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高須芳次郎著『水戸學精神』第十三 結收 (一) 水戸史學の特性及び批判 (二) 水戸政教學の特性及び批判 (三) 現代的批判

2022-10-17 | 茨城県南 歴史と風俗


   高須芳次郎著『水戸學精神』 
  
   

第十三 結收  

(一) 水戸史學の特性及び批判   
 以上、水戶學の考察を結了したについて、更にその全値を振り返って見ると、水戸學に於ける特質及び諸要素などが、頭に浮んで來る。惟ふに水戸學は、徳川家康の文教奨励によって促進せられた文藝復興の新機運の波に乗って、生れ來ったのである。

 卽ち新しい時代における學問の新討究が起り、神道、國史、國文などの再検討、再吟味が行はれるにつれて、出現した。その中心人物の一人ともいふべきき義公は、時代の先駆者で、その父威公及び叔父の尾張敬公らの感化により、早く皇道精神の上に目ざめた。偶、『史記』の「伯夷傳」を讀んだのが一主因を為して、大義名分の精神を國史の上に發揮しようと志した。かくして義公の手によって、水戸學の開創を見たのである。

 

水戸學には二つの方面がある。

(第一) 水戸戶史學を中心とするもの、卽ち純然たる客觀的記述を主とする國史といふよりも、主観的に、大義名分の精神を高調し、鼓吹するがための國史編述である。

(第二) 水戸正教學を中心とするもの、即ち水戸史學完成のあとを承けて、主に政敎刷新の目的のもとに、國民道德の樹立を志した方面の諸思想である。

 在来、以上の二つは混同せられてゐた。それがために、水戶學の全貌をはっきりさせることが出來ぬ遺憾があったと思ふ。勿論、廣い意味からすれば、水戸史學も水戸政教學も一括して、水戸學と稱することが出來る。けれども内容について考察するときには、 以上の如き二大区分をしなければならない。

 水戸史學は、或る意味からいふと、内容上、北畠親房の『神皇正統記』及び『春秋』(孔子)の精神を繼績し、表現上、司馬遷の『史記』に據るところがある。必ずしも義公の創意のみによるのではない。
 
 義公が崇拜した大設名分の精神は、既に孔子の『春秋』によって明かにされ、更に日本では、吉野朝の忠臣、北畠親房により『神皇正統記』の上に發揮された。さうした點を回顧して、深大な感化を受けた義公は、深く發奮した結果、その精力の大部分を『大日本史』に傾注し、國史上に大義名分を明かにしようと努力した。


 勿鑰、一面において、大義を‹んじた朱子學の影響がいくらかあったことを認めねば ならない。水戸學派が、儒學上、朱子學派と見られるのは、義公時代に、朱子學に属したものが可なりあったからである。が、深い影響を水戸學の上に及ぼしたのは、『春秋』 であり、『神皇正統記』である。

 


 かくして創始された水戸史學は、皇道精神に立脚して、大義名分の意義を闡明すべく、皇位の正閏を論じ、人臣を褒貶した。さうした重要點を評論の形で表現したのが、安積澹泊の論賛である。それは、後に削り去られたけれども、水戸史學の眞精神を明かにす べき文献としては、論賛を見のがすことが出來ない。


 次ぎに今日の文化史の形體を爲しておる志類は、大義名分の精神を随所に説いたところがあり、時としては、復古主義に起って、政教一致(祭政一致)の旨を鼓吹した點も見える。
 
 また紀傳のうちにある將軍傳、叛臣傳、逆臣傳などでは、大義の上から人臣を是非し た寓意のあとが歴然としてゐる。それに帝紀において京都がたに對して執った態度の如きをも、おのづから、皇位の正閏についての意味を明かにしようとした形跡が見える。かうした精神の具體化が、三大特筆となって現れ、
(第一)皇位上、吉野朝を正位と断じ、
(第二)大友皇子(弘文天皇)、帝紀に入れ、
(第三)神功皇后を女帝とすることに反封して、皇妃傳に加へたのである。


 さうした点で、水戸史學の態度は、峻厳であり、厳粛である。大義のためには、皇位を正閏とする。また容赦なく人臣を是非すると云った工合で、一毫も仮借せぬ。即ち義理を透徹するために、飽迄、峻厳な筆法を用ひる。かうした上に水戸史學の特色があった。

