縄文人のページ

何を書くかわからない

●かわらけ投げ

2016-01-11 18:45:55 | 文化
●かわらけ投げ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%91%E6%8A%95%E3%81%92
◆かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ)は、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器の酒杯や皿を投げる遊びである。

京都市の神護寺が発祥の地とされる。以後、日本各地の高台にある花見の名所などで、酒席の座興として広まったとされる。

古くからの観光地などでは、現在でもかわらけ投げが行える場所がある。
 
◆厄よけ やくよけ
 これは33が〈さんざん〉,42が〈死に〉に通ずるところから近世あたりにはじまったといわれている。厄年になるとそれを避けるために厄払いや厄よけなどの祈願や呪法を行う。年のはじめに親類や近隣の者を招いて年祝をするとか,神社や寺院に参って厄祓いの祈願をするのがふつうであるが,自分の年の数だけの銭を紙に包み,道の辻や橋などの境に持っていって捨てたのち,あとを振りかえらずに帰ってくる呪法が広く行われている。
 
◆信貴山 厄よけまいり:毎年1月15日~2月末日
 http://www.jyofukuin.jp/praying/yakuyoke.html
◆ 『 ~ 転ばぬ先の杖 ~ 』
 成福院では真言宗に伝わる宿曜道の九曜星に基づき、星祭りの時期に合わせて「信貴山 厄よけまいり」を実施しております。その年の私たちの吉凶は『あたり星』の善悪によって左右されます。悪い年は悪事災難から逃れるように、また善い年は邪気悪鬼が妨げにならぬように、厄よけまいりをされ、ご祈願いたしましょう。「大難は小難に、小難は無難に」あるいは「転ばぬ先の杖」とお考えください。
九曜星
●羅喉星 大凶
(らごうせい) 恐るべき大災害を呼ぶ破滅の象徴で破壊の王の星。天にも昇る程の勢力があるが、まだ行動に移すべき時期ではないので、慎むこと。
◐土曜星 半吉 半吉なり夏秋の間に病気にかかり易く、願い事は見合わすべし。
◑水曜星 末吉 半吉なり目上の人に引き立てられ、悦び事あるが、但し春夏は控えめにすべし。
◐金曜星 半吉 半吉なり信仰深き人は万事成功しやすく売買、耕作に利があり北に向かいて成す事は好し。
◯日曜星 大吉 大吉なり財宝を得て、何事も利あり順風に帆を上げて船が走るが如く、しかし驕る心あれば凶。
◉火曜星 大凶 大凶なり火難盗難トラブル、仕事に失敗多く万事慎んで年の変わるのを待つべし。
◉計都星 大凶
(けいとせい) 悪星にて大凶なり、特に春三カ月は注意を要し、万事慎んで秋冬に至りて少し好し。
◯月曜星 大吉 大吉にて信仰の深き人は龍の水を得たるが如く幸運なり。悦びごと三重の年と云われる。但し妄進は慎むべし。
◯木曜星 大吉 春に向かって木の芽を出すが如く何事を始めても好い。但し油断大敵。
数え年(あたり星)の吉凶一覧
●羅喉星 大凶 1、10、19、28、37、46、55、64、73、82、91才
◐土曜星 半吉 2、11、20、29、38、47、56、65、74、83、92才
◑水曜星 末吉 3、12、21、30、39、48、57、66、75、84、93才
◐金曜星 半吉 4、13、22、31、40、49、58、67、76、85、94才
◯日曜星 大吉 5、14、23、32、41、50、59、68、77、86、95才
◉火曜星 大凶 6、15、24、33、42、51、60、69、78、87、96才
◉計都星 大凶 7、16、25、34、43、52、61、70、79、88、97才
◯月曜星 大吉 8、17、26、35、44、53、62、71、80、89、98才
◯木曜星 大吉 9、18、27、36、45、54、63、72、81、90、99才
※数え年の見方
1月1日より2月3日までに生まれた人は前年を生まれ年とします。
例)平成元年2月2日生→昭和63年生
  昭和50年1月30日生→昭和49年生
開運厄よけ祈願料
祈願料 授与品
10,000円 毘沙門天木札大寸・身代り守り
5,000円 毘沙門天木札中寸

※いずれにも融通尊(紙札)のお札をお付けいたしております。
※厄よけまいりは、御祈祷(大般若祈祷)に準じて実施いたします。開始時間、受付からの流れは同様となります。
厄よけまいり期間

