ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸黄門漫遊記 「葵の御紋」を振りかざすイメージが形成された背景 「御三家」

2020-05-17 | 茨城県南 歴史と風俗


権威を見せ付けて
 役人の不正を糺さざるを得ない事情 

 「水戸黄門漫遊記」は、数ある時代物のうちでも、人気の衰えない話であるが、『漫遊記』自体は、それに喝采した近世後期の人びとの夢想である。

  実在の水戸藩主である徳川光圀は、水戸藩初代藩主頼房の第3子で江戸時代初期の名君の典型とされた。光圀は国史編纂 (『大日本史』) のために史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度である。 

 光圀は初代藩主頼房の養母太田氏「於梶の方」の墓がある鎌倉扇谷の英勝寺に「英勝院」の墓碑銘を撰文し、頼房および光圀は養母、養祖母の菩提のため英勝院を度々訪れている。
 また初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る東照宮のある日光日光へ行ったことはあるが諸国を漫遊したという史実は無い。 
 

 時代劇の「水戸黄門」のストーリーは、時は元禄、「犬公方」こと五代将軍徳川綱吉の治世。隠居した光圀はお供の俳人を連れて、諸国漫遊を兼ねて藩政視察の世直しの旅に出る。悪政を行なう大名・代官などがいれば、光圀は自らの俳号「水隠梅里」を書き記すなどしてその正体をほのめかし、悪政を糾す、というものである。  

 この黄門(中納言の中国風のよびかた)像は天下の副将軍としてのものである。その下敷になっているのは、二代水戸藩主徳川光圏としての名君の誉れである。
 徳川光圀は 『大日本史』 の編纂のほか、士風の高揚、寺社の整理と復興、農業の増進など積極的な政治をすすめ、藩体制の基礎をつくった。
 水戸の徳川家が天下の副将軍と称することで、あたかも将軍家につぐ高位にあるかのような印象を与えるが、水戸藩は、尾張・紀伊についで御三家のなかではもっとも格下であった。

 光圀が糺すのは局所々における役人の不正であり、時には身分制度の掟で結ばれない恋人同士に粋なはからいを示すことなどであるが、身分制度の矛盾を正す改革にまで踏み込んだ対応はしていない。

 江戸時代は、天下の副将軍が、いきなり「葵の御紋」を振りかざして善悪の決着がつけられるような社会ではなかった。
 身分を問わず訴訟が行なわれ、公然の対決や扱い人をいれての内済・和談というのが公事の処理であり、犯罪であれば、武士は目付、町人は町奉行、寺社関係は寺社奉行と、それぞれの身分に応じた司直の機構がある。そういう機構の縄張りを無視できなくなってくるのが、近世の成立であった。

 もちろん頭越しの影響力行使や手加減はあった。だがそれは規則・制度を運用する条件としてである。『漫遊記』の登場そのものが、規則ずくめとその非効率に対する反発という側面をもっている。

 光圀のような名君藩主によって仕上げられてゆく「藩世界」において、領民はけっして封建領主制の抑圧からのがれられたわけではない。 

 黄門様が「葵の御紋」を見せ付けて役人の不正を糺すというイメージが形成された背景にあったのは、水戸藩の威光と弊害及び定府制に伴う江戸と水戸の対立、これに伴って起こる諸々の問題を解決せざるを得ない事情があった。

 また時期がたつにつれて、藩財政にゆきづまりを深めたために、史実以上に誇張された名君像がつくられていったという事情もある。 

                水戸光圀木像  
         『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』 茨城県立博物館

「御三家」である
 水戸藩の成立事情で、他の藩にない特徴は、藩主徳川家が御三家の一家であることと定府制(江戸常詰)であること、この2つである。 

 江戸時代の諸大名の数は、時代によって多少の相違があり、大概260家前後から270家前後の間を上下しているが、将軍徳川家との縁故によって親藩・譜代・外様の3種類に分けられる。
 親藩は将軍家の親類で、そのうち家康の子を始祖とする尾張・紀伊・水戸の三家は別格で、御三家と呼ばれ、その分家は御連枝(ごれんし)と呼ばれた。 

 更に、家康の子結城秀康を始祖とする越前松平家、秀忠の子保科正之を始祖とする会津松平家、及びそれらの分家、母系で徳川氏の縁戚につらなる大名などは御家門(ごかもん)といわれた。

 譜代大名は関が原役以前から徳川氏に臣属した者で、外様大名は関が原役以後臣属したものであるが、その区別はかならずしも明確でなく、後には外様大名でも譜代の格式を与えられたので、いくらか例外もみられる。親藩の数は御三家以下23家で、新規に取立てられたものであるから、槍先の功名で徳川氏の覇権を助けて成り上って来た譜代大名や、自力で大名となり徳川氏の覇権に服した外様大名とは、その成立事情に違いがある。

