筑波道から飯名神社方向及び筑波山を望む
古代の筑波開拓
縄文時代の頃、筑波山麓の南面に当るまで所太平洋の波が寄せていたという。
縄文・弥生時代から古墳時代と時代とともに筑波山南面山麓の開拓が行われたので、南面山麓が筑波の表玄関であった。
古代、筑波山への登山道は土浦方面から小田を通り平沢の郡家跡と推定されるので神郡、六所を経由して登る道と、北条から神郡を経由して臼井の飯名杜を通って登るルートがあった。
そして大化改新で国府が石岡に定まると、平沢の郡家から山口を経過して往来する道路も開通したので、平沢、北条、神郡、臼井、六所あたりが、政治.経済・文化の中心を占めていたのであろう。
嬥歌会(かがい)の舞台 飯名神社
嬥歌会(かがい)について江戸時代の賀茂真淵は、「かけあひをちぢめてかがひと言う」と説明している。
お互いに歌をもってかけあうこと、あるいは歌をもって挑みあうことのようである。
これを地方では擢歌会と言い、都会では歌垣(うたがき)と言った。
都会での歌の挑みあいも、地方の筑波では、歌を挑みあうだけでなく、遊楽や妻問い(つまどい、求婚)の目的もあり、遊興的な一面があった。
飯名神社由来記
飯名神社由来記
一、古くから稲野(飯名野)の弁天として近隣の人人の崇敬を集めていた神社であるがその創建に付て村方の文書には何の記録も残っていない。
但し奈良時代の和銅から養老にかけての年間(713年~723年)に朝廷の命により提出した常陸風土記の信太郡(今の龍ヶ崎付近)の条に 「其ノ西ニ飯名ノ社。此即筑波ノ岳に所有飯名ノ神ノ別属也。」 とあるので常陸風土記成立以前の創建であろう。
一、昭和四十三年に上梓された宮本宣一氏著の 「筑波歴史散歩」 の中で、氏は、飯名神社の創建は、「昔から神体山として崇められ筑波の神の里宮として創建され、六所神宮と同性格ものであろう」と述べられている。
一、六所神宮大宮司であった長戸家文書に「飯奈野神社伝記」があるが、それには次の記載がある。
○當社勧進は康正ニ丙子年(1456年)十一月十六日飯奈野ノ地ニ宮造立有テ保食神鎮座シ給フ。
○その後再建は天正十九年辛卯年(1591年)正月初巳日御遷宮
○其後万治三庚子年(1660年)三月十四日弁財天造立、祭神、市杵鳩姫命
一、筑波山中腹弁慶七戻り附近の登山道より出土した鰐口には「常陸国北条郡臼井村稲野宮鰐口壇那衆文明十一年(1479年)五月二十五日」の銘がある。
一、万葉集(313年~759年までの歌詩)
巻十四 東歌に「筑波嶺に雪かも降らるいなをかも、かなしきころがにぬ干さるかも。」があるがいなをかが万葉仮名で 「伊奈乎可」 と記されているので 「飯奈岡」「稲岡」「否応か」等と解釈されている。
一、例祭日、毎年旧正月初巳の日
祭礼は毎年右の通り行われているが記録に残っている天正の再建遷宮の日が正月初巳の日になっているので、それに依っているものと思われる。
一、祭神、宇気母知神(保食神)市杵鳩姫命
○配記、伊邪那岐命 伊邪那美命 須佐之男命
大巳貴命 金山比古命
○境内社、稲荷 愛宕 三峰 山の神の各社
一、 昭和二十七年一月二十三日宗教法人設立
飯名神社々務所
万葉歌碑
「筑波峰に 雪かも降らる飯名岡も 愛しき児らが布乾さるかも」
古代の地方開拓は農業開拓が主であった。
常陸地方の一部では弥生時代も迎えない、原始時代末期の生活段階をなしている地方もあったが、大和政権下に組入れられ、土地の開墾、道具の導入、井泉の開発、病害虫駆除など困難を克服して開拓された。
土着の人々による土着の信仰は存在していたが、国造として着任した物部氏は、大和朝廷の習俗を導入し、神杜の創建、筑波の神を祭り、新嘗の祭を実施した。
筑波の農業祭は、春は新年祭といって五穀豊穣を神に祈り、秋はその感謝の意を神に捧げる祭として新嘗祭を行い、これに伴ってと 「か歌会」(かがい)が発生した。