毎年1月15日~2月末日
厄よけまいりのお申し込み

 お電話でご予約いただくか、予約無しでも直接成福院までお越しください。信徒様に限らず、どなた様でも厄よけをご依頼いただけます。
 
 
◆厄よけの猿面で災い「さる」 福岡で「初庚申大祭」  2015年2月14日
 http://www.asahi.com/articles/ASH2F310RH2FTQIP003.html
◆ 今年最初の庚申(かのえさる)の日となった13日、福岡市早良区の猿田彦神社で「初庚申(こうしん)大祭」があり、厄よけの猿面を求める1万人以上の参拝客で早朝からにぎわった。

 家族や親戚、知人のために複数買い求める人の姿が目立った。面は猿と去るをかけて、家の出入り口や商店の軒先に飾ると、災いを払うといわれている。

 昨年6月に結婚した会社員の後藤美香さんは「夫婦円満を願って初めて買いました。悪いものは全て去っていきますように」と話した。

●厄 (やく)

2016-01-11 18:20:14 | 文化
災厄,苦しみ,特に病苦の意味。古く人間に災厄,特に疫病をもたらすのは神のなせる業であると信じられ,その神を厄病神,疫病神,厄神,行疫神などと呼んだ。このような神の来るのを防ぐために,あらかじめ路上でもてなすという道饗祭 (みちあえのまつり) ,村境の路上に注連縄 (しめなわ) を張る道切りなどの行事が行われた。

◆やく【厄】
1 わざわい。災難。「―にあう」「―を払う」
2 「厄年(やくどし)」の略。「―が明ける」
3 《一生に一度はこうむる大きな災難である意から》疱瘡(ほうそう)のこと。
「お孫さまがお―を遊ばしたさうでございますね」〈滑・浮世風呂・三〉

◆やく【厄】[漢字項目]
[常用漢字] [音]ヤク(呉)
1 わざわい。災難。「厄難/困厄・災厄」
2 よくない巡り合わせ。「厄運・厄年(やくどし)・厄日(やくび)/後厄(あとやく)・大厄・前厄(まえやく)」


◆やく【厄】
人間の生命や生活の健全と安定をそこなう要因になると考えられている災難・障害に関する心意現象をいう。時間の次元では厄日,厄月,厄年があり,空間的には厄の生ずるという場所があるが,厄をもたらすという神も考えられており,それらを避けるための呪的方法が多く生み出されている。 厄日には暦にもとづく陰陽道によるものが多く,外出を忌む坎日(かんにち),葬式を忌む友引(ともびき),家屋の建築や旅立ちを忌む三隣亡(さんりんぼう),種まきや植樹を忌む不熟日(ふじゆくにち)・地火(じか)の日などがよく知られているが,二百十日とか二百二十日を厄日とする所も多い。

◆やく【厄】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%84%E5%B9%B4
厄年(やくどし)は、日本などで厄災が多く降りかかるとされる年齢のことである。平安時代にはすでに存在し、科学的な根拠が不確かで起源も曖昧だが、根強く信じられている風習である。

由来

陰陽道に起源があると考えられているが出典は定かではない。何歳が厄年であるか、またその年齢が厄年とされる理由はさまざまである。

なお、通常は厄年の年齢には数え年を用いる。(後述)

たとえば、平安時代の『色葉字類抄』では「厄 ヤク 十三 廿五 卅七 (四十)九 六十一 七十三 八十五 九十七 謂元事[1]」、鎌倉時代に成立した『拾芥抄』下末八卦では清原枝賢等筆永正7年(1510年)写本では「厄年 十三 廿五 卅七 四十九 六十一 七十三 九十九[2]」、寛永9年(1632年)の刊本では「厄年 十三 二十五 三十七 四十九 六十一 八十五 九十九[3]」とある。

『仏説灌頂菩薩経』では七、十三、三十三、三十七、四十二、四十九、五十二、六十一、七十三、八十五、九十七、百五」とする[4]。

江戸時代では、『和漢三才図会』には、「厄歲 按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也 考之初七歳以後皆加九年 今俗別男女厄男二十五、四十二、六十一、女十九、三十三、三十七男以四十二女三十三為大厄 未知其拠[5]」と、厄年は『素問』陰陽二十五人篇の大忌で9歳から9年毎にあるとし、いまは俗に男25、42、61、女19、33、37、男は42をもって女は33をもって大厄となす。其のよってくる所を知らず、男42の前年を前厄、翌年を挑厄(はねやく)といい、前後3年を忌む(今、俗に男の25歳、42歳、61歳、女の19歳、33歳、37歳を厄年だといっており、男の42歳と女の33歳は大厄で、男41歳を前厄、43を挑厄といい、41~43歳の前後3年は注意して過ごさなければならないといっている)とある。

