] ホンマでっか! [ 編集 ]
インサイダーの臭い
金の亡者
[ 2014/11/22 16:14 ] 名無し [ 編集 ]
アベノミクスで儲かってる人は自民賛成してますが、自分や子供が戦場に行くようになっても後悔しないでね。
[ 2014/11/22 16:33 ] 名無し [ 編集 ]
ネトウヨ「株が上がっても売却しなければ1円も儲けられないんですがw」

反論 「衆院解散辞職後に売却する予定ですかぁ?政治家引退後に売却しても現役自民閣僚との親交の具合次第では実質的にインサイダーですが理解できますかぁ?」

大臣の株式が減って(売れば減る)いないか監視したほうがいいかもw
[ 2014/11/22 16:41 ] 反論予想 [ 編集 ]
国家ぐるみの閣僚によるインサイダー取引である。

平成最大級の疑獄事件は徹底して処罰しなければならない。
[ 2014/11/22 16:52 ] 名無し

シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由

2016-01-04 18:18:33 | 歴史
シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由
http://www.tamacom.com/~shigio/defend/chinaischina-j.html
私達は日頃何気なくシナを「中国」と呼んでいますが、実はこれはとても異常な事です。 どう異常なのか、そしてなぜこんな異常な事が起きてしまったのかをまとめてみました。
目次
1. 中国の人達の置かれた困った立場
 ・正しい地名が恐くて使えない
2. 中国は由緒ある日本の地名
 ・比較にならない程古い中国の歴史
 ・すべては外務省の通達から
 ・驚くべきマスコミの力
 ・押し付けに従うのはやめよう
3. シナは世界の共通語
 ・「支那(シナ)は日本人だけが使った差別語である」の嘘
 ・「シナ人はシナと呼ばれることを嫌がっている」のうさん臭さ
 ・「意図的にシナと呼ぶ態度がシナを差別語にしたのだ」のでたらめ
4. 二つの「中国」
 ・中華思想とは何か
 ・新たな秩序を持ち込んだもう一つの中国
 ・シナを「中国」と呼ぶことは日本の基本的立場に反する
5. なぜ日本人にシナと呼ばれると都合が悪いのか
 ・打ち砕かれた古い中華秩序
 ・シナの独立と乗っ取り
 ・「中国」の意味の変更による侵略の正当化
 ・シナを「中国」と呼ぶことは侵略の手助け


1.中国の人達の置かれた困った立場
私は中国生まれの中国育ちですが、日本人です。シナ人ではありません。 中国には、中国銀行、中国放送、中国新聞、中国交通、中国ガス機器、中国電力等、 社名に「中国」を含む多くの企業がありますが、言うまでもなくすべて日本の企業です。 また中国には中国山地があり、中国自動車道が通っています。

ところが紛らわしい事に、なぜかマスコミはシナのことを「中国」と呼び、 中国のことをわざわざ「中国地方」などと脇に押しやったような言い方をしています。 先日も「中国で『讃岐うどん』商標登録申請、香川県が異議へ」という見出しの 新聞記事がありましたが、 その内容はシナ人がシナの国内で日本の商標を申請したというものでした。 それなら「シナで『讃岐うどん』商標登録申請」と言うべきです。 先ほどの見出しでは、まるで瀬戸内海をはさんで中国と四国がもめているみたいです。
正しい地名が恐くて使えない
日本では中国という地名をまともに使えません。 旅行のパンフレットのタイトルを「中国ツアー」にするとシナ旅行と勘違いされます。 食品に「中国産」と付けるとシナ産になってしまいます。

2007年、中国にある「中国食品工業」という会社が倒産しました。 当時はシナ産の食品の安全性が世界的に問われた時期で、 社名の「中国」がシナの事と勘違いされ、「シナの食品を専門に扱う会社」と 思われて取り引きが激減したのでした。 安全な食品を求めるのは当然のことですが、問題にされていたのはシナ産であって、 中国産ではありません。

