ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸学の尊王攘夷思想と天狗党の乱及び勤皇志士の動向 (2)

2022-03-11 | 茨城県南 歴史と風俗

水戸学の尊王攘夷思想と天狗党の乱及び勤皇志士の動向 (1) の続き


江戸幕府の衰亡
 
 江戸幕府は、3代将軍家光に至って、あらゆる機構が整い、
武家政治は完成された形を示したが、
5代将軍綱吉に至って、幕府の太平が謳歌される傍ら、
綱吉の偏執的な性格や、生類憐愍令や、悪貨鋳造などからの影響もあって、
太平の余弊たる享楽主義が天下を風靡した。


 もっとも、そのために学問、文芸、演劇、美術、商業など、
文化的な方面は発達したが、戦国伝来の律義な武家精神は凋落した。


 その後も庸主が続いたので幕府の政治的機構は、生気を失った。

 たまたま8代将軍吉宗は、紀州侯頼宣の孫ではあるが、
わずか3万石の領主から、宗家を嗣ぎ、更に将軍になっただけに、
天成の英才であると共に、下情に通じていた。

 彼は家康創業の精神をもって、幕政の改革、風俗の矯正に努力し、
足高の制(従来は、千石の者が、三千石の役高の職に就くと、永久に三千石になる)を、
在職中だけ差額二千石を給することにした。
幕府の財政の膨脹を防ぐと共に、少禄の者を抜擢するためである。
目安箱(投書箱)の設置など、大いに善政を敷いた。

 江戸幕府の命脈は、彼によって、延長されたに違いないが、
幕府制度の本質内に含まれている欠陥は、如何ともすることが出来なかった。 

 江戸幕府の中心思想は、封建的農業主義である。
が、日本の土地の広さは一定しているし、
農事の技術も百年一日の如しであるから、農産額などは、殆んど増さないのである。
これに反して、都市の発達に伴う近世的な商業は、発達して行く一方である。 

 これでは、土地所有を基礎とする武士階級の経済力が、
商業、すなわち町人に支配され、その政治的位置までが動揺を来すことは当然である。

 幕府創設以来百年に足らずして、
熊沢蕃山は、
「今は、大小名とも借銀が多からざるは稀なり。」といっている。

 その借銀は、主として大坂の町人から借りたのである。

 むろん、町人に借りる前に、家臣達の知行米を借りたから、
小身の武士は、仲間(ちゆうげん)も置けないし、種々の内職さえもした。
 旗本の間では、町人から持参金のある養子を貰ったりした。

  昔の武士は、千石について約30人の兵を連れなければならない。
 平生から、それだけの人数とそれに必要な武器とを用意しなければならない。

 が武士が貧乏してしまうと、人を養うことが出来なくなるし、
持っている武器も手放すわけである。
 役儀上、ぜひとも人数を揃へなければならない場合は、傭人足を頼むわけである。 

 恩顧譜代の家の子郎党に取り囲まれた鎌倉時代の武士と比べると、
 幕末の武士達は、武士とは言えない状況にあった。

 それに、武士は農民が発達したものだ。
 土地に固着して、半兵半農で武を兼ねたところに、武士の本領があったのである。 

  土地を離れ、都会に定住し、柔弱な側用人や腰元などに取りまかれていたのでは、
知行取りで、サラリーマンと同じで、武士ではないのである。

 だから、律義一徹な三河武士の子孫たる旗本8万騎も、
単なる消費階級として幕府の足手まといになるだけで、
軍隊ではなくなっているのである。
これでは、幕府の威信は地に墜ちるばかりである。 

勤皇思想の勃興
 そこへ持って来て、勤皇思想の勃興と外交問題が、時代の激浪として幕府に迫って来た。

 結局これが幕府の命取りになったが、
三代の家光の鎖国以来150年の間に、世界の形勢は一変していた。

 鎖国当時、ヨーロッパ資本主義は、
ポルトガル人を先駆として東洋のインドや支那や日本に力を伸して来たが、
今はすでに英国がポルトガルをしりぞけ、オランダを圧して、
東洋貿易を独占しようとして、
支那と交易し、南方から日本に迫ろうとしている。