黄帝内経の『素問』に該当はないが、『霊柩』陰陽二十五人第64[6]に「黄帝曰 其形色相勝之時 年加可知乎 岐伯曰 凡年忌 下上之人 大忌常加 七歳 十六歳 二十五歳 三十四歳 四十三歳 五十二歳 六十一歳 皆人之太忌 不可不自安也 感則病行 失則憂矣 當此之時 無爲姦事 是謂年忌[7]」と大忌の記述がある。

天野信景の『塩尻』巻12には、「我国男四十二、女三十三、異邦七歳、十六歳、三十四歳、四十三歳、二十五歳、五十二歳、六十一歳」とある。
巻14では「四十二は四二なり。死に通ず。四十二の二ツ子は、父子の年にて四十四。中略して四四なり。死に通ずること。まことに愚なること也」とある。

また『燕石雑志』一によれば、男性の25歳、42歳、女性の19歳、33歳が厄年であるという。その理由は2は陰数であり、5は陽数であり、つまり陰が上に、陽が下にあるから25歳を恐れ、42歳は4も2も陰数であり、読んで「死」、男性は最もこれを恐れる。19歳は10は陰数であり、9は陽数であり、陰が上に、陽が下にあり、したがって女性はこれを恐れ、33は陽数が重なり、事の敗続するのを「散々」といい、いずれも「サンザン」と同訓であるから最も恐れるとしている。田宮仲宣の『橘庵漫筆』四でも同じように、「四十二は死と云訓にて三十三は散々と云音なり」という。林自見の『雑説嚢話』では、「俗の厄年ということ、旧記にこれなきこと也。また、俗に女は三十三を厄という。女は産を大厄とすれば、三十三の産の声を重ねるが故、厄年とす」とある。

平凡社『大辞典』「厄年」の項によれば、19は重苦、25は5×5=25、後後二重後ととりなして死後のこととし、33は3・3と重なるから散々ととりなし、42は4・2と続くから死(しに)にとりなして忌むという。

神道学者の三橋健は、経験則的にこの時期に人生の節目になるとされている年だと述べている。また、文化人類学者の小松和彦は、「平安時代は貴族は毎年厄払いをしていた。江戸時代に入って暦の普及とともに厄年も普及し神社仏閣での厄除けが流行した。現代は成人儀礼として行われている」と述べている[8]。

もっとも、厄年のような考え方は、日本だけのものではなく、イギリスやスペインといったキリスト教国、エジプトやトルコといったイスラム教国にも同じような風習があるという[9]。

また、地方に幅広く根付く風習でもあるため、単純に厄除け参りを行うだけではなく、地域を挙げての行事として祭りのように祝う事もある。広義の厄年に、七五三を含める地方もある。この場合、男性女性ともに厄年の最少年齢は3歳(数え年)になる。その他、厄年の数え方も25歳を「五五の厄年」など掛け算にするなどの風習もある。


一般的に男性と女性の厄年は異なり、本厄は男性の場合は、数え年で25歳、42歳、61歳、女性の場合は19歳、33歳、37歳とされている[10][11]。特に男性の42歳、女性の33歳は大厄と呼ばれ、凶事や災難に遭う率が非常に高いので十分な警戒を要するとされている。 いずれの厄年にもその前後1年間に前厄(厄の前兆が現れるとされる年)・後厄(厄のおそれが薄らいでいくとされる年)の期間があり、本厄と同様に注意すべきとされる。また、地域や宗派などによっては61歳の還暦を男女共通で厄年とする場合もある。

神社によっては、大厄のみに前厄、後厄を設け、小厄(大厄以外の本厄)には設けない場合がある。

●数え年について
なお数え年は、その加算日が神社によって異なり、グレゴリオ暦(新暦)1月1日とするもの、立春の日(通常は2月4日[12])とするものがある。

●厄年の根拠

厄年は出典が無い事から迷信ともされているが、それを踏まえた上で厄年の説明なども行われている。 19歳、25歳は青春期に当たり、また33歳、42歳は青春期を過ぎ、中高年期への過渡期に当たる事から、人生のうちでも曲がり角でもあり、男性の場合は社会的にも責任が重くなり、それゆえ精神的・肉体的にも疲労などが多く、女性の場合は子育てあるいは主婦として非常に多忙な時期でもあり、不慮の事故やけが、病気なども起こりやすいとしているが、統計的にはそのような物は存在しない。 本厄の年に「厄祓い」・「厄除け」を行い、神仏の加護を受けて凶事や災難を未然に防ぐ慣習もある。また、凶事が起こらなくとも、大厄の年齢では肉体的にも体力の低下や反射神経の鈍化など、衰退が顕著になる時期でもあり、医師の診察を受けた際に体調不良を訴えやすいともいう。健康管理などの面でも注意が要される年頃でもあるともいう。

