ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党(2)和田峠進出、諏訪藩との戦い

2022-03-11 | 茨城県南 歴史と風俗

 

 島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (1) の続き   

第10章 1  

 
〔和田峠における諏訪藩の防備〕
 和田峠の上には諏訪藩の斥候隊が集まった。
藩士菅沼恩右衛門、
同じく栗田市兵衛の2人は御取次御使番(おとりつぎおつかいばん)という格で
伝令の任務を果たすため5人ずつの従者を引率して来ている。

 徒士目付3人、書役(かきやく)1人、歩兵斥候3人、
おのおの1人ずつの小者を連れて集まって来ている。
足軽の小頭と肝煎の率いる19人の組もいる。

 その他には、新式の鉄砲を携えた2人の藩士も出張している。
和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、
それぞれ手分けをしながら斥候の任務に就いていた。 

 諏訪高島の城主諏訪因幡守は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、
急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦の準備を命じ、
自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。

 和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。
 峠の上にある東餅屋、西餅屋に住む町民らは立ち退きを命ぜられた。 


〔幕府からのお達し〕

 こんなに周囲の事情が切迫する前、
高島城の御留守居は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。
 その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、
水戸浪士西下のうわさを伝え、
和田峠その他へ早速人数を出張させるようにとしてあった。

 右の峠の内には松本方面への抜け路もあるから、
時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、
万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。

 さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、
そのつもりに出兵の手配りをして置いて、
中仙道はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。

 このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、
江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。

 武蔵、上野、下野、甲斐、信濃の諸国に領地のある諸大名はもとより、
相模、遠江、駿河の諸大名まで皆そのお書付を受けた。

 それはかなり厳重な内容のもので、
筑波辺に屯集した賊徒どものうち甲州路または中仙道方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、
すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討(う)ち取れという意味のことが認(したた)めてあり、
万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、
それを等閑(なおざり)にしたらきっと御沙汰があるであろうという意味のことも書き添えてあった。 

 時に、幕府では
三河、尾張、伊勢、近江、若狭、飛騨、伊賀、越後に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、
筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、
めいめいの領分はもとより、
付近までも手はずをして置いて、
怪しい者は見かけ次第すみやかに討ち取れと言いつけた。

 あの湊での合戦以来、
水戸の諸生党を応援した参政田沼玄蕃頭(げんばのかみ)は追討総督として浪士らのあとを追って来た。 

 幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、
大きな網を諸国に張って、
一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。

 その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。
 高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意(こころ)にかけるものもなかった。

 初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、
真偽のほどは不確実(ふたしか)で、
なお相去ること数十里の隔たりがあった。

〔諏訪藩の対応〕

 諏訪藩ではまだまだ心を許していた。
 その浪士らが信州にはいったと聞き、
佐久へ来たと聞くようになると、
急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。
にわかに城内では評定があった。

 あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。

 あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、
はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、
沿道の諸藩が討とうとしないのは無理もない、
これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、
後方から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、
そんなことも言った。 

 しかし君侯は現に幕府の老中である、
その諏訪藩として浪士らをそう放縦(ほしいまま)にさせて置けないと言うものがあり、
大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、
軽々しい行動は慎もうという説が出た。

そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。

 その急使は家中でも重きを成す老臣で、
幕府のきびしい命令をもたらして来た。

 やがて水戸浪士が望月まで到着したとの知らせがあって見ると、
大砲15門、騎馬武者150人、歩兵700余、
旌旗(せいき)から輜重駄馬(しちょうだば)までがそれに称(かな)っているとの風評には
一藩のものは皆顔色を失ってしまった。 

 その時、用人の塩原彦七が進み出て、
浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。

 峠のうちの樋橋というところは、
谷川を前にし、後方に丘陵を負い、
昔時の諏訪頼重が古戦場でもある。
 高島城から3里ほどの距離にある。

 当方より進んでその嶮岨な地勢に拠り、
要所要所を固めてかかったなら、
敵を討ち取ることができようと力説した。

 幸いなことには、幕
府追討総督として大兵を率いる田沼玄蕃頭が浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。
 諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。