 たとえば、藩政では広大な領地を一時に与えられたので、その当初から支配組織が整ってはおらず、また家臣団も寄せ集めであるから、譜代の主従関係が密接ではない。
 この点では、特に戦国以来の外様大名の性質とは大きな相違があり、成立の初期では藩情にもその相違が明らかに現れている。御三家水戸藩の場合も同様である。  

  御三家の制度は、幕府が特にある時期に法令を出して定めたことはないが、家康の方針に基づいて義直・頼宣・頼房3子が格別の待遇を受けて大領地を与えられたとき、すでに御三家の原型ができたのである。そして2代将軍秀忠の弟、3代将軍家光の叔父として他の親族大名とは別格の地位に立ったとき、おのずから権威を高め、幕府の制度の上でもその権威にふさわしい格式が成立したもので、その時期は幕府の諾制度の大綱がほぼ成立した寛永期と推定される。

 事実、「御三家」の称は、1623(元和9)年 家光任将軍の時から寛永に入って、記録にたびたび見えるようになる。御三家の「三」は古来、東洋思想では、三・五・七・九などの数が重んぜられているので、その伝統思想に適応したとの考え方もあるが、事実は家康の11人の男子のうち晩年に生まれた末の3人が特に寵愛され、膝下に残ったのである。 

家康には男子11人がいたが、 
●長男信康(母はは正夫人関口氏)は、1579(天正7)年21才で自殺、
●次男秀康(以下、母は側室)は下総の結城家を継いで越前北之荘(福井)65万石を領したが、1607(慶長12)年34才で病死、
●三男は秀忠、四男忠吉は三河東条の松平家を継いで、尾張清須57万石を領したが、1607(慶長12)年28才で病死して嗣子なく断絶、
●五男信吉は武田氏を継いで水戸15万石を領したが、1603(慶長8)年21才で病死して無嗣断絶、
●六男忠輝は三河長沢の松平家を継いで、越後福島(のち高田)75万石を領したが1615(元和元)年父に勘当され、翌2年25才で改易、伊勢朝熊に流罪となり1617(天和3)年死没、
●七男松千代は1599(慶長4)年7才で死し、
●八男仙千代は1600(慶長5)年6才で早世した。
したがって家康の晩年には、将軍秀忠のほかに、九男義直・十男頼宣・十一男頼房しか残っていなかった。

 近くは豊臣氏が肉親少なく減亡を早めた事情を眼前に見、遠くは源氏が骨肉相食み北条氏に権力を奪われた先例を知っている家康にとって、3人の末子たちを大々名に取り立て、将軍家の藩屏とし、徳川の血統の安泰を計ることは、実に情実と政路とをかねた方針であったに違いない。 

 徳川家はその後、秀忠に4人の男子があった。
 長男長丸(母は下女)は1602(慶長7)年2才で死し、次男は3代将軍家光(母は正夫人浅井氏)、三男忠長(同)は駿府城20万石を与えられたが、1631(寛永9)年改易となり、翌年28才で自刃させられ、四男正之(母は側室)は信濃高遠城主保科家を継いで会津23万石の城主(その孫正容の時、松平姓となる)となった。 

  家光には5人の男子(すべて母は側室)があった。長男は4代将軍家綱、次男綱重は甲府城25万石を与えられたが、1678(延宝6)年死し、その子綱豊(家宣)が宗家を継いで6代将軍となったので、甲府徳家は絶えた。

  三男亀松は1684(正保4)年3才で死し、四男綱吉は寛文元年、上野館林で25万石の大名に取立てられたが、1680(延宝8)年兄家綱の死後宗家を継いで将軍となったので、館林徳川家は一代で絶え、五男鶴松は1648(慶安元)年当才で死んだ。 

                        近世徳川家系図
     
    『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』 茨城県立博物館 


 このように、家康の男系子孫には義直・頼宣・頼房ほど特に卓越した地位に立った者はいない。この3人は三代将軍家光の叔父として尊敬され、義直は1650(慶安3)(51才)に死んだが、頼宣(1671年=寛文11年死、70才)と頼房(1661年=寛文元年死、59才)とは4代将軍家綱の時代まで徳川一家の長老として重きをないたのである。こ
 れらの事情をみれば、御三家が諸大名中に高い権威を誇るようになったわけが判然とする。 