●厄祓い(やくばらい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%84%E7%A5%93%E3%81%84
厄祓い(やくばらい)とは、災厄を避け、今後の人生を無事安泰に過ごすため、祈願祈祷することを指す。

厄祓いは厄年に行われることが多いが、日々の生活で少しずつ溜まっていく厄(日常厄)をこまめに祓う意味で、厄年以外に行う場合もある。厄を避ける方法によっては、厄除け(やくよけ)、厄落とし(やくおとし)などとも呼ばれる。また、厄払いの字を当てる場合もある。

寺や神社などにお願いする方法が一般的であるが、お祓いの専門家にお願いする場合もある。また、日常厄を寄せ付けない方法としては、厄除けとなるものを身に付けるという方法も用いられる。

時期

厄年における厄祓いの時期は、地域によって異なるものの、「年の節目である新年正月元旦に行う」ケース(一番祈祷)[1]、「年の節目を旧正月と考え、厄年の区切りも旧正月からとし、節分にあわせて行う」ケース(厄払い節分祭など)[2]、「年始から節分までに行う」ケースが多く見られる。もっとも、厄年を無事乗り切るために祈願するということが厄祓いの本質であるため、その時期を越えてしまったからといって厄祓いをお願いできなくなるわけではない。厄年の残りを無事に乗り切るための祈願に遅すぎるということはない。

神社によっては喪中を嫌う場合があるが、四十九日の忌明後であれば問題ないとする神社もある。そのため、事前に問合せを行ったりする人もいる。また、お寺であれば喪中を嫌うといったこともないため、お寺での厄祓いを選択するという方法もとられる。

子供の厄祓いは、誕生初参りや七五三などのお参りと合わせて行うことが多い。元々、七五三の起源は厄祓いでもある。

日常厄は日々積もる厄であるため、厄祓いの時期はとくに決まっていない。「正月一番祈願や誕生日など、年次の節目に定期的に行う」ケース、「何か災厄が立て続けに発生してしまい、大厄を小厄に、小厄を無厄に、と願い、思い立ったそのときに行う」ケースなどがある。



●【 盛り塩 】もりしお

2016-01-11 17:58:09 | 政治
●【 盛り塩 】
◆【 盛り塩 】のやり方・処分方法等
 いろいろ開運法がある中で、みんなが知っていて、なおかつ手軽にできる開運法の1つ「盛り塩」。
◆出典盛り塩ってどうやってやるの? 意外と知らない盛り塩の基本 - ハピズム
http://happism.cyzowoman.com/2013/01/post_1772.html
  
◆"盛り塩は、厄除け、場の浄化、運を引き寄せる開運方法です。そのルーツはいろいろありますが、奈良・平安時代にはすでに行われていたといわれています。"
 
◆"盛り塩に使う塩は、自然製法で混ざり気のないものを"
 
◆盛り塩に使う塩は、塩釜で作られた天日塩や岩塩などが一般的。家庭でよく使われている粗塩の中には、天然のものであっても、にがりやうまみ成分などが含まれているものがありますが、成分が添加されたものや、焼成方法などで作られた塩は、あまりオススメできません。
 
◆混ざり気のない、天然の製法で作られた塩を使用しましょう。盛り塩の塩の色は白がメジャーですが、色のついた塩(岩塩)があります。ピンク色は恋愛・結婚・子宝、黒色は事業運に効くといわれています。
 
◆盛り塩の方法
(1)盛り塩をする場所や部屋をきれいに掃除してから行います。
(2)ひとつのお皿にひとつまみ(約10g)ずつを山のような形になるように盛ります。
(3)塩は一週間程度で交換してください。
 
◆盛り方は「山盛り」を意識して
盛り塩は、塩が「盛っている」のが原則。塩を皿に平べったく乗せたものは、盛り塩とはいいません。
 
http://www.shio-navi.com/blog/archives/images/moru_02.gif

盛り塩はお客様を呼ぶおまじない?
盛塩盛り塩の始まりは、中国が晋の時代に初代皇帝が中国を統一したころと言う説があります。絶対的な権力を持っていた皇帝は三千人もの美女をかこっていたと言われています。皇帝は毎夜その三千人の美女の家を渡り歩くわけですが、それだけたくさんの美女がいれば、同じ美女のところに2度目に訪れるのはよくて数年後。美女も待ちくたびれてしまいます。 もちろん美女も皇帝の寵愛を一人占めしようとあの手この手を講じます。 そこである美女は考えました。

当時、皇帝は牛車を愛用していました。ゆえに「牛が止まれば皇帝も止まる」と考えた美女は、自分の部屋の前に「盛り塩」をしておきました。すると、塩を好む牛は足を止めてずーっとなめ続けています。皇帝も今夜はここで・・・となります。
これが毎夜続き、この美女は皇帝の寵愛を一身に集めることができました。