 現代流に言へば、以上の意味において、水戸史學は、道徳的批判を中心とする一派に属する。唯それが、或る場合には、人情味を沒却し、暖い岡情を欠くといふやうな缺陷を生じたところもある。
 また紀傳において、神武天皇から起筆し、古代研究即ち神代史の方面を十分、考察することをしないので、皇道の淵源を明かにする上で、遺憾がないでもなかった。

 かかる映點、短所はあるけれども、國史を通じて、大義名分の精神を發揚し、皇道精神神の振興、普及に資した功労は、眞に偉大たといってよい。且つ水戸史学の副産物としては、
(第一)史學上、科學的方法を執るべキ新傾向を強調したこと、
(第二)水戸正教學に呼びかけて、その有力な素材を供給したことが數へられる。 •

 

(二) 水戸政教學の特性及び批判   

 水戸史學完成のあとを承けて台頭し、成立した水戸政敎學は、藤田幽谷によって、そ の礎石を置かれ、水戸烈公、藤田東湖、會澤正志斎らによって完成された。惟ふに、水戸政教學は、一面において、幕末非常時の空気を背景とし、烈公の政教改革の意図に伴 うて出現した。これを將軍政治の旺んな時代、幕威の鮮明な時代だった義公の場合と對照すると、多分の相違がある。

 義公が、水戸史學を建設したときは、外交國難もなく、思想國難もなく、また政治、 經済國難もなかった。即ち心から太平を謳歌してもよい時代だった。ところが、烈公の 時代は、國難一時に起り、幕府及び諸侯の財政上に於ける行き詰りをも生じて、非常時 意識を何人の上にも喚起せしめた。さうした時代の大波を乗り越えようとする心の動きが、水戸政教學の出現を促す一主因を為したと云へよう。

 

 水戸政敎學は、水戸史學が宣揚した『大日本史』の遺意を權承し、更に國民道徳を樹立し、政教を一新するの目的で生れた。その綱要は、「弘道館記』の上に示されてゐるが、一面、正志斎の『新論』『下學邇言』『江湖負喧』などをはじめ、東湖の『弘道館記 述義』『常陸帶』『正氣歌』などを参照しなくては、十分にその主張を理解出來ないであらう。

 

 蓋し水戸政教學の根底を貫くものは、皇道精神である。それから出發して、政教一致の旨を力説し、皇政復古を高潮した。それについて、水と學派は、哲學的思考によって、根本気理を普遍化するところ迄ゆかぬけれども、歴史的に、常識的にその根本思想即ち 皇道を發揮することに努力した。 

 それによって、水戸政敎學は、國民道德の内容を規定するに當り、皇道精神の統制下に、

(第一)日本國體の尊重、
(第二)神儒調和、
(第三)忠孝一致、
(第四)文武不岐、
(第五)學問、事業の一致、
(第六)擧國一致的な國家へ の報恩などを諸要素として列舉したのである。

 それと共に、附帯的要素として、
(第一)攘夷主義、
(第二)日本芸術の倫理化、道徳化などが説かれてゐる。 
 
 蓋し攘夷主義に一重點を置いたのは、非常時意識の反映と見られる。それは、他の諸要素の如く、恒久的意義において提唱せられたのではなく、實勢上、西力東漸への抵抗として、内政改革を促す手段として一時的意味において力説されたのである。
 
 次ぎに藝術の倫理化、道德化を唱へたのは、水戸學派が尊重した儒學の心持を反映したものと見られる。それは倫理、道徳の發展に資すべき素質を包有する芸術尊重を意味した。

 

 惟ふに、当時、各地に於ける藩學は、儒教を根本基調として、國民道德の樹立につい ては、考慮するものが少かった。この時に當り、水戶學派は、内においては、皇道精神 の闡明に努め、外来思想(キリスト教)に對しては、國家主義・民族主義の上から國民道德の意義・内容を明かにすることに全力を注いだ。

 勿論、その理論を整へるために、儔敎の説くところを参酌したが、宗教上、その中心とするところは、祭敎一致の根源を爲すところの神道だった。神道思想の興起は、やがて皇道を宜揚すべき最大動力となるからである。

 

 かうして、水戸政敦學では、皇道精神の統制下に、その國民道徳を形造る諸要素を結 合するについて、忠と孝との一致、文と武との調和、事業と學問との契合などを明示した。神儒調和の如きも、やはり、さうした旨趣の理はれと見ることが出來よう。これを近世支那において、孝を偏重し、例文主義に偏り、思想上、無意義にちかい排外傾向を執ったのにくらべると、大分の相違がある。