シナの「中國銀行」が日本に進出した際、中国の中國銀行との表記の衝突が問題になったこともあります。 この時なぜか、本家中国の中國銀行の方が「國」の字を「国」に変え、 支店のぶつかる場所では「本店岡山市」という記述を追加して対応したそうです。これは本当に妙な話です。 シナの銀行の方こそ「支那銀行」とか「バンクオブチャイナ 本店北京」とかに変更するべきでした。 そもそも何故シナの銀行に、日本の地名である「中国」の使用を許したのでしょうか。

こんな異常な出来事が起こるのも、日本のマスコミがシナをかたくなに「中国」と呼び続けて いるためです。その為日本人の多くが、「中国」と聞けばシナの事だと思うようになってしまいました。
2.中国は由緒ある日本の地名
比較にならない程古い中国の歴史
日本の山陽・山陰を合わせた地域を中国と呼ぶ歴史は非常に古く、 『類聚三代格』の元慶二年(878)二月三日の官符の記録に既に見られるということですから、 少なくとも千百年以上の歴史があります。

一方、一般に日本人がシナを「中国」と呼び始めたのは戦後の事ですから、 まだ60数年の歴史しかありません。 また「中国」と呼び始めた時点で、中華民国(建国1912年)はまだ三十数年の歴史しかなく、 中華人民共和国(建国1949年)に至っては存在すらしていませんでした。

ということは、千百年以上も在り続け、使われ続けて来た日本国内の由緒正しい地名を脇に押しやって、 海外にある新興国の略称を優先させていることになります。 なぜこんな不自然な事が起きてしまったのでしょうか。
すべては外務省の通達から
事の始まりは、昭和21年(1946)に外務省が出した通達です。 当時GHQの管理下にあった外務省は、 東京都内の主要マスコミに対して「支那」の使用をやめるように通達しました。

中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが 其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり, 現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、 今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。 要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては

中華民國、中國、民國。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華

などのいづれを用ひるも差支なく唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は 必しも右に據り得ない例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます。

(昭和21年6月7日付「中華民国の呼称に関する件」より引用)

「今後は理屈を拔きにして」とある通り、理屈の通らない無茶苦茶な押し付けであることは明らかです。 当時の日本は敗戦によって民主主義を封殺され、GHQによる野蛮な検閲と洗脳に支配された時代でしたが、 それでもこんな暴力団の脅しのような要求に屈した外務官僚には大いに責任があると思います。

しかしよく読むと、支那と呼ぶべきでないとされているのは「中華民国」つまり台湾のことです。 また「中国」の他に「民国」という候補も挙げられていますから、 こちらを使えば無用な混乱は避けられたはずです。わざわざ問題のある「中国」の方を使い、さらには 中華人民共和国にまで「中国」という名称を適用したことは、 マスコミの過剰適応であり、外務官僚と同罪と言えるでしょう。
驚くべきマスコミの力
それにしてもマスコミの力は絶大でした。 ありとあらゆるすべてのメディアにおいて「支那」から「中国」への書き換えが行われ、 過去の戦争の名前までもが、 例えば「支那事変」は「日中戦争」にという具合に書き換えられました。 その一方で「中国四千年」「中国文明」などと、あたかも何千年も前から「中国」という国があって、 日本人がそう呼んでいたかのように触れ回りました。 つまり単に国の呼称が変えられただけではなくて、歴史全体が書き換えられたと言ってよいと思います。

このような洗脳により、最近まで日本人がシナをシナと呼んでいた事も歴史から消し去られて しまいました。 それでも個人の中にはいまだにシナと呼ぶ人はいるのですが、 マスコミがこぞってシナを強引に「中国」と呼び続けるものだから、 逆にシナと呼んでいる人達の方が、何か特別な意図を持った人のように思われています。
押し付けに従うのはやめよう
さてこのような理不尽な押し付けによって、日本人とりわけ中国の人達は様々な不利益を被っています。 中国は日本の地名です。戦争に負けたからと言って呼び名を強要されるいわれはありません。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 一つ目の理由 です。