このお話がもとで、盛り塩は客を招く、福を招くというように考えられ、定着したと言われています。
これに似たお話は日本にもあり、奈良平安時代には盛り塩の風習があったようです。清めの目的の他に、貴族の乗る牛車の牛の大好物である塩で牛を戸口に留まらせ、それが縁で貴族に目をかけてもらうことがあったそうです。


呼び方いろいろ
日本では、小料理屋や料亭、寄席などの日本の伝統文化を引き継ぐお店や建物には欠かせないものとなり、縁起を担ぐために、掃き清めた門口に塩を小さく盛ります。「盛り塩」と呼ぶのが一般的ですが、清め塩、盛り花、口塩、塩花と呼び方もいろいろあります。
他にも地鎮祭で四隅に盛り塩をしたり、神事の供え塩などもあります。古くには、花柳界では必ず盛り塩をしたと言われています。


盛り塩のしかた
盛塩の盛り方
小料理屋さんなどでよく見かけるように、玄関の両脇に直接、または小皿や台座の上に直径5~10cm、なるべく高く塩を盛ります。置く前に玄関は綺麗に掃除しておきます。

少し水分を加えるときれいに形つくられるそうです。フレーク塩なら、湿り気もあり若干作りやすいかも知れません。
風水グッズが売っているお店などでは、盛り塩を作るための型も売っているようなので、探してみてはいかがでしょうか?

盛り塩には気を浄化するという「浄め」の意味も含まれていますので、精製塩ではなく天然の粗塩を使います。
盛り塩の交換は、3日、1週間、1ヶ月と様々。使い終わった塩も捨てたり、再利用したり(キッチンのにおい消しなど)、土に還すなどこちらも様々。近くでも盛り塩をしている人に聞いてみるのもいいですね。

 
◆盛り塩の作り方は、塩を皿の上に盛り、山の形に整えます。山の形であれば雑でも大丈夫。できれば、円錐か四角錐の形に整えましょう。通販で盛り塩用の固め形、盛り塩用のへらが売られているので、形にこだわりたい人は、これらを使ってみるのもオススメ。固めて盛る際は、塩に軽く霧吹きをして、固めやすくしてから形を作っていきます。
 
◆盛り塩効用の基本知識
◆お金がほしい人は … 西に黄色のお皿で。
◆仕事運を上げるには … 東に赤のお皿で。
◆なぜか喧嘩早い人は … 緑のお皿で落ち着いてください。
◆恋をかなえたい人は … 大切な日にピンクのお皿で。
◆才能・美しさをアップ … 南方にゴールドのお皿で。

◆お金がほしい人は … 西に黄色のお皿で。
◆仕事運を上げるには … 東に赤のお皿で。
◆なぜか喧嘩早い人は … 緑のお皿で落ち着いてください。
◆恋をかなえたい人は … 大切な日にピンクのお皿で。
◆才能・美しさをアップ … 南方にゴールドのお皿で。



 
◆交換のめやすは?
塩は1週間に1度は交換
盛り塩でやりがちなのは、塩を置いたら置きっぱなしにしてしまうこと。盛った塩は水を吸いやすいだけでなく、悪い気を吸収しやすいのです。

それを放置しておくと、悪い気がどんどん吸収され、たまっていってしまうので、運気の低下を引き起こしやすくなってしまいます。盛り塩の交換は、1週間に1度行いましょう。また、塩が固まっていたり、水に濡れていたら、そのつど交換を。
 
◆盛り塩の処分方法
 厄が付いた塩を、いつまでもその場所に置いておくのは良くないことだとされています。
盛り塩で使用した塩は、使った場所で処分するのが一番良いといわれています。

使用後の塩の処分方法に決められたことはありませんので、そのまま捨てたり、水に流したり、撒いたりしてください。
キッチンやお風呂、トイレでは“ヌメリ取り”や“ニオイ消し”として洗い流すか、そのまま水に流してください。
食用には使用しないでください。

●盛り塩(もりしお、もりじお)

2016-01-11 15:58:03 | 文化
●盛り塩(もりしお、もりじお)
◆盛り塩(もりしお、もりじお)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E3%82%8A%E5%A1%A9 
・塩を三角錐型あるいは円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習である。主に縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味を持つ。

