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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党(1)筑波党の成員、高崎・下仁田、望月宿へ

2022-03-10 | 茨城県南 歴史と風俗

島崎藤村「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 
 島崎藤村「夜明け前」は日本の近代文学を代表する小説である。
 米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、
中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、
主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。   

       

 幕府倒壊という巨大な政治変革を引きおこした政治の前面に登場するのは
配階級であるサムライが中心であったが、
一般庶民の側からこの動きを描いた
のが「夜明け前」であり、
極めて例外的な歴史小説である。         


 馬籠宿の人々は水戸天狗党や幕府などの動きをどうとらえていたのか、
「夜明け前」第1部に描かれた水戸天狗党についての記述を抜粋する。 


                出陣の儀式  


       笹間良彦著「図説 日本戦陣作法辞典」(柏書房)97頁 


第一部 第9章 4
  
〔那珂湊に移り・・・・・・〕  

 (元治元年、1864年)4月以来、
筑波の方に集合していた水戸の尊攘派の志士は、
9月下旬になって那珂湊に移り、
そこにある味方の軍勢と合体して、
幕府方の援助を得た水戸の佐幕党と戦いを交えた。

 この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。
 力尽きて幕府方に降るものが続出した。

 23日まで湊をささえていた筑波勢は、
館山に拠っていた味方の軍勢と合流し、
一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。

 この水戸浪士の動きかけた方向は、
まさしく上州路から信州路に当たっていたのである。
 木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、
この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。

 筑波の空に揚がった高い烽火(のろし)は西の志士らと連絡のないものではなかった。
 筑波の勢いが大いに振ったのは、
あたかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。

 水長2藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、
一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中要撃の以前にも当たる。
 東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、
西には長州の敗退となり、
東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。

〔久慈郡大子村〕  

 湊を出て西に向かった水戸浪士は、
石神村を通過して、久慈郡大子村をさして進んだが、
討手の軍勢もそれをささえることはできなかった。

 それから月折峠に一戦し、那須の雲巌寺に宿泊して、上州路に向かった。 


 この一団はある一派を代表するというよりも、
有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。

 その人数は、すくなくも900人の余であった。
水戸領内の郷校に学んだ子弟が、
なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。 

 名高い水戸の御隠居(烈公)が在世の日、
領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織
はやや鹿児島の私学校に似ている。

 水戸浪士の運命をたどるには、
一応彼らの気質を知らねばならない。 


〔水戸浪士の気質〕
 寺がある。付近は子供らの遊び場処である。
 寺には閻魔(えんま)大王の木像が置いてある。
 その大王の目がぎらぎら光るので、
子供心にもそれを水晶であると考え、
得がたい宝石を欲しさのあまり盗み取るつもりで、
昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人の子供がある。

 木像に近よると、子供のことで手が届かない。
 閻魔王の膝に上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、
莫大な分捕り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。

 あとになってガラスだと知れた時は、
いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。
これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。 

 森がある。
神社の鳥居がある。
昼でも暗い社頭の境内がある。

 何げなくその境内を行き過ぎようとして、
小僧待て、と声をかけられた1人の少年がある。
見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、
腕白盛りのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。

浪人は一人ぽっちの旅烏(たびがらす)なので、
祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、
その時は少年の素通りを許さなかった。

 よくも悪口雑言(あっこうぞうごん)を吐いて祭りの日に自分を辱しめたと言って、
一人と一人で勝負をするから、
その覚悟をしろと言いながら、刀の柄に手をかけた。
少年も負けてはいない。

 かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬ってしまわねば勝てるものではない。
それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。

 抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、
日ごろ親から言われていた少年のことだ。
 居合の心得は充分ある。

 よし、とばかり刀の下げ緒(お)をとって襷にかけ、
袴の股立ちを取りながら先方の浪人を見ると、
その身構えがまるで素人だ。
 掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。
 抜き打ちに敵の小手に斬りつけた。

 あいにくと少年のことで、1尺8寸ばかりの小脇差しか差していない。
 その尖端が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵(きびす)を反して、
一目散に逃げ出した。
 こちらもびっくりして、
抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。
 これがわずかに16歳ばかりの当時の水戸の少年だ。

2階がある。
座敷がある。
酒が置いてある。
その酒楼の2階座敷の手摺には、
鎗(やり)ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。

 町奉行のために、不逞(ふてい)の徒の集まるものとにらまれて、
包囲せられた2人の侍がそこにある。

 なんらの罪を犯した覚えもないのに、
これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、
それは自分らの知った事ではない。
足下らを引致(いんち)するのが役目であるとの答えだ。

 しからば同行しようと言って、数人に護られながら厠にはいった時、
1人の侍は懐中の書類をことごとく壺の中に捨て、
刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、
それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。  

 罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。
 厳重な取り調べがあった。
証拠となるべきものはなかったが、2人とも小人目付(こびとめつけ)に引き渡された。

 ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖市川三左衛門が得意の時代で、
尊攘派征伐のために筑波出陣の日を迎えた。
 邸内は雑沓して、侍たちについた番兵もわずかに2人のみであった。

 夕方が来た。
囚(とら)われとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。

 自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、
もしこのままにいたら斬られることは確かである、
彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、
どうだと。

 それを聞いた1人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、
同じ囚われの身でありながら、
行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、
その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。

 待て、番士に何の罪もない、
これを斬るはよろしくない、
一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。

 聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、
これは国家危急の秋(とき)で武士の坐視すべきでない、
よって今からここを退去する、
幸いに見のがしてくれるならあえてかまわないが
万一職務上見のがすことはならないとあるならやむを得ない、
自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだ。

 それを言って、刀を引き寄せ、鯉口(こいぐち)を切って見せた。
 二人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。