 ロシアは五代綱吉時代にカムチャツカを支配下に置いたが、
ついに我が千島列島を侵し、
女帝エカテリナは日本語の研究をやらせていたというくらいだから、
北海道を手に入れようと窺っていたのである。

  フランス革命も、イギリスの産業革命も、アメリカのフルトンの蒸汽船の発明も、
11代家斉の寛政、享和、文化の頃である。

 世界の交通が大規模となつて、ヨーロッパ人の東洋経営が猛烈化し、
フランスの安南占領、
イギリスの印度インド攻略、阿片戦争、
ロシアの黒龍江地方の経営等が行われた。

 こうして世界資本主義の波は、
東洋の一隅で鎖国の惰眠を貪っている日本の周囲に、
ひたひたと押し寄せたのである。 

 幕府体制を維持する上で最も重要なことは、
幕府中心主義と日本孤立主義である。

 幕府中心、将軍絶対主義は、勤皇思想の勃興によって動揺しようとしているし、
農業的鎖国の徹底によって維持しようとした封建的大土地所有制度は、
欧米の商業資本主義流入の急潮によって脅かされている。

 元来、勤皇思想は国体観念と連繋しているが、
諸外国との関係は、当然国家意識を喚起させた。

 そのため国防思想は勤皇思想と融合し、
国防論と尊皇論とは抱合して尊皇攘夷論となり、
やがては討幕の大運動となって展開したのである。

 大名の中での攘夷論の第一人者は、水戸の徳川斉昭である。
彼は嘉永6(1853)年6月にアメリカの提督ペルリが軍艦4隻を率いて浦賀に入港し、
国論が沸騰したときに、大砲74門を幕府に献じて世人を驚かせている。
そのため水戸は尊皇攘夷論の中心地になった。 

 ペルリの軍艦は、2隻は帆船で2隻は風力と気力兼用だった。
 いわゆる黒船の砲声や黒煙は、手槍や火縄銃を持つ沿岸警備の武士達を驚かせた。


 洋学によって海外の事情を学んでいた渡辺崋山や高野長英等は、
攘夷が無謀であることを説いた。

 日米間に神奈川条約が締結され、下田及び函館の2港が開かれた。

  安政3(1856)年には米国領事ハリスが、米国旗を掲揚して下田に駐在した。
同4年には江戸、大坂、兵庫、新潟の4港を開くことが決まり、
同5(1858)年には、イギリス、ロシア、オランダ、フランスとの通商条約が結ばれた。
翌6(1859)年には横浜、神奈川、函館の3港が開かれた。

 こうして、外国を恐れた幕府は、鎖国主義の本家でありながら、
事なかれ政策のために開国した。

 このため外交問題は幕府にとって致命傷とり、国内は開国論と攘夷論で沸騰した。

 しかし、開国論者といえども、幕府の態度を支持したのではなくして、
当初から進歩的な鎖国排撃論者であった。

 又攘夷論者も、鎖国主義的攘夷論でなくて、国家の面目を傷つけず、
国体の尊厳を毀損し、
国民の意気を挫く外国の脅迫的な開国の要求や城下の盟約開国に悲憤慷慨したのであって
尊皇愛国的な攘夷論者であった。

  開国論の大先達と言われる横井小楠も、その一人であった。

もっとも、中には到底不可能な攘夷の実行を迫って、
幕府を窮地に追い詰め詰腹を切らせようとする倒幕戦術としての攘夷論者もいたことも否定できない。

 そして、その間、島津久光の家来が横浜郊外の生麦でイギリス人を斬ったり、
浪士たちが品川御殿山の外国公使館を焼いたり、
イギリス船が下関や鹿児島を砲撃したような事件も起った。


 また、梅田雲浜、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎を始め
多くの勤皇家が惨殺された安政の大獄や、
その報復としての桜田門外の井伊大老襲殺があり、
やがて薩長の連合によって倒幕が実現した。