岩塩などを盛り塩皿に盛り塩固め器などの器具を用いて三角錐や円錐に盛る。敷板が併せて用いられることもある。

日本の盛り塩の風習は奈良・平安時代には既にあったとされる。
 
・日本由来
盛り塩の由来は神事・葬送儀礼から来たのではないかとする見方がある。葬送儀礼では葬式後に塩を撒く風習があり、又神道の方では神棚に盛り塩を供えると言った風習がある為である。これは塩が清浄や生命力の更新といった意味合いがあるからである。日本では『古事記』に海水で禊ぎ・祓いをした記載があり、これを潮垢離(しおごり)と言う。

以下、盛り塩の意義を大きく二つに分けると、

人寄せの為の縁起担ぎとしての盛り塩
神事・葬送儀礼としてのお清めの塩。又神に捧げる神聖な供え物としての塩

となる。正確な由来は茫漠としており判明としないが、日本においては神事・仏事としての盛り塩から一般に広まった方が穏当と見られ、中国の故事由来説は話の面白さの為に広まったのであろうと学者間で考えられている。唯、神事・仏事のどちらが根本的な由来かは分からず、後代になる程、両者における意味合いが相交渉し、融合する為に、明確には区別ができづらい。
 
◆しお‐ごり〔しほ‐〕【潮×垢離】
海水でみそぎをすること
 
◆お潮垢離
 https://www.youtube.com/watch?v=s5LV5n90unw
◆2014/12/09 に公開

平成25年4月21日に、東松島市浜市海岸で、旧宮崎町(現加美町)熊野神社のお潮垢­離神事が行われました。
浜降り神事とも呼ばれるこの行事は、20年おきに、
加美町から鳴瀬川を沿って浜市の浜辺にご神体が降りてくるものです。

これは、今から約700年前、宮崎町に熊野神社を勧進したとき、
紀州からの船が漂流してしまい、流されたご神体を浜市の漁師が拾ったことから
始まったと言われています。
旧暦の三月に御神体が漂着した浜市の海でご神体を洗い清めるという行事です。
(因みにこのような浜降り神事は宮城、福島、茨城など東北の太平洋側に多くみられます­)

本来2011年の4月に第32回目が予定されていましたが、震災のため延期されていま­した。
関係者に津波による犠牲者もあり、更に浜市地区自体が大きな被害を受け、集落が消えて­います。
今後の開催がどうなるか、と危惧していましたが
各方面のご努力により今年4月21日に開催となりました。
 
◆高山の潮垢離(しおごり)
 https://www.youtube.com/watch?v=R19rZHlG_qw

 
◆神輿を海へ 清めの春
http://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO004107/20140420-OYTAT50005.html 
◆潮垢離
白装束の男たちが水をかけて清める「神輿流し」で、祭りは最高潮に達する(山形県鶴岡市で)
一気に海に入る担ぎ手たち。大須では神輿はぬらさないのが習わしだ(宮城県石巻市で)

 春、神輿を海に入れる風習が各地にある。

 4月14日の祭りの朝、宮城県石巻市の大須八幡神社から、神輿を担いだ20人の男たちが「ヨーサイ、チョーサイ」と叫びながら坂道を駆け下りてきた。

 200メートルほどで大須の浜だ。波が堤防で砕けるたび、掛け声や囃子の音がかき消される。

 堤防の先端で祝詞を上げ、獅子舞を披露した後、いよいよ神輿が海に入っていく。陸に上がろうとする者、海に引き返そうとする者とが、波打ち際で何度も駆け引きする。浜を囲むように集まった住民たちが拍手と歓声を送る。

 「櫓で船をこいでいた頃、漁師は命がけだったの。それで安全を祈り、年に一度、浜を練り歩いてご神体を楽しませるわけです」。自治会長の佐藤重兵衛さん(75)が、いわれを聞かせてくれた。

 塩や海水は古くから、けがれを払う「みそぎ」の力があるとされてきた。海岸に赴いて神輿を清める神事は「潮垢離」「浜下り」などと呼ばれる。

 大須の祭りは干満の差が大きい旧暦3月15日と決まっている。震災前は堤防の先にある小島と陸続きで、引き潮に合わせて神輿を運び、ここで神事を行った。今は地盤沈下したため島には渡れないが、先人が海の呼吸を感じながら暮らしてきた名残をうかがわせて興味深い。

 翌日、西に170キロ離れた山形県鶴岡市の鼠ヶ関で、神輿を担いで川に入る弁天祭りを見た。こちらは厳密には海ではないが、数百メートル先は河口で、海風が吹きつける。安全と大漁を地元の氏神に祈願するところも石巻と共通している。

 朝から集落を練り歩き、振る舞い酒でしこたま酔った男衆が、冷たい川に次々と飛び込んでいく。神輿に一斉に水をかけ、タオルでごしごしと拭く。まさに「汚れを洗い清める」といった趣だ。