 和田峠に水戸浪士を追いつめ、
一方は田沼勢、
一方は高島勢で双方から敵を挾撃する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。
 一藩の態度は決した。
 さてこそ 斥候隊の出動となったのである。 

 元治元(1864)年11月19日のことで、
峠の上へは朝から深い雨が来た。 

 やがて和田方面へ偵察に出かけて行ったものは、
また雨をついて峠の上に引き返して来る。

 いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪、
和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、
諏訪藩の物頭(ものがしら)矢島伝左衛門が九人の従者を引き連れ
和田峠御境目(おさかいめ)の詰方(つめかた)として出張した。

手明きの若党、鎗持ちの中間(ちゅうげん)、草履取り、具足持(ぐそくも)ち、高張持(たかはりも)ちなぞ、
なかなかものものしい。

 それにこの物頭が馬の口を取る二人の厩(うまや)の者も随行して来た。
 敵はもう近いと思わんけりゃなりません。」 

 御使番(おつかいばん)は早馬で城へ注進に行くと言って、
馬上からその言葉を残した。

 あとの人数にも早速出張するようにその言伝てを御使番に頼んで置いて、
物頭もまた乗馬で種々な打ち合わせに急いだ。

 遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、
人も馬もぬれながら峠の上を往ったり来たりした。 

 物頭はまず峠の内の注連掛(しめかけ)という場所を選び、
一手限(ひとてぎ)りにても防戦しうるようそこに防禦工事を施すことにした。

 その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。
小役人を連れて地利の見分にも行って来た。

 注連掛(しめかけ)へは大木を並べ、士居を築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。  

 大平から馬道下の嶮岨な山の上には大木大石を集め、
道路には大木を横たえ、
急速には通行のできないようにして置いて、
敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、
大木大石を落としかけたら、
たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、
そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、
物頭はその用意のために雨中を奔走した。

 手を分けてそれぞれ下知を伝えた。
 それを済ましたころにはもう昼時刻だ。

 物頭が樋橋まで峠を降りて昼飯を認めていると、
追い追いと人足も集まって来た。

 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、
いよいよ人数の出張があることを告げた。
 そのうちに28人の番士と19人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。 

 別に29人の銃隊士の出張をも見た。
 大砲二百目玉筒(たまづつ)2挺(ちょう)、百目玉筒二挺、西洋流11寸半も来た。

 その時、諏訪から出張した藩士が樋橋上の砥沢口(とざわぐち)というところで
防戦のことに城中の評議決定の旨を物頭に告げた。

 東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、
代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、
桟も取り払う、橋々は切り落とす、
そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。


〔松本藩の出兵〕

 ちょうど松本藩主松平丹波守から派遣せられた350人ばかりの兵は長窪の陣地を退いて、
東餅屋に集まっている時であった。

 もともと松本藩の出兵は追討総督田沼玄蕃頭の厳命を拒みかねたので、
沿道警備のため長窪まで出陣したが、
上田藩も松代藩も小諸藩も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、
諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨、
重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。

 諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。

 早速、物頭(ものがしら)は歓迎の意を表し、
及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致した。

 両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。
急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、
西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。

 物頭は樋橋にいた。
5、600人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。
 そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。

 物頭は樋橋下の民家を3軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。
 松本方の持参した大砲は百目玉筒2挺、小銃50挺ほどだ。

 物頭の計らいで、
松本方350人への一度分の弁当、白米3俵、味噌2樽、漬け物1樽、それに酒2樽を贈った。 

 樋橋付近の砦の防備、および配置なぞは、
多くこの物頭の考案により、
策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。

 日がな一日降りしきる強雨の中で、
蓑笠を着た数百人の人夫が山から大木を伐り出す音だけでも周囲に響き渡った。
そこには砲座を定めて木の幹を畳むものがある。

 ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。

 下諏訪から運ぶ兵糧では間に合わないとあって、
樋橋には役所も設けられ、
炊き出しもそこで始まった。

 この工事は夜に入って松明の光で谷々を照らすまで続いた。
 垂木岩の桟かけはしも断絶せられ、落合橋も切って落とされた。

 村上の森のわきにあたる街道筋には篝(かがり)を焚いて、
4、5人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。 