3.シナは世界の共通語
さてシナの事をシナと呼ぼうと言うと、いつも決まった反論があります。
「支那(シナ)は日本人だけが使った差別語である」の嘘
「支那(シナ)は日本人だけの呼び名であり、中国人を侮蔑してこう呼んだのだ」と 主張する人がいます。これはまったくの嘘です。 「シナ」も「支那」も日本だけで使われた言葉ではないし、ましてや差別語ではありません。

『広辞苑』には、「支那」とはシナに対する外国人一般の呼称であると書かれています。

支那(しな)
(「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、 日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。 戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。

インド人の「シナ」という呼称に「支那」の字を当てたのは当のシナ人です。 そしてシナ人自身も自国を「支那」と呼んでいました。 「国父」とされる孫文も自国を「支那」と言っています。 差別語であればシナ人は使わないはずです。

一方、日本人は元々シナを「から」「もろこし」と呼んでいました。 「支那(シナ)」と呼び始めたのは外国人の影響です。 江戸時代の学者・本居宣長(1730-1801)は、『玉がつま』の中で、 日本の一部の学者が外国の真似をして「支那」と呼ぶことを批判しています。

もろこしの國を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇國のことなるを、 しかいふをばつたなしとして、中華中國などいふを、かしこきことゝ心得たるひがことは、 馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらにいはず、又中華中國などは、いふまじきことゝ、 物のこゝろをわきまへたるひとはた、猶漢もしは唐などいふをば、つたなしとやおもふらむ、 震旦支那など書くたぐひもあんなるは、中華中國などいふにくらぶれば、よろしけれども、 震旦支那などは、西の方なる國より、つけたる名 なれば、そもなほおのが國のことをすてゝ、人の國のことにしたがふにぞ有ける、 もし漢といひ唐ともいはむを、おかしからずとおもはゞ、 漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ、

このことからも、支那(シナ)は「日本人だけが使った言葉」ではない事が明らかです。 むしろその呼称が世界標準だったために、日本人までが使うようになったというのが真実です。

これは今も同じです。 下記の一覧表は、世界の国々がシナを何と呼んでいるかをまとめたものです。 これを見ると、国毎のなまりはあるものの、多くの国が「シナ」に基づいた呼び方をしている ことが分かります。英語の「チャイナ」もシナが変化したものです。 朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」のみが「中国」に基づいた呼称のようです。 ペルシャ語の「シニスタン」は「震旦(しんたん)」と同源で、やはり「秦(しん)」が元になっています。
他の国々では China をどう呼んでいるか
http://www.tamacom.com/~shigio/defend/china.png
「China を『中国』と呼ぶ重大な過ち」中嶋嶺雄(WiLL 2006年9月号)より引用
「シナ人はシナと呼ばれることを嫌がっている」のうさん臭さ
また「仮に差別語ではないとしても、人が嫌がる呼称をわざと使うのはよくない」などと もっともらしいことを言う人もいますが、シナ人が嫌がっているというのも非常に疑わしい話です。 上に示した通り、シナは世界中の国々からシナもしくはその変形で呼ばれているのに、 なぜそれらに対して抗議をしないのでしょうか。 そもそも中華人民共和国の英語名は "People's Republic of China" で、 シナ政府自身がつけた呼び名です。 これを日本語に訳すなら、「シナ人民共和国」になる事は言うまでもありません。

2002年、シナの巨大ポータルサイト 新浪(sina.com) に対して、 日本に留学経験のあるシナの学者が抗議をしたことがありました。 「sina は日本による差別語だから改名するべきだ」と言うおなじみの主張です。 その時 sina.com の代表者は 「シナは英語のチャイナ(China)の過去の発音で、それ自体に侮辱の意味はない」と言って拒否したそうです。 さらに続けて、「sinaを世界のブランドにし、シナ人が誇れる呼び名にする」と言ったそうです。 至ってまともな意見です。