 「お神輿さまは神様だでな。これを見ねぇば1年、健康でいられねえ気がするのな」。五十嵐智恵子さん(75)は今年も正装に着替え、弾んだ声で神輿を見守った。

 きれいになった神を浜に迎えれば、もう春。まもなく畑で種まき、海では春漁が始まる。

文と写真 高倉正樹

◆震災後中断の神社も

 海水で清める方法は様々だ。神輿ごと海中に沈めるところから、サカキを海水に浸して払ったり、参加者だけが身を清めたりする例もある。毎年ではなく12年や20年に一度としている神社もある。

 震災後、太平洋側では被災したり氏子が減ったりして、潮垢離が中断されたままの神社も少なくない。
2014年04月20日
 
◆宵宮の潮垢離
 http://iyokannet.jp/event/detail/news_id/139
◆賀茂神社の秋の大祭の前夜に行われ、祭りに携わる若者が、潮垢離で身を清める。割木で篝火を焚き、褌姿で掛け声と共に何度も海に飛び込んで、禊を行い、最後に海につけていた牛鬼を引き揚げる勇壮な行事。

イベント情報

URL
http://www.seiyo1400.jp/
開催日
2015年10月23日
開催場所
西予市明浜支所裏海岸
 
◆潮垢離の使われ方検索(小説・文学作品等):言葉の使い方
 http://kanji.quus.net/jyukugo3743/idiom102540.htm
◆「藤九郎の島」より 著者:久生十蘭
正月の五日に、またもや親船《おやぶね》を壊した舟子が流れ着いた。 朝早く、浜へ潮垢離《しおごり》をとりに行っていた土佐船の長平が、甚八たちのいる岩穴へ駆けこん....
 
◆大阪船と月も日もおなじ正月の五日に、またもや親船《おやぶね》を壊した舟子が流れ着いた。 朝早く、浜へ潮垢離《しおごり》をとりに行っていた土佐船の長平が、甚八たちのいる岩穴へ駆けこんできた。五人ばかりの人....
 
◆高山の裸祭(潮垢離)-西予市明浜町高山-
 http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/renkei/sikoku/e_takayama_siogori.html
◆ 法華津(ほけつ)湾が雨に煙っている。沖ゆく2艘の船は網船であろう。緩やかな航跡を描いて網を曳く。イワシ、シラスは宇和海の特産。陸では温州ミカンの収穫が始まり、高山の集荷場では摘果の講習が行われている。見上げれば耕して天にも至るミカン畑が美しい。10月21日、午前中から雨模様、止む気配もない。
 高山の秋祭りは10月21日から3日間(2011年)。賀茂神社の大祭である。南予一般の秋祭りの期日より1日長く、高山の祭りは実に盛んである。牛鬼や五ツ鹿、神輿などが出て賑わう。
 10月21日は宵宮。宵宮の呼び物は裸祭。いわゆる潮垢離(シオゴリ)が浜で行われる。神具である竹で編まれた牛鬼の骨格(メド)を1日海水に浸しておき洗い清め、同時に神輿や牛鬼を舁(か)く者や祭りの警護に当たる若衆が海水で斎戒沐浴する神事である。祭りの神具を洗い、神職や頭屋などが禊(みそぎ)をする神事は讃岐の梛の宮の秋祭り(善通寺市中村町)などに散見されるが、禊自体が大祭のメイン行事の一つとしているところはそう多くはないだろう。
 シオゴリは3組(中神、前神、後神)の若衆によって行われる。沿道に「警護」と書いた提灯が灯る宿が3か所ある。昔の若者宿の伝統がこの町ほど尊重されていることろはない。若衆は組ごとに定められた宿に分宿し、シオゴリの準備を進めるのである。
 午後6時45分、シオゴリの会場となる浜に祭壇を設け、三方に御饌を盛り神事がはじまる。同50分ころ井桁に組まれた3か所の割木に一斉に火が放たれた。大火が波止場を赤々と照らす。同7時ころ注連縄を張った港の入口から次々とフンドシに藁草履姿の若衆が会場になだれ込み大火の周りに終結。いよいよシオゴリの始まりである。(写真上)
 若衆らは二人、三人と肩を組み、一斉に走り出し、浜の雁木を飛び越えて次々と海中に飛び込む。大火で暖をとりながら、飛び込み、雁木を駆け上がり、また飛び込む。

 シオゴリの終盤、海中に浸した牛鬼の周りに若衆が集まり、メドを洗い清める(写真下)。
 いっときして牛鬼を浜に曳き上げ、舁(か)きあげて大火の周りを3周した後、西予支所(旧明浜町役場)前の大通りに出て、通りを行きつ戻りつして錬り込み、宿の脇にメドが据えられ、小一時間にわたるシオゴリ神事は終わる。
 高山のシオゴリはずいぶん勇ましく勇壮な行事。路上などに脱ぎ捨てられた藁草履を拾って玄関先に祀ると、1年間、無病息災に暮らすことできると信じられている。-平成23年10月21日-