の地位は次のとおりである。
(1) 官位・儀礼等の格式
  御三家の格式は他の諸大名とは別格とされ、幕府から待遇を受けた。
 まず官位は尾張・紀伊両家が従二位権大納言を極位極官とし、水戸家は従三位権中納言を極位極官とした。
 江戸時代の諸大名のうち納言となった者は前田家の利常・齋泰2人が中納言に任ぜられただけである。また千代田城中の詰所は御三家だけ大廊下で、そのほか将軍に対する礼式すべてにつき、諸大名とは異なった。また諸大名との礼式も、対等でなく一段高い地位にあった。 

(2)幕府との支配関係  
  家康の意向で特に附家老(附人という)が付属された。
  尾張家の成瀬・竹腰両氏、紀伊家の安藤・水野両氏、水戸家の中山氏で、いずれも譜代の城主格である。

 附家老の制には、御三家の内部を強固にし、幕府との連絡を密接にすると共に、場合により幕府から御三家を監督する意味もふくまれていた。諸大名は、将軍から領地の証状(10万石以下は将軍の朱印を押した朱印状、10万石以上は将軍の花押を記した判物)を与えられ、その証状は将軍の代替わりごとに書き改められたが、御三家にはこの事はない。  

 慕府の築城工事や治水土木工事などには、諸大名の手伝い(国役という)を命じたが、御三家には寛永の千代田城普請の時以外は国役の義務を免ぜられた。また諸大名は将軍の代替わりごとに、忠誠を誓う誓詞を差出さねばならなかったが、御三家には八代将軍吉宗の時から廃止された。

(3)幕政および宗家の継嗣との関係 
 御三家は常々幕府の政治向きの事に直接には関与しない建て前であった。
 これは将軍の親類が政治上権力を揮うと弊害が起こりやすいため、初期以来幕政の根本方針とされた。しかし幕府の危機の場合、または家康以来の祖法を変えるほどの一大事の場合などには随時意見を上申し、あるいは将軍から御三家に意見を求めた。
 御三家の幕政関与の好例は、天明6年老中田沼意次の罷免、松平定信の老中推挙である。

 このときは水戸家治保・尾張家宗睦・紀伊家治貞の3人と一橋家治済が協カして、田沼一党の粛清に乗り出し、ついにこれを倒して、寛政改革への途を開いた。
 またこれより先、八代将軍吉宗が財政難を打開するため、諸大名の参勤交代の在府期間を半年に縮小して、その代わりに上米を諸大名から上納させる新政策を行なったとき、あらかじめ御三家と密議して了解を取り付けたことがある。このように幕府と御三家との政治関係の先例をみれば、幕末、水戸徳川齊昭の激しい政治活動も、その由来するところが深いのである。 

 将軍の継嗣問題については、特に御三家の意向が尊重されるべき立場にあった。将軍に世子(後継ぎの男子)があるときは、諸事老中が取計ったが、世子がなくて将軍か死んだときは、家督相続者の選定につき御三家が相談にあずかり、また将軍に世子も弟もない場合は、御三家の中から入って宗家を継いだ。

  四代将軍家綱の病死に当たり、大老酒井忠清が有栖川宮幸仁親王を幕府の主として迎え立てようとしたとき、老中堀田正俊がこれに反対して将軍の弟館林城主綱吉を推し、ついに綱吉が宗家を継いだが、この決定には特に徳川光圏の意見が有力であったと水戸側では伝えている。

 ただし、この相続間題の真相は、将軍家綱の遺言状を正俊があずかって評議の席に差出したので、酒井忠清の計画(その真相は不明)が破れ、綱吉に決定したもので、光圀はこの将軍の遺志を尊重すると共に、また道理上、綱吉を推したのであろう。

 その後、七代将軍家継がわずか8才で死んで、御三家のうちから後継を選ぶこととなったとき、水戸家徳川綱條が尽力して将軍家と最も血縁が近く、賢明の名が高かった紀伊家徳川吉宗を推挙したので、吉宗に決定し、幕政停滞の危機を防止することができた。 


【参考文献】
『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』茨城県立博物館 平成12年11月
『水戸市史 中巻1』 水戸市編纂委員会著 水戸市役所 1991年
『県史シリーズ8 茨城県の歴史』瀬谷義彦・豊崎卓著 山川出版社 昭和62年8月
『大系日本の歴史⑨ 士農工商の世』深谷克己著 1993年4月 
『世界大百科事典 16』 平凡社 1968年9月

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天狗党の筑波挙兵 義挙か不... | トップ | 名君の誉れ高い水戸光圀、黄... »
最新の画像もっと見る

茨城県南 歴史と風俗」カテゴリの最新記事