大体シナを「差別語」だと主張する人達は、日本にいて日本のマスコミの報道に接した人が多いようです。 もしシナにいるシナ人が sina.com の名称を嫌がっているとしたら、 わざわざ日本に留学した学者に指摘されるまでもなく、最初から大騒ぎになっていたはずですし、 間違っても人気サイトなどにはならなかったでしょう。
「意図的にシナと呼ぶ態度がシナを差別語にしたのだ」のでたらめ
他に「支那という呼び方を変えてくれと要請したにも関わらず、日本人は変えようとせず、 意図的に支那と呼び続けた。だから支那は差別語になったのだ」という主張もありますが、論外です。

本当の差別語や明らかに侮蔑している場合はともかく、相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めることです。 「このように呼んで欲しい」と要請をするのはいいですが、それが受け入れられるかどうかは相手次第です。 それを相手が命令に従わないからと言って「差別」と決めつけるのは、 やくざの言いがかりに等しい言い分です。 ましてや相手が国際標準の呼び方をしているところに、ごく少数の国しか使わない特殊な呼び方を 押し付けるなどというのは 絶対にあってはならない話です。

さて彼らが「支那と呼ぶな」という時、必ずその後に「中国と呼べ」が続きます。 これはなぜでしょうか。 それを理解するには、「中国」「支那」の言葉の意味を正確に知る必要があります。

(中略)

シナを「中国」と呼ぶことは日本の基本的立場に反する
さて今日の私達は当たり前のようにシナを「中国」と呼んでいますが、 それは「中国」が「中華人民共和国」の略称だと思っているからです。 しかしそう呼ぶことは、聖徳太子が確立なさった「二つの中国」という日本の基本的立場を危うくするものです。 日本こそが中国なのに、なぜ他国を「中国」などと呼ぶのでしょうか。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 二つ目の理由 です。

朝鮮人やベトナム人がシナを「中国」と呼ぶのは、臣下の国としての長い歴史を反映したものなので 問題ありません。日本人がそう呼んではいけないのは、日本の歴史を反映していないからです。 私達は敗戦と共に、そういう間違った呼称を巧妙に押し付けられたということです。 本を正せば「中国」の意味や聖徳太子の国書の意味を教えない学校教育に根本的な問題があります

〔参考文献〕
『馭戎慨言』本居宣長著[1778] には、聖徳太子以降、日本がシナときちんと張り合って来た歴史が、内外の豊富な史料を元に 実証的に描かれています。 日本が中国であったこと、日本人がシナを「中国」と呼んではならない訳なども述べられています。

5.なぜ日本人にシナと呼ばれると都合が悪いのか
打ち砕かれた古い中華秩序
さて19世紀末、日本は日清戦争(1894-1895)で清国を破り、 清の属国であった朝鮮を独立させました。 中国王朝を名乗る清が、 もう一つの中国・日本に屈伏し、属国を独立させられたことは、 古い中華秩序が打ち砕かれた象徴的な出来事と言えるでしょう。

しかし日本と清の関係は悪化しませんでした。 清の故国である満州は日清戦争の後ロシアに占領されていましたが、 日本は1904年の日露戦争を戦ってロシアを追い出し、清の手に取り戻しました。 さらに日本は満州の地にインフラを築き、治安を守り、産業を発展させました。 この頃からおびただしい数のシナ人が満州に移住してきました。 一方清は、日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうとして、大量の留学生を 日本に送りました。今日のシナで、社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われるのはそのためです。
シナの独立と乗っ取り
当時シナ人は清の中で満州人の支配下にありましたが、 日本への留学生らを中心として民族独立運動が起こり、 辛亥革命(1911)によって独立を勝ち取りました。 ところが彼らは中華民国を建国(1912)すると、「五族共和」という事を言い始め、 清の支配領域すべてを引き継ぐと宣言しました。

下の地図は清の支配領域の全体を表したものです。 いわゆるシナとは「漢族」と書かれた領域 のことです。 清の領土を引き継ぐという事は、シナ人の領土だけではなく、 満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべてを自分の支配領域にするということです。 辛亥革命は元々シナ人の民族独立運動だったはずなのに、 いつのまにかシナ人による他民族の支配という別の目的に切り替わっていたのでした。 例えて言うと、強盗団に捕まっていた人質の一人が自由の身になったとたん、 「強盗団の財宝も人質もすべてを自分のものだ」と主張し始めたようなものです。
http://www.tamacom.com/~shigio/defend/sina.png