 幕府が、150年にわたって厳守して来た鎖国政策を、案外容易に放棄した原因は、
幕府絶対中心主義であった江戸時代の社会が、
経済的には商業資本主義による町人の興起とこれとは対称的に武士階級が財政難に陥ったこと、
思想的には尊皇思想が全面的に勃興したこと、
この2つによって幕藩体制が動揺し出したため、
外国との貿易も進展しつつあり鎖国が意味を持たなくなって来たからである。

 さらに外交問題が、幕府倒壊の転機となった。

 江戸幕府を直接転覆したものは、創業の家康が極度に恐れた外様の雄藩、強藩ではなく、
志士と呼ばれる下級武士の活躍であり、
鯨を追って来た捕鯨船を保護するためにアメリカ政府が持ち込んだ強(こわ)談判であった。

 倒幕と開国によって日本が列国の発展から取り残される危機は解消されると同時に、
天皇親政は、頼朝以来実に676年にして、本来の姿で再現するに至ったのである。

  剛直漢の掃部頭(かもんのかみ)井伊直弼は、安政5(1858)年4月、
大老職に就くや、矢継早に、反動的な改革を強行して、
殊に、井伊直弼の傲岸不遜は勤皇の志士の憤激を買った。

 将軍継嗣問題では、当時の輿論であった、
一橋慶喜よしのぶを将軍世子に就けることに反対して紀州慶福(よしとみ)を推したこと、
通商条約問題とでは勅許を待たずして日米条約に調印したことである。

 この動きは勤皇派らからみれば、それは言語に絶したものであった。
孝明天皇はその非礼に激しく憤られ、
各地の志士の間に井伊弾劾の叫びが嵐の如く捲き上った。


 この時、井伊の輩下であった間部詮勝(まなべあきかつ)と長野主膳は志士の裏を掻いて、
京都の反井伊の主魁と目された頼三樹三郎・山岡慎太郎・梅田雲浜等を捉えた。

  次いで、志士追及の疾風は、枯葉を捲くように、京洛の地を払った。

 六角の獄舎は、志士達で埋まってしまった。

 捕えられた人々の中には、
公卿の諸大夫、宮方の青侍、処士、町人、画家、近衛家の老女村岡もいた。
 越前の橋本左内も、六角牢へ投げ込まれた。

 検挙の手は、堂上公卿の上にものびた。

 青蓮院(しょうれんいん)の宮、鷹司太閤、近衛左府、一條、二條、徳大寺その他数十家へ、
慎み、落飾、辞官、出仕止めなどの横暴な断罪が下された。


 追捕の手は、京都江戸のみにとどまらなかった。
 第二次、第三次と、全国に亙る検挙網は布かれて、多数の志士が捕縛された。
 事件に直接関係なく、長州の野山獄につながれていた吉田松陰も江戸へ送られた。

 江戸に集められた志士を裁くに、
井伊直弼は、閣老松平乗全(のりやす)を裁判長として、
「五手掛(ごてがかり)の調」にとりかかった。

 これは、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目附、目附を掛員として、
評定所に設置された一種の特別裁判であった。

   その時の拷問のひどさと断罪の不合理さは、言語に絶するものであった。
 断罪に先立つて、梅田雲浜は病死し、
日下部伊三次(くさかべいそうじ)は拷問のため死んだ。

 評定所組頭木村敬蔵が、
「この度の吟味は、人間の皮をかぶり候さふらふ者にては出来申さず……」
と書いている位ひどかった。

 安政大獄の第一回の処断は、
主として水戸派、即ち、安島帯刀(あじまたてはき)、鵜飼吉左衛門、幸吉父子が、
死刑を執行された。

 第二回は、頼三樹三郎、橋本左内、飯泉喜内の3人である。

 頼三樹三郎は、井伊派から、
梁川星巌(やながはせいがん)、池内大学、梅田雲浜等と共に「悪逆四天王」といわれて憎まれていた程の硬派だから、
死罪は覚悟の上であった。

