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高須芳次郎著『水戸學精神』 第十 東湖の皇道思想と政敎一新策(その2) (五) 東湖の正氣説

2022-10-08 | 茨城県南 歴史と風俗


      高須芳次郎著『水戸學精神』

 第十 東湖の皇道思想と政敎一新策(その2)  
   

(五)東湖の正氣説      
 次ぎに東湖の正氣説は、幽谷の考へから出て、これを非常に發展せしめたのである。 幽谷は、正氣の語を口癖のやうに用ひはしたが、これを哲学化し、また詩的に表現するところまでは、ゆかなかった。それを東湖が引受けて、正氣主義を全國民に鼓吹するといふととろ迄、推し進めたのである。 

 
遡っていふと、正氣は、幽谷の發明ではない。孟子その他、宋時代の哲學者によつて 既にその淵源を形造り、石介及び文天祥に至って、正氣説を支那に行きわたらせた。然し、それは、支那の正氣で、日本の正氣とは、おのづから異なるものである。  

 正氣の日本化! これが東湖の發明したところで、ここに東湖一流の正氣主義を生んだ。蓋し天祥の正氣歌は、宋の石介の『繫蛇骨銘』に暗示を得たところが多い。

 石介は、「天地の間絶剛至正の氣あり。或は物に鐘り、或は人に鍾る。人には死あり。物には盡くるあり。此の氣は滅せず、烈々然として億萬世に彌亘して長に在るなり」といひ、その具體化としては、「堯の時にあっては指侫後草となり、魯にあっては、孔子、少正卯を誅するの刃となる。齊にあり晋にあつては南董の筆となる」と述べた。・・・・・ かかる説を生じたについては、少くとも、朱子の理氣説を顧みる必要がある。   

 朱子は、「人の生する所以は理と氣とのみ。天理固より浩々として窮らず。然れどもこの氣あらざれば、この理ありと雖も、而も湊泊する所なし」といひ、「氣に清濁・偏正あり。物欲に淺深・厚薄の異あり。これ聖と愚と人と物と相與に殊絶し、而して同する能はざるのみ」ともいった。  

 朱子の解によると、この宇宙は、理氣二元の結合から成り、萬物が同一法則のもとに、支配せられるわけで、氣に清濁・偏正があり、その結果が人生に影響するといふことを認めたのである。  

 かうした宇宙生成の重要素としての「氣」から、自然、正氣なるものが生ずるといふのは、朱子の哲學的な考へ方によっても判明する。文天祥の正氣説は、石介にもよるところがあり、朱子の説にもより、且つそれらに支持されてゐる。そしてその説明は、石介よりも一步を進め、正氣の具體化として、河嶽・日星を説き、或は「沛乎として蒼冥に塞る」ともいった。 

 
即ち天詳の正氣は、朱子らの「理氣」の氣に當り、その正なるもの、絶なるものだ。そして天祥が「道義之が根となる」といった道義は、「理氣」の理に當る。 

 更に天祥の説によると、平時に於ける正氣は、別段、はっきりした活動を示さないが、國の非常時に直面すると、「時窮して乃ち見はる。一々丹靑に垂る」といふ趣を示し、その勢の激するところ、「日月を貫くに當つては、生死安んぞ論ずるに足らん。地維頼って以て立ち、天柱賴つて以て尊し」の概を示すのである。  

 以上によると、道義を本とする 不朽不滅の純正エネルギィが正氣である。

 右に對し、東湖の正氣説は、より具體的となり、より積極的となつてゐる。即ちそれ は神州の正氣だ。革命國支那の正氣ではない。それに天祥の正氣は、衰へた宋末の正氣で、唯その時に限定されてゐるが、東湖の正氣は、永久に變らぬ日本の正氣で、忠孝を 根柢としたエネルギイの發現だ。
 故にひとしく正氣といっても、天祥のものとは、内容上、大いに異なる。故に東湖は、『弘道館記述義』において、「幾し國は、ひとり、尊嚴なるを得ず、必ず天地正大の氣に資するあり。天地の氣は、ひとり正大なるを得す、亦必ず仁厚・義勇のに參するあり」といった。ここに東湖の正氣主義が純日本的な所以が分る。  

 惟ふに、東湖がこの正氣主義を詩の上に表現したのは、當時、幕府が烈公の皇道本位の政敎説を理解しないで、不當にこれを抑へつけたのに憤るところがあり、また結城一派が東湖を迫害することを非として、悲憤したことにもよるが、それと共に、東湖が正氣を以て、この萬難に打克たねばやまぬといふ信念の現はれから來たことと思ふ。  

 
東湖は、正氣を解釋して、「道義の積むところ、忠孝の發するところ」といひ、忠孝道に裏づけされたエネルギィとする上に支那の正氣と異なる所以を示した。

 その具體化として、富士山、櫻花、日本刀、靑々とひろがる太平洋上の水をあげ、人的方面では、歷代の忠臣・孝子らを擧げ、進んで、「忠誠、皇室を尊び、孝敬、天神に事ふ。修文と奮武とを兼ね、誓って胡塵一を拂はんと欲す」と正氣發揚の意義を積極化した。  

  正氣の具體化として
    富士山、櫻花、日本刀、青々とひろがる太平洋上の水      
    

 
  
 

(六)東湖の悟道的心境  
 加ふるに、東湖は、以上の信念に住することによって、人生の悟道に到達するの心境にも触れ、
   屈伸天地に附す、生死又何ぞ疑はん。
   生きては當に君寃を雪ぐべく、復た見ん四維の張るを。
   死しては忠義の鬼となり、極天皇基を護らん。  

 といひ、生死の外に超出して、忠道のため七生を盟った永劫不滅の大楠公と同じやうに、その魂の護國的熱情に滿つる所以を歌った。この言葉に接して、誰か感奮しないものがあらう。  

 この詩句を誦して、誰か尊皇の情熱を燃やし得ぬものがあらう。それは直ちに國民の心の琴線に觸れ、鏘然、力強い響きを發するのである。  

 若しそれ東湖の政治・•經濟説に至っては、皇道を本にこれを實踐した上に事實的に示されてゐるので、東湖の生涯そのものの上にこれを徵することが一番、適切と思ふ。「いふ ところ、必ず行ふ」のが東湖の信條で、一種の哲人政治を唱へて、政治革新、經済革新、敎育革新を烈公と共に斷行した。そこに東湖の活きた政敎思想が光ってゐる。その記念塔が「常陸帶』であり、『囘天詩史』である。

 要する、東湖の思想は、幽谷の學統を繼承して、國家的には、國體至上主義に起ち、人生觀的は、物心一如主義に據り、民族的特徴を基本として、そこに獨自の日本哲學を形造った。それから分派して、國民道德を創建し、日本中心的思惟に成る政經説を組織して、そこに近世思想史上の新體制を全うしたのである。

 そこに幽深のところ、精妙の點が乏しいにしても、よく民族性に徹し得た上に滅すべからざる迫力がある。


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