『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著 より引用
「中国」の意味の変更による侵略の正当化
その時に戦略的に使われたのが「中国」という言葉です。 元々「中国」とは自国を表す尊称に過ぎなかったのですが、 この頃から支那と同じく、領土や国家を表す固有名詞として使われるようになりました。 しかも清の領土を引き継ぐと宣言することで、 かつて一度もシナの領土でなかった広大な領域を「中国」と呼んだのでした。 具体的に言うとこうなります。

支那 = 漢族の領土
中国 = 漢族の領土+満州族の領土+モンゴル族の領土+ウイグル族の領土+チベット族の領土

つまり、他民族の領土にまで「中国」という名前の覆いをかけて、すべて自分の国ということにしたわけです。 もちろん他民族の同意を得た訳ではありません。 この頃からシナ人は日本に対して「支那と呼ぶな」と言って来るようになります。

結局第二次大戦後、シナは満州国をまんまと自分のものにし、 日本が多額の投資をした満州の産業をも手に入れました。 しかしそれまで満州は、歴史上ただの一度もシナの支配下になったことはありませんでした。 それなのに満州国の建国を助けた日本は、いつのまにか「中国を侵略した」ということにされています。

その後シナは、モンゴル人(一部は独立)、ウイグル人、チベット人に対する侵略、抑圧、虐殺を繰り返し、 それらの地域に大量のシナ人を流入させて「民族浄化」を推し進めています。 シナ政府はこれらの地域で起きていることをひた隠しにしてきましたが、 亡命した人々が世界中で声を上げるにつれ、 次第に世界の人々もそこで何が起きているかに気づき始めました。 シナ政府は世界からの批判に対して「内政干渉だ」と言って反発していますが、 本来これらの国々は、清が倒れた時に満州国のように独立するべきでした。
シナを「中国」と呼ぶことは侵略の手助け
私達がシナをシナと呼ぶ時は、シナ人が満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土を 侵略している実態が浮き彫りになります。 反対にシナを「中国」と呼ぶ時は、シナ人による他民族の支配を正当化し、 侵略を積極的に手助けすることになります。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 三つ目の理由 です。
〔参考文献〕
『大東亜戦争への道』中村粲著[1990] には、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る歴史が詳細に描かれています。 満州がシナの領土かどうかについての詳しい考察があります。

「支那」呼称について

2016-01-04 17:54:33 | 政治
「支那」呼称について
支那は唐虞以来、数々國を改めて古へより一定の國名なし。「支那」と云は歐羅巴及び印度等諸々西土の邦より稱する所にして即ち吾邦より「もろこし」と呼ぶが如く、古今の通稱なり。故に予これを以て稱す

───前野良澤『管蠡祕言』

 http://homepage2.nifty.com/o-tajima/sina.html
現在、支那のことを「中国」と言い換え、「支那」という呼称が「差別用語である」というおかしな主張する人が少なからずいます。が、わたくしは逆に「支那は断じて差別語にあらず」「逆に『中国』という語こそ不用意に用いるべきではない」と信じております。このため、私のページでは「現代の中華人民共和国」の略称としてのみ「中国」を用い、それ以外の通時代的・地域的・文化的な呼称はすべて「支那」を公然と用いています。

 理由は以下のとおりです。

本来「支那」は、支那大陸を初めて政治的に統一した王朝・「秦(シン)」がインドに伝わって訛り「シナ」となって、支那を指す総括的語彙とされたもの。それがわが国にも古代に伝わり、また別に西洋に伝わって「China」「Sina」と呼ばれたものが再び江戸時代末期に再輸入された語である。「支」も「那」も「シナ」の音を当てはめただけで、特に意味を持っていない(逆に朝鮮・支那人が日本を侮蔑する「倭奴」「鬼子」「チョッパリ(豚の足の意)」は字義・語義から言っても差別的である)。それどころか、「震旦」「脂那」「至那」などのいくつかの候補の中から支那人自らが選び出した呼称でる。従って西洋人が「China」「Chinese」に何ら侮蔑的意味を込めず普通に呼んでいるのと同様、「支那」の語の使用にも何ら他意は含まれていない。