 しかも、関東へ送られる途中、
彼は少しも恐れる色なく、
「日毎に軍鶏籠(とうまるかご)の中から酒を乞い酔眠すること平日と異らず」という程、
腹の出来た人間だった。
さすがに頼山陽の子に恥じなかった。

 橋本左内は、
攘夷令降勅の件には関係なかったので微罪になると思はれていたが、
彼は、堂々と裁判官に所信を披瀝して退かなかった。

 26歳の橋本左内は、
裁判官に大義名分を述べ「貴公達もそう考えないか」と説教したのである。

  幕末の能吏、水野忠徳は、
「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と喝破している。

 吉田松陰の処刑は第3回目である。
「奉行死罪のよしを読聞せし後、畏り候よし恭しく御答申し、
平日庁に出る時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ」、
正午、伝馬町の獄に帰った。

 それから、裃(かみしも)紋附の上に荒縄をかけられ、
刑場へ引かれたが、
この時、松陰は同囚等への告別のつもりで、
自筆の「留魂録」の冒頭の歌、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」と、

  次の辞世の詩、
「吾今為レ国死。死不レ負二君臣一。悠々天地事。鑑照在二明神一。」を吟唱した。

 刀を振った浅右衛門は、
「多くの罪人を切ったが、吉田松陰の最期程、堂々として立派なのは他になかった。」と言っている。

 安政の大獄は、安政5(1858)年9月から志士の逮捕を始め、6(1859)年12月に一段落した。 

 その範囲は、
上は親王、五摂家、親藩、大名から下は各藩の下士、浪人にまで及んだ大規模なものであった。
 井伊の目標とする所は、勤皇志士を根絶し、水戸斉昭を屈服させることであった。
 勤皇運動の総帥斉昭を抑えれば、朝廷や尊皇攘夷論者は降参すると考えたのである。

  しかし、尊皇攘夷思想は、そんな簡単なことで止まるべくもなく、
却って、益々、熾烈となり、井伊は、桜田事変で水戸藩の志士に復讐されたのである。

勤皇志士と薩長同盟 
 明治維新に活躍した勤皇の志士の中でも、
その忠誠や志操が、何等報いられずに中途で斃れた人が多い。
 吉田松陰、久坂玄瑞、田中河内介、真木和泉、梅田雲浜、頼三樹三郎、
有馬新七、松本奎堂(けいどう)、河上弥市、吉田稔麿(としまろ)
藤田小四郎、武田伊賀、入江九一、坂本龍馬、中岡慎太郎、
その他無数である。

  これらの人々は、生き延びていたならば、
その人物において、その功業において、
伯爵や侯爵を授けられた維新の功臣達と、何の遜色もなかったといわれている。

  殊に、これ等の人の中でも、藩論に背いて行動した人や、
徒手空拳で奮起した人や、神官や処士などで大事のために奔走した人達は、
何の政略味もない純忠至誠の人々である。

50有余歳の高齢で、いわゆる天誅組に参加し、
戦敗れて刑死した国学者伴林光平(ともばやしみつひら)などは、
忠誠が殆んど報いられていない。

 しかし、これらの人々こそ、真に明治維新の大業の礎石となった人々である。

 こういう人達に比べれば、尊皇討幕の大義名分が、全国を風靡した後、
各藩の方針も定まり、それによって行動した人達などは、仕事も楽であり、
一身の栄達も思いのままだったのだから、
功臣であると同時に成功者になれたわけである。

 明治維新の初期を彩った各地の討幕反幕の行動を挙げると、
井伊直弼の首を挙げた桜田事件、
閣老安藤対馬を要撃して傷つけた坂下門事件、
薩藩内部の同士討であるが、京都に、武装蜂起を企てた伏見寺田屋事件、
中山忠光の大和義挙、
澤宣嘉(さはのぶよし)、平野国臣らの生野義挙、
そして元治元年の禁門戦争(蛤御門の変)などがある。

 これらの反幕府運動の結果、果して彼等の期待したように幕府の勢力は地を払ったであろうか。
 幕府の声威は日々に衰勢を見せてはいたが、
表面に現はれたこれらの事件の結果は、必ずしも勤皇運動の伸張を意味してはいなかった。