 且つ、水戸政敎學では、東湖の『述義』及 び正志齋の『退食閑話』に説かれてゐる通り、忠孝を中枢として、五倫・五常を維持す べきことをも明かにしてゐる。即ち忠孝第一として、その下に、夫婦の道・兄弟姉妹の道、朋友の道をも規定したのである。更に國民の必然的任務とすべき報國心をも高調し、私的及び公的道徳の意義をも發揚した。


 且つ水戸政敎學では、道德の實踐を力說し、知と行との一致を旨とするの意をも説いてゐる。即ち道を知ることは、やがてこれを行ふことであり、道を行ふことは、やがてその體驗を深め、認識を解かめるものとした。さうした旨趣は、東湖、正志斎らにより、  節かれたばかりでなく、烈公を始め、水戸の主要人物は、直ちにその所見、所信を政敎 革新の上に具體化することに向って邁進した。
 それが水戸政敎學の根本原理を政治・経済・社會の上に現はすべき改革運動となったのである。それは、現實上、利弊、長短を伴ったが、尊皇攘夷の大旗のもとに、明治維新を逼出した一大動力となった功と創造的機能を發揮した手柄は、十分に認めてよい。   


(三) 現代的批判   
 如上、主として水戸史學・水戸政敎學に互り、その本質、長所を要約し闡明した。次ぎに來るべき問題は、現代的立場から、水戸學を見た場合、どうかといふことにある。これが解答の一端として擧ぐべきは、左の諸點であらう。


(第一)水戶學は、現代の道徳倫理を始め、一切の學問、一切の文化が、明治初期以来、餘りに歐米色を濃厚にしたについて、日本本來の姿に立ち還るべく、一個の反省を與へる。


(第二)水戸學は、日本精神文化の獨立と純粋性とを確保するために、皇道の本義に立脚して、内外諸思想を統理し、創造に努力すべきことを敎へる。

(第三)水戶學は、中正的・調和的・綜合的態度を以て、 政治・經濟・學問・敎育等に對すべき旨を敎へる。


(第四)水戸學は、現代の政治經濟上に於ける革新について有力な示唆を興へる。

 

(第五)水戸學は、教育上、道徳第一、知識第二とし、先づ人の道を全うすべき旨を授けるべき事を切に考へしめる。


(第六)水戸學において科學の活用、統制を為したことは範を今日に示すものがある。

 以上は、水戸學が現代へ寄與する主點を數へたのである。


 次ぎに、現代的立場から、水戸學にやや慊らぬ骷を擧げると、左の如くであらう。
(第一)水戸學は、哲學上、古來、道の第本視せらろる「仁」の心よりも、より多く「義」の心を髙調したため、兎角、偏狭・冷厳な態度に導き易い傾向を帶びる。

(第二)水戸學は、日本中心主義の傾向が強いために、人類若くは、國際的協調の方面を少しく閑却した氣味がある。

(第三)水戸學は、史學上、最も闡明すべき必要ある神代史の研究を存外閑却し、或は避けたため、皇道精神の根源を明かにすべき点に十分触れ得なかった氣味がある。

(第四)水戸學において強調した攘夷主義の結果は、同學派の末期に及んで、西洋學軽視の端を開き、少しく固陋化した点を起生した。

 その他、水戸學が、道の實践を重んじたことが過去において、直接行動を促す一因となったといふ説があるけれども、それは、水戸學そのものの本質ではなく、また全く予期以外にある。故にこの説は、水戸學に對する誤解であることを確言したい。

 要するに、現代においては、今や歐米文化から吸收すべきものは吸收し、攝取すべき もの攝取したので、その淘汰を行ふと共に、本來の姿に還り、日本文化の發揮とその新形態の創造、完成へ大速力をもって急がねばならぬ。
 それについては、上下共に皇道精神に歸一して、思想の上に、文化の上に、日本の傳統美に即した道徳・倫理・敎育・政治・經濟等の特長を綜合し、これを組織化し、體系附け、創造、發見にいそしむべき必要に迫られてゐる。

 かうした情勢のもとに、水戸學が為した現代への寄與については、十分に考慮されて宜からうと思ふ。

                    


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