そもそも「中国」とは日本国内に於いては、わが国の山陰・山陽地方を合わせた地方名である。自国内の地方名と外国の名前が重なった場合、自国内の呼称を優先させるのは、普通の国であれば当然である。たとえば「中国で大地震」などという表現は、誤解を生じやすい。日本の地方名と外国の地域名を区別する意味からも「支那」を使う方が便利である。


百歩譲って「中国」が「中華人民共和国」もしくは「中華民国」の略称だと認めても、辛亥革命以前の、あの地域を指す呼称としては全くふさわしくない。通時代的に用いる呼称としては、欧米でも「China」が用いられており、「China」と同義の「支那」を用いるのがふさわしい。


学術・文藝分野でも「中国」呼称はあまりふさわしくない。「古代中国文化」という表現は現在そこにある国名を無理に使っている点で「古代カナダ文化」と呼ぶのと同様に滑稽である(呼ぶなら「北アメリカ文化」であろう。「アメリカ」はUSAを指す国家名であると同時に地域を指す汎用的な呼称である。私は両者を区別するためUSAのことは「米国」と呼ぶ)。また、「中国」という国名に関しては相当にイデオロギー的側面(国家承認の問題、自由主義と共産主義の問題、中華民国と中華人民共和国の正統性の問題)を持つ政治臭漂う言葉であるため、文学作品(歌・句・詩など)にも合わないし、歴史叙述でも論者の立場を縛ってしまうため、使用しにくい。


日本国内には「多くの中国人が『支那』と呼ばれるのを嫌っている」という怪説があるが、全くのウソである。現在の中国人の多くは「支那」が差別語であるとは感じていない。日本国内で生まれた迷信である。それ以前に、日本で自分たちの国を「支那」と呼んでいる人がいるということ自体ほとんどの人は知らない(考えてみれば当たり前の話で、英国民5900万人の中に自分たちの国が日本で「エ-コク」と呼ばれていることを知っている者がどれだけいるか)。中国人口13億人の中に「支那」という呼称が日本で用いられていることを知っている者はたかだか0.1パーセント未満しかいない。その中でも「差別語である」と主張する者はもっと少ない。そんなごく少数派の都合に合わせるのは無意味である。


現代の中華人民共和国で最も権威ある国語辞典「漢語大詞典」によれば、「『支那』は、『秦』の音の訛りであり、古代インド・ギリシャ・ローマ・日本などがわが国を呼ぶ名である」と書いてあり、蔑称であるとは一言も記されていない。むしろそこに引用されている参考文献には「単なる名称であって別段の意義はない」と明記されている。中国国内には「支那」を差別的呼称とする一般的な通念は存在しないのである。


確かに戦前(昭和5年)、中華民国政府は大日本帝国に対し、「支那」呼称をやめ「中国」と呼ぶように要求し、日本政府もこれを受諾したが、あくまで国家間の外交文書の中で国家名を指す場合のものである。国家名以外の文化・学術分野で「支那」と呼ぶことには何の支障もないし、日本は中華人民共和国と違って言論自由の国であるから、政府が決めたとて国民個人がそれに従う義務もない。また、あくまで上記要求は中華民国政府外交部からなされた要請であり、中華人民共和国政府との間の約定ではない。


いかなる国民も、他国・地域の呼称について当事国から強制されることなどない。假に中国政府が日本国民にたいして「中国」呼称を強制しようとも、従う義務は全くない。主権侵害である。まして、中国政府がそのような強制をしているわけでもなく「支那呼称を嫌う中国人がいるらしい」等という不確かな情報を元に呼称をねじ曲げようとするのは論外である。