 元治元(1864)年の禁門戦争の結果は、この反動的な時勢の動きを、露骨に示している。

 無分別な長州勢の皇居に対する発砲は、
今まで勤皇運動の総本山とも目されていた長州藩に対して、
ハツキリと朝敵の烙印を押しつけることになった。

 勤皇側の公卿の参朝停止、
これは有名な七卿落ちとなって、惨憺たる急進派は敗北したといえる。

 この時、京都の市中では、勤皇の志士は息を殺してじっとしていた。
 所司代の役人や、会津桑名の藩士、そして新選組の浪士たちが、
肩で風をきって闊歩していた。  

 更に、幕府は朝廷に請うて長州征伐の師を起し、藩主毛利父子を謹慎させ、
その封土から10万石を削ろうとしている。

 これらのことを大観すると、明らかに幕府勢力の復活と言える。

 尊皇攘夷の代りに、今や公武合体といふスローガンがもっともらしく振りまはされ、
幕府は朝廷を擁して、天下の諸侯に昔日の威をもって臨もうとしている。
 明らかに、頽勢挽回である。

 これは一体どうしたのであろう。

 これでは今まで、
おびただしく流された勤皇志士の犠牲の血は、全く無駄ではなかろうか。

 各藩の志士の中で英明なは、こうした逆効果に反省して、
今までのやり方の失敗に漸次気がつく者が出てきた。

 桜田事件、寺田屋事件、大和、生野義挙、蛤御門の変、水戸天狗党の擾乱
・・・・・こう並べて考へてみると、それらの討幕テロの企てには共通した誤りがあった。

  つまり、
 彼等は有志として蜂起し、擾乱を企てただけで、
その背後に、少くともその成功を確信させるだけの実力を持たなかったことである。
 
 自分たち同志だけで、先ず事を起せば、天下は自然に動いて、
討幕が出来ると、簡単に考えていたことである。
やせてもかれても、幕府はそんなに脆く崩壊しはしない。

  この誤りを再びくり返さず、討幕の大理想を実現する方法は、たつた一つしかないのである。
 それは、もっと実力ある者が一致して、幕府に当ることである。
 ばらばらではダメなのである。

 つまり志しを同じくする雄藩が、今までの種々の行きがかりを水に流して、
この際大同団結し、同盟を結ぶことである。
もつと簡単にいうならば、薩藩と長藩の同盟である。

 なるほど、今や薩長は仇敵の間柄と云つてもよい。
 長州兵の精鋭は、蛤御門の戦いで、薩摩軍の銃火にあって沢山死んでいる。

 薩奸会賊と云うのは、当時の志士の標語であって、
薩摩は会津と同じく、佐幕の張本人と目され、
その評判のわるいこと甚だしかった。

 薩藩はしかし、果して佐幕であろうか。
断じて否だ。ただ長州や勤皇急進論者のように過激でなかっただけだ。
その耿々たる勤皇精神においては、一歩も譲るものではなかつた。

 目的は同じであるが、その手段において異っていただけなのである。
それから封建の世であったために、藩と藩との間の対立嫉視もあった。
彼等は一藩をもって一国とし、互いに対峙していたのである。