 しからば御無礼する、
あとの事はよろしく頼む、
そう言い捨てて、
侍は2人ともそこを立ち去り、
庭から墻(かき)を乗り越えて、
その夜のうちに身を匿(かく)したという。これが当時の水戸の天狗連だ。 

 水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。
  かつては横浜在留の外国人にも。

 井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。
 これほど敵を攻撃することにかけては身命をも賭(と)してかかるような気性の人たちが、
もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、
郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。 

 水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。
 それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。

 もとより、一般の人心は動揺し、
新しい世紀もようやくめぐって来て、
だれもが右すべきか左すべきかと狼狽する時に当たっては、
二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。
 水戸はことにそれが激しかったのだ。

         蹶起した天狗党が残した照光院の柱の刀傷
               (石岡市歴史資料館蔵)



〔水戸学〕
 

 『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、
学問を曲げてまで世に阿(おもね)るものもある徳川時代にあって
とにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。

 彰考館の修史、弘道館の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。
 当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。 

 いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。
あの波瀾の多い御隠居の生涯がそれだ。

遠く西山公以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念の篤かった御隠居は、
紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。

 この水戸の苦悶は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、
一方に奸党と呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。
一つの藩は裂けてたたかった。 


 当時諸藩に党派争いはあっても、
水戸のように惨酷をきわめたところはない。

 誠党が奸党を見るのは極悪の人間と心の底から信じたのであって、
奸党が誠党を見るのも またお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。

 水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、
成敗利害の外にあるものだと言った人もある。
 いわゆる誠党は天狗連とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。

 当時の水戸藩にある才能の士で、
誠でないものは奸、奸でないものは誠、
両派全く分かれて相鬩(あいせめ)ぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。  

 市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖が国政を左右する時を迎えて見ると、
天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、
田丸稲右衛門を主将に推し、
亡き御隠居の御霊代を奉じて、
尊攘の志を致そうとしていた。

 かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、
誠党領袖の1人なる武田耕雲斎と筑波に兵を挙げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、
早速 耕雲斎に隠居慎みを命じ、
諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討たしめるために関東11藩の諸大名に命令を下した。

 三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、
水戸城に帰って簾中(れんちゅう)母公貞芳院ならびに公子らを奉じ、
その根拠を堅めた。

これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、
幽屏の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。 

〔水戸の吉田に到着〕  

 そして江戸にある藩主を諫めて奸徒の排斥を謀ろうとした。
 かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、
しばらくも鎮静する時のなかったため、
松平大炊頭(宍戸侯)は藩主の目代(もくだい)として、
8月10日に水戸の吉田に着いた。 
 
 ところが、
水戸にある三左衛門はこの鎮撫の使者に随行して来たものの多くが
自己の反対党であるのを見、
その中には京都より来た公子余四麿の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、
大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。
朋党の乱はその結果であった。 

 混戦が続いた。
大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、
尊攘の志には一致していた。

 水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。
 湊の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)に降るころは、
民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。

 天狗連の全軍も分裂して、
味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが1100人の余に上った。

 稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、
ほど近き館山に拠(よ)る耕雲斎の一隊に合流し、
共に西に走るのほかはなかったのである。

 湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、
形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。 


〔田中愿蔵らの掠奪〕

 一方、天狗党では、
幹部として相応名の聞こえた田中愿蔵が軍用金調達を名として付近を掠奪し、
民心を失ったことにもよると言わるるが、
軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が
水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。

 西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、
当時いろいろな取りざたがあった。

 行く先は京都だろうと言うものがあり、
長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。

 
【関連記事】
 「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑   

 水戸天狗党 筑波勢・田中愿藏隊の戦いと末路、天狗塚の話 



〔筑波党の成員〕 
 しかし、これは亡き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、
従二位大納言の旗を押し立て、
その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。

 900余人から成る一団のうち、
水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は300余名で、
他の600余名は常陸下野地方の百姓であった。

 中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、
数名の婦人も加わっていた。

 2名の医者までいた。
その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、
兵糧方、賄方(まかないかた)、雑兵、歩人(ぶにん)等を入れると、
1000人以上の人を動かした。

 軍馬150頭、それにたくさんな小荷駄(こにだ)を従えた。
 陣太鼓と旗13、4本を用意した。
これはただの落ち武者の群れではない。
その行動は尊攘の意志の表示である。
さてこそ幕府方を狼狽せしめたのである。 

 この浪士の中には、藤田小四郎もいた。
 亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田東湖がこの世を去ってから、
その子の小四郎が実行運動に参加するまでには11年の月日がたった。
 衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛門を説き、
日光参拝と唱えて最初から下野国大平山にこもったのも小四郎であった。
 水戸の家老職を父とする彼もまた、
四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。 


〔高崎~下仁田の戦〕

 高崎での一戦の後、
上州下仁田まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。
高崎勢は同所の橋を破壊し、
五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。

 鏑川(かぶらがわ)は豊かな耕地の間を流れる川である。
 そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨な山の地勢にかかる。

  朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、
茶漬けごろでなくては帰れない。
 そこは上州と信州の国境にあたる。

 上り二里、下り一里半の極の難場だ。
 千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。
警固の人数が引き退いたあとと見えて、
兵糧雑具等が山間(やまあい)に打ち捨ててある。
 浪士らは木を伐り倒し、その上に蒲団衣類を敷き重ねて人馬を渡した。

 大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠までそのけわしい峠を引き上げて、
やがて一同 佐久の高原地に出た。

〔望月宿〕

 11月の18日には、浪士らは千曲川を渡って望月宿まで動いた。
 松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵に入り込んで来たとの報知も伝わった。
 それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪をも戒めた。
 19日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。  


 

【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (2)  

 


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