〔住民の対応〕  

 水戸浪士の西下が伝わると、
沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。

 樋橋の山の神の砦で浪士らをくい止める諏訪藩の思(おぼ)し召しではあるけれども、
なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、
場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。

 このことが沿道の住民に恐怖を抱かせるようになった。
 種々な風評は人の口から口へと伝わった。

 万一和田峠に破れたら、
諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、
下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、
高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、
そんなことを言い触らすものがある。

 その「万一」がもし事実となるとすると、
下原村は焼き払われるだろう、
宿内の友の町、久保、武居も危ない、
事急な時は高木大和町までも焼き払い、
浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、
だれが言い出したともないような風評がひろがった。 

 沿道の住民はこれには驚かされた。
家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。
 土蔵のないものは最寄りの方へ預けると言って背負い出すものがあり、
近村まで持ち運ぶものがある。 


 また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼き崩して
浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。

 それを聞いたものは皆大いに驚いて、
一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、
穴を掘って土中に埋めるものもあれば、
畑の方へ持ち出すものもある。

 何はともあれ、
この雨天ではしのぎかねると言って、
できるだけ衣類を背負うことに気のつくものもある。

人々は互いにこの混乱の渦の中に立った。
乱世もこんなであろうかとは、
互いの目がそれを言った。

 付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げ失せ、
そうでないものは畑に立ち退いて、そこに隠れた。

 伊賀守としての武田耕雲斎を主将に、
水戸家の元町奉行田丸稲右衛門を副将に、
軍学に精通することにかけては
他藩までその名を知られた元小姓頭取の山国兵部を参謀にする水戸浪士の群れは、
未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。

 毎日の行程およそ4、5里。

 これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、
その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り3里の道を踏まねばならなかった。 

 天気は晴れだ。
朝の空には一点の雲もなかった。
 やがて浪士らは峠にかかった。

 8本の紅白の旗を押し立て、
3段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。

 両餅屋はすでに焼き払われていて、
その辺には1人の諏訪兵をも見なかった。
 先鋒隊が香炉岩(こうろいわ)に近づいたころ、
騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。
飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、
大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。

 左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。

 山間の道路には行く先に大木が横たえてある。
それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、
幾多の障害物を除こうとするもの、
桟を繕おうとするもの、
浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。

 間もなく香炉岩の上の山によじ登り、
そこに白と紺とを染め交ぜにした1本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。

  一方の山の上にも登って行って3本の紅い旗を押し立てるものが続いた。
 浪士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。 


〔諏訪藩の防戦〕

 こんなに浪士側が迫って行く間に、
一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。

 来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。
もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、
敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。

 間もなく、峠の峰から一面に道を押し降った浪士側は干草山の位置まで迫った。
そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距(あいへだ)たること4、5町ばかりだ。

 両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋で開始された。
 山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。 


  諏訪勢もよく防いだ。
 次第に浪士側は山の地勢を降り、
砥沢口から樋橋の方へ諏訪勢を圧迫し、
鯨波(とき)の声を揚げて進んだが、
胸壁に拠る諏訪勢が砲火のために撃退せられた。

 諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、
右翼は砲隊を先にし鎗隊をあとにした尋常の備えであったが、
左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊(とっかん)し逆襲して来た。

 こんなふうにして追い返さるること3度。
浪士側も進むことができなかった。 


 その日の戦闘は未(ひつじ)の刻から始まって、
日没に近いころに及んだが、
敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。

 まぶしい夕日の反射を真面(まとも)に受けて、
鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。 


 それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。

 彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、
右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、
そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、
5、60人ばかりの一隊を深沢山の峰に回らせた。

 この一隊は左手の河(かわ)を渡って、
松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。


 この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。
日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。

 その時浪士の一人が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。
 混乱はまずそこに起こった。
 勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、
直下の敵陣をめがけて山から乱れ降った。

〔砥沢口の戦闘〕
  耕雲斎は砥沢口まで進出した本陣にいた。
 それとばかり采配を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、
最後の突撃に移った。
あたりはもう暗い。

 諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、
後方の退路を危ぶむものが続出した。

 その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、
樋橋に踏みとどまって頑強に抵抗を続けようとする部隊もあったが、
崩れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。

 もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、
早く退こうとするものが続きに続いた。 

  とうとう、田沼玄蕃頭は来なかった。
 合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。
 にわかの火の手が天の一方に揚がった。
 諏訪方の放火だ。

 浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。
 樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。
 
 白昼のように明るく燃え上がる光の中で、
諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、
ただ一人元の陣地に引き返して来て2発の大砲を放つものさえあった。

 追撃の小競合(こぜりあ)いはそこにもここにもあった。

 そのうちに放火もすこし下火になって、
20日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代(つきしろ)とてもない。

 敵と味方の見定めもつかないような深い闇が
総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。

 この砥沢口の戦闘には、浪士側では17人ほど討死した。

 100人あまりの鉄砲疵、鎗疵なぞの手負いを出した。
 主将耕雲斎も戦い疲れたが、
また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。

 湊出発以来、
婦人の身でずっと陣中にある大納言の簾中も無事、
山国親子も無事、
筑波組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。
 一同は手分けをして高島陣地その他を松明で改めた。

 そこの砦、ここの胸壁の跡には、
打ち捨ててある兜(かぶと)や小銃や鎗や脇差や、
それから床几 陣羽織などの間に、
目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。

 生臭い血の臭気はひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。 


  耕雲斎は抜き身の鎗を杖にして、
稲右衛門や兵部や小四郎と共に、
兵士らの間をあちこちと見て回った。

戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。

 一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。
 その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、
味方の死骸を改めさせ、
その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。

 深手(ふかで)に苦しむものは十人ばかりある。
 それも歩人(ぶにん)に下知して戸板に載せ介抱を与えた。

 こういう時になくてならないのは2人の従軍する医者の手だ。

 陣中には50ばかりになる一人の老女も水戸から随(つ)いて来ていたが、
この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。  


 夜もはや四つ半時を過ぎた。
浪士らは味方の死骸を取り片づけ、
名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。

 その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に埋めた。
 仮りの埋葬も済んだ。

 樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、
それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しい饑(う)え。
激しい渇き。

 それを癒(いや)そうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。
 やがて25人ずつ隊伍をつくった人たちは樋橋を離れようとして、
夜の空に鳴り渡る行進の法螺の貝を聞いた。 


 樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。

 道案内のものを先に立て、松明(たいまつ)も捨て、
途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。

 落合村まで進み、下の原村まで進んだ。
 もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。 


〔天狗党の諏訪進出と出立〕

 合図の空砲の音と共に、
浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。

 敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。
 町々もからっぽだ。

 浪士らは思い思いの家を見立てて、
鍋釜から洗い米などの笊(ざる)にそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。

 耕雲斎は問屋(といや)の宅に、稲右衛門は来迎寺にというふうに。

 町々の辻、秋宮の鳥居前、会所前、湯のわき、
その他ところどころに篝(かがり)が焚かれた。

 4、5人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、
宿内の火の番に回ったりした。 

 300人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。
 今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、
道に隙(ひま)がとれておくれるものと知れた。

 その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。
 もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。

 西への進路を切り開くためにのみ、
やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。
 その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。

 道は2つある。
 これから塩尻峠へかかり、
桔梗が原を過ぎ、洗馬(せば)本山から贄川へと取って、
木曾街道をまっすぐに進むか。

 それとも岡谷 辰野から伊那道へと折れるか。
 木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。

 22里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨な山坂が多く、
人馬の継立(つぎた)ても容易でないと見なされた。

 彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、
一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。  

 不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。
 ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、
本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。
だれ1人、
この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。

 一刻も早くこれを引き揚げようとして
多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。 


「夜盗を警戒せよ。」 

 その声は、幹部のものの間からも、
心ある兵士らの間からも起こった。
この混雑の中で、15、6軒ばかりの土蔵が切り破られた。
だれの所業ともわからないような盗みが行なわれた。

浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。
ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。 


  暁の六つ時には浪士は残らず下諏訪を出立した。
 平出宿 小休み、岡谷 昼飯の予定で。

 あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、
陣羽織のままで大八車(だいはちぐるま)を押して行くのもある。

 甲冑も着ないで馬に乗って行くのもある。
 負傷兵を戸板で運ぶのもある。
 もはや、大霜だ。
 天もまさに寒かった。 

【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (3)

 


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