 しかし、大体のコースとして、薩摩と長州とは、
それ程深刻に憎み合はなければならぬ理由はないのだ。

 西国の雄鎮として、共に率先して勤皇の大義を唱へた両藩の先覚者の間に、
それほど深刻な敵愾心があるとは思えない。話せば分るのである。

 ここ4、5年の間の不幸な行きがかりを捨ててしまえば、
両藩の妥協は可能だし、提携も出来る。

 ただ、薩摩でも長州でも、こう気づいていたが、
責任ある当局者は、自分で先に言い出すわけにはゆかないのだ。

 この時、両藩の間に橋渡しをして、その提携の糸口を開いてやったのが、
土佐勤皇党の俊英、坂本龍馬と中岡慎太郎であった。

 慶応元(1865)年5月6日、
馬関へ長藩の巨頭桂小五郎(木戸孝允)を引っ張り出し、
薩摩藩の代表、西郷隆盛に会わした。

 そして、薩長が互に肚の探り会ひをして、
なかなか木戸、西郷の会見がまとまらないと、
彼はこう言って怒鳴った。

  「何がわが藩の面目、体面、名誉だ。
  もういい加減にしないか。
  あんた等は、まだ封建制度の幽霊を背負っているか。
  この大きな日本を何故忘れているか。
  同じ日本の土地の上に、位牌知行を立て合いい、
  わが藩、わが主人と、区別を立てて何になる。
 西郷も桂も、これ程、馬鹿とは思っていなかったよ。」

 そう言って、西郷に直談判をして、
この薩長秘密攻守同盟を締結させたのである。
 慶応2年1月21日のことである。

 しかもこの秘密同盟は、77万石と36万石の大藩が、漫然と一緒になったのではない。
この両藩を代表するに足る西郷と木戸が、
腹心を披瀝しあって討幕の役割を分担することを決めたのだ。

 その他に、土佐藩、越前藩、宇和島藩等の各藩も、
これを機に一つに固まろうとしている。

 坂本龍馬を仲介とする、西郷吉之助、桂小五郎両人の晴れやかな握手は、
正に維新大業の出発点といってよい。

 皇政復古運動の進展は、ここに一段と拍車をかけられたのである。


明治維新と国体観念 
 慶応3(1867、即ち明治元)年12月9日、明治天皇は小御所に出られ、
諸卿諸侯を呼び寄せてられて、皇政復古を諭告された。
ここにおいて、明治維新は、ひとまず形の上では成ったのである。 

   この復古の大号令に先立つこと2ヶ月、徳川慶喜は土佐の山内容堂の建白により、
10月14日に、政権奉還の書を提出している。

 薩長の攻勢がいよいよ激しさを増し、このままでは幕府の瓦解は免れなくなってきた。
 この状況下、
慶喜将軍は土佐派の公武合体や公議政治論を採って大政奉還という先手を打って出たのである。
これでは如何に幕府打倒といきり立っていた薩長といえども文句がつけられなかった。 

 しかし、薩長派の西郷、大久保、木戸たちは、
大政奉還だけでは、不十分、200有余年の旧習に汚染した人心を振起するためにも、
幕府に対し武力をもって一撃を加へ、
天下の人心を一新しなければ、新時代は来ないと見ていた。

 板垣退助は
「馬上でとった徳川の天下だから、馬上でなければ奪とれぬ」と
手きびしく言っていた程である。

 そのため彼等は、
江戸薩摩邸の焼打など、
いろいろな挑発的行動をとって幕府側を怒らせようとした。


   これに対し、衰えたりといえども幕府は依然として幕府である。

 大坂に退いて謹慎している慶喜を巡って幕臣の激昂は渦をまき、
伏見鳥羽の一戦となって爆発、
その後1ヵ年余にわたる戊辰戦争の幕は切って落されたわけである。

 この薩長主戦派のやり方は、十分に理由はあったが、
随分危険な道だったともいえる。
 若もし慶喜が本当に肚を据えて佐幕派の藩士を集めて、
反薩長の旗幟きしを掲げて起たった場合、事態はどのように進展しただろうか。

 当時フランスは、ナポレオン3世の命を承けた公使ロセスが、積極的に幕府援助に乗り出していた。
金も600万弗ドル貸そう、軍事顧問も派遣すると言ったハリ切り方である。

  だから慶喜が、突如として大政奉還の挙に出ると、
公使ロセスはすっかり呆れ、また驚いてしまつた。

「300年も天下太平をもたらした徳川家が、兵戈(へいか)も交へずして、
こんなに簡単に政権をなげ出すとは、不思議千万である。
ヨーロツパには、こんなバカバカしい政変はかってない。」と、
福沢諭吉に語ったという。
 