「現在、中国は『支那』と名乗っておらず、『中国』と名乗っているのだから『支那』を使うべきでない」という言説も耳にするが、この主張には全く説得力がない。第一、この理屈では中国成立前の清朝以前の歴史を語ることができない。第二に、その国の自称を日本でも用いるべきというなら、メキシコは「メヒコ」、ドイツは「ドイチュ」、ハンガリーは「マジャールオルザーグ」、フィンランドは「スオミ」と言わなければならないが、わたくしはそのような呼称を普段から使用している日本人に、いまだかつて会ったことがない。中国だけ特別視するのは逆差別である。


現在「中国」呼称を用いる人たちの間には「中国人」というと「漢民族」を指すのと大差ない意識があり、現状と甚だしく異なる。中華人民共和国は55の民族からなる国家であり、「中国人」と呼ぶことは漢民族以外の54の民族の自尊心と主権意識を損なうものである。またこれら諸民族を含めて「中国人」と言うならもっと無礼である。これは不法な手段で強制的に「解放」した満洲・チベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの主権を「古代以来わが国固有の領土」と捏造し、反対勢力を武力弾圧する中国共産党政府の主張を全面的に認めるものであり、人道的・人権的に大問題である。これら虐げられた人々を一緒くたにまとめて不用意に「中国人」と呼ぶことは、1959年に突如不法占領され、以来40年間に130万人以上も虐殺されたチベット人をはじめとする中国国内の54の民族の誇りを傷つける蛮行である。


そもそも漢語で「中国」という語の本義は「わが国」「世界の中心の国」という意味で、外国人が支那をさして呼ぶにはまったくふさわしくない。江戸期の学者の文章には、逆に日本をさして「中国」と書かれている例もある。また、「中国」は世界の中心であるとの誤った概念(華夷思想)から、支那歴代皇帝に対して諸外国が臣下として呼んだ例もある。そのため逆差別となる恐れもあり、「支那」の方が、より客観的である。


「中国人」みずからが「支那」「Sina」と名乗っている。自らをさして「支那」と名乗る例は古く唐代から始まっており、近代中国の父・孫文や魯迅も自ら「支那人」を称している。また、現在でもインターネット上でも「Sina.com」などのメジャーサイトが存在する。これらは誰かから強制されたわけでも自ら卑下して名乗ったわけでもない。自らを「支那(シナ)」と表現することに客観性があると認められているからである。


「かつて戦前の日本人は『支那』を蔑称として用いていた」という言葉も聞くが、これもウソである。現代の人間が例えば「大村は使えない奴だ」「花田は頭が悪いんじゃないか」というとき、「大村」「花田」という語自体に侮蔑的意志があると感ずる人はいないだろう。話者が大村氏・花田氏をどう思っているかと、その呼称が侮蔑表現かどうかは何ら関係はない。戦前、支那人を軽侮した日本人が一部に存在したことは確かだが、それをもって「支那」という語を侮蔑表現として使用したとするのは暴論である。


「たとえ少数の人でも差別的・不快に感じる人がいるのだから使うべきでない」という意見もしばしば耳にするが、説得力がない。逆に、わたくしのように不用意な「中国人」発言を不快に思い、「支那」という伝統ある言葉を無くそうという動きに不快を感じる向きも少なくない。そういう人たちへの配慮が考えられていないからだ。この手の論議は「言葉狩り」と呼ばれる確信犯的な言語破壊行為の便法として使われるが、世の中に差別語などない。差別する人間がいるだけである。いたずらに語を削減して臭い物に蓋をするのは偽善である。


以上の理由から、わたくしは現代の中華人民共和国を指す略語として使うときのみ「中国」呼称を用い、それ以外の場合は「中国」を日本の地方名として用い、あの国・地域を指す通時代的呼称としては「支那」の方がふさわしいということを確信します。従って、「大河内但馬守のホームページ」以下の各ページにおいても「支那」呼称を使用します。

ただし、わたくしは「支那」のことをどうしても「中国」と呼ぼうとする人をあえて妨げるつもりはありません。