朴一教授「在日の生活保護率は4.4%に過ぎぬ。今も23%という『在日特権』はデマ」

2016-01-11 12:26:43 | 政治
朴一教授「在日の生活保護率は4.4%に過ぎぬ。今も23%という『在日特権』はデマ」
https://t.co/tBRFiHCPX6
ネット反応
盗人猛々しいとはこの事か
過去に23%もあったの?どんな手を使ってたんだよメチャクチャだな

特永自体が世界的に異常なんだよ



1:動物園φ ★@\(^o^)/:2016/01/08(金) 20:08:55.36 ID:CAP_USER.net

ヘイトスピーチという病理どう立ち向かうか…朴 一(大阪市立大大学院教授)
ヘイトスピーチの攻撃対象が在日コリアンに限定されてきたもう一つの理由は、在日コリアンだけが
「在日特権」を享受してきたというものである。在特会は、あたかも在日コリアンに「特権」があるかの
ように主張するが、実際はどうなのか。

まず在特会はホームページ上に「在日(コリアン)が日本に寄生することを認めている」と書き、
そうした行為を認めている「特別永住資格」こそが「在日特権」であると主張している。

彼らが問題にしているのは、一般の永住資格をもつ在日外国人と違って、歴史的経緯をもって日本に
滞在してきた在日コリアンだけが、入国審査時に顔写真の撮影や指紋採取の必要なく、証明書の携帯も
求められていないという、特別な扱いを受けているという点である。

だが、こうした在日コリアンの処遇は、1965年の日韓条約における在日コリアンの法的地位協定に
関する協議を経て、1991年に「(在日コリアンの)歴史的な経緯と日本での定着性を踏まえた配慮」として
日韓で取り決められたもので、根拠のない「特別な扱い」ではない。

日本に定住している在日コリアン2世から5世までの多くが、日本の植民地支配の影響を受け、
戦時中の労務動員を含め日本に移動することを余儀なくされた人々の子孫であるという歴史的経緯を
踏まえ、実施されたアファマーティブ・アクション的性格をもつ措置である。

また在特会は、生活保護についても在日コリアンへの給付率が「異常なほど高い」とし、在日コリアンが
優遇されていると主張している。

確かに50年以上前は在日コリアンの生活保護受給率が高かった。韓国戦争休戦直後の1954年には、
日本人の生活保護受給率2%に対し、在日コリアンは23%と突出していた。これは、朝鮮戦争による
難民の発生と54年に出された行政通達の影響と考えられる。

現在はどうか。ネットでは「日本人の生活保護受給率0・9%に対し、在日コリアンは22・7%」
(「在日の就業と生活保護の統計を見る過去ログ保存ページ」2001年)

という怪情報が流されているが、これは事実ではない。生活保護に関する在日コリアンの受給データは
ないが、在日外国人の受給者数はわかる。

例えば2003年の在日外国人の受給者数3万5038人のうち、在日コリアンの受給者数の構成比が8割
(浅川晃広「戦後『在日神話』としての国籍剥奪という嘘」『正論』2005年8月号)という「在日特権」派の
研究者の指摘を認めたとしても、在日コリアンの受給者数は2万1110人となり、この数字を当時の
在日コリアンの全体数(62万5422人)で割ると、在日コリアンの生活保護受給率は4・4%にしかならない。

この数字をみれば、在日コリアンへの給付率が「異常なほど高い」とはいえず、在日コリアンが特恵的に
生活保護を受けているとはいえないことがわかる
(宮島理「生活保護と在日」『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』宝島社、2006年)。

かつて永住外国人への地方参政権付与に賛成だった政党は、その声をあげず、一部の政党とはいえ、
在日コリアンへの特別永住制度の見直しを党のマニュフェストに掲げる政党が出現する中、 少数とはいえ
一部の排外主義グループが主張してきた声が日本の政治に反映されていく過程は、排外主義が、
下から上に広がっていることを示している。

在日コリアンの権益擁護・獲得を求める団体にとって、ヘイトスピーチを禁止する法案制定を求めることは
重要であるが、それ以上に大切なことは、「在日特権」という言葉に集約された在日コリアンへの誤解と
偏見を取り除くために、また特別永住権の見直しを阻止するためにも、在日コリアンの置かれた差別的な
人権状況を一人でも多くの日本人および日本の政治家に、正しく理解してもらう戦略的な情宣活動を展開
していくことである。
(2016.1.1 民団新聞)
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=21338