 しかし、慶喜は、フランスの援助を拒絶したし、
血気に逸る旗本の将士を慰撫し、
あくまでも絶対無抵抗主義をとって、
慶応4年(明治元年)4月11日には、本拠江戸城をも官軍に引渡し、
郷国水戸に退いて、弘道館の一室に退隠した。

 慶喜は烈公斉昭の子で、水戸学の精神で幼時から育て上げられてきた人である。
 皇政復古は皇国本来の姿で、これは歴史の必然だと観ていた。
 薩長の専恣は、固より好むところではなかったが、
わが皇室が中心となって、これからの日本は世界に乗り出してゆかねばならぬと信じていたことは、
決して勤皇の有志と違うものではなかった。

 ただ将軍という立場が、今まで歴史を逆行させる役目を担はせていたのである。

  水戸に退いて、はじめて、慶喜は、一日本人としての自分と、
そしてその立場を得て、静かに時勢を眺め得るに至ったと言えよう。

 攻められる慶喜の心にこの思いがあったとすれば、
攻める薩長側にも称揚さるべき佳行があった。

 フランスが幕府に力を貸したのと同じやり方で、
英国の薩長に対する援助は公然の秘密であった。

 英国公使パークスは、機会ある毎に薩摩に説いて幕府及びその背後にあるフランスを打倒すべくすすめ、
そのためにはどんな援助でもするからともちかけている。

  これに対して、薩長の領袖、西郷吉之助は何と答えたか。

 「戦争のことはとに角、日本の政体変革のことは、
  われわれ日本人だけで考へるべき問題である。
  外国の援助を受けるは面目ない。」とキッパリと断っているのである。

  慶喜といい、西郷といい、わが国体という点にいたっては、
その両極端の立場にも拘はらず、期せずして一致したわけである。
  外国をある程度まで利用しようと考えたであらうが、
その国政干渉は一歩たりとも許さなかったし、近づけもしなかった。

 そこに維新史を流れる、日本人独得の力強い信念の流れを見ることができえる。
以夷制夷(いいせいい)など、所詮、日本人には出来ない芸当である。


 あれほどに激湍(げきたん)渦を捲いた維新の政治において、
このような日本歴史に特有な美談を探そうとするならば、他にもいくつも挙げられる。

     
 伏見鳥羽の戦争がまさに一触即発といふ時、大坂城に在る慶喜のもとへ、
岩倉卿から一使者が遣わされた。
 孝明天皇御一年忌に際し、慶喜に対して献金のことをもうしでた。
 恐懼した慶喜は、勘定奉行に命じて、直ちに5万両を朝廷に奉っているのである。

  この時、京都は薩長の精兵によって充満し、幕兵一掃といきり立っていた。
 大坂城は、江戸から上った竹中陸軍奉行の大軍によって守られ、
京都に対して、一戦に及ばんと、陣容を整えている最中である。
これらの物々しい空気の中にあって大坂城と京都御所を結んで、
一脈清冽の気のあい連なっているのを見ことができる。

 伏見鳥羽の一戦に朝廷の汚名を着た徳川慶喜に対する処断は、
当時諸説紛々で、初めの中は死刑論が圧倒的に多かった。

 薩長の諸将は慶喜を憎むこと甚だしく、
ぜひこれを誅戮(ちゅうりく)して、刑典を正さねばならぬと主張する者が多かった。

 この時において、明治天皇は三條実美を召されて、
徳川家の旧勲を失わないように処置せよ、
との有難き宸翰(しんかん)を賜うている。

  明治天皇の配慮は、ただに徳川氏をしてその家祀を全うせしめたばかりでなく、
明治維新の大業をして容易に成就せしめた所以である。

 戊辰奥羽諸藩の処断においても、詔(みことのり)して今日の乱は900年来の弊習の結果であるとの思いから、
藩主等の罪を許し、
今後親しく教化を国内に布き、
徳威を海外に輝かさんことを欲する旨を告げられたのである。

  慶喜、西郷などの立派な国体観もさることながら、
明治天皇の心配りがあたことも明治維新の戦乱が容易に鎮定された一因といえる。  



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