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高須芳次郎著『水戸學精神』第十二 水戶學に於ける科學思想(其の2)(六)科學の活用と統制 (七)軍需工業の進展 (八)國防充實に努力 

2022-10-15 | 茨城県南 歴史と風俗

  
      高須芳次郎著『水戸學精神』
   
   

  
第十二 水學に於ける科學思想 

(六) 科學の活用と統制     

當時、毛色の岐も變った學者に鶴峰海西といふのがある。彼は物理學者でその営時水戸においての専門は、主として天文學、物理學方面を担當し、それに中々熱心で相當精励した。彼は非常に數學に通じて、特に天文學、地理學その他のことを書いたものがある。この人の書いた『三才究理頒』といふ本の中に眞空といふことを説いてゐる。それから雨が降る時に温泉は何處よりも溫かくなるといふやうなことを書いた。或は電氣のことをも説き、また龍卷はどうして起るかを述べて、雨風が逆に吹いて來るといふと、 水は塊り、空に昇って魚その他を降らすといふやうなわけだといって、龍卷を科學上か ら説明してゐる。 

また月の地上に於ける引力が大きいことを認め、海潮は月の引力に依って低昂すると 言ってゐる。或はエネルギーに3つの種類があって、物質に固有して各自作用する力、 自ら動かす機轉の力、或は引き或は放つ力、かういふ風にエネルギーには3つの力があ るといふわけを説明してゐる。

 要するにその當時物理、化學、天文學といふことに就いて割りに詳しい解釋をした。今日から見ると幼稚だが、若干の興味がある。然らばこれ等の西洋科學をどういふ風に扱って行くかといふことに就いては、烈公はやはり日本精神に依ってやって行くといふことを説いてゐる。

 「蟹文字を讀み書く人もわが國の道よこしまにふみなたがへぞ」といふ歌があるが、それは所謂西洋學をやるのは結構であるけれども、蟹文字を讀み書く人の話は往々邪道に入り易い。西洋學研究はよい。併しながら敷島の道を破って、そして西洋學を崇拜するやうになっては困る。や はり日本精神を以ってこれを統制せよと烈公は説いた。これがやがて東湖、正志齋の精神である、卽ち水戸學は西洋學を採り入れ、併しこれを統制するに當っては何處までも日本精神に即してこれを支配するといふことが、はっきり現はれてゐる。日本精神を以て西洋學を利用するだけは利用して行くといふことが烈公の歌に明示されてある。


 また烈公時代の有力な史隶、豊田天功は英語をやらねばならぬと、熱心に説き、自ら蘭學をよくしたが、これも科學を採り入れるといふ目的のためであった。この科學に對する思想が烈公時代に非常な發達を遂げ、茲に幕末に於ける水戸が各藩に比べて科學上目ざましい飛躍をした。

 要するに富國強兵のためにかく科學が獎助されたと思ふ。それから富國策としての殖産興業である。水戸は貧乏な時代が多かった。當時の情勢としては各藩いづれも興業殖産の方をやり、水戸においても同じくこれを大にやらなけれぱならぬといふ方針であり、更に國防上軍需工業を盛んにしなければならなかった。この意味において、最初烈公は興業殖産に力を入れた。後には軍需工業方面に力を入れた。場合に依ると、殖産興業を犠牲にしてもいいといふ烈公の心持がよく分る。
 
 卽ち、 烈公は儲け主義ではない。無論多少儲ける考へはありはしたけれども、決して儲け主義ではない。殖産興業を犠牲にしても、殖産興業が衰へても、國家のためには軍需工業を盛んにしなければならぬといふので、多大の犧牲を拂ひ、軍艦を造った。反射炉を造った、大砲も作った。

 此處で烈公は公益優先の精神を具體化し、西洋科學を應用して有益なものを造った。これにはどうしても金がなければならぬ。金がなければいくら烈公が天下の名君であってもそれは到底出來ない。ところが、幸ひにも烈公時代一時金が出來た。これを活用して科學的事業を色々したわけである。  

 當時はまた人的資源に富んだので都合が宜かった。そして科學的事業を起すには、そ れに適した人材が無ければその事業は發展しない。要するに財政上一時餘裕を得、人的 要素において比較的豊富であった。大いに財政を豊かにするため土の祿高を半減し、 そして勤儉を獎動した。それから藩に物産方を置き、江戸に事務所を設けて、紙を作る、 瀬戸物を製する、茶を製造する、山林業を營むといふやうに、これが水戸の財源を殖や す一原因となった。  

 その他、烈公は幕府の海防係参與として年々5000俵の收入があった。また天保6年(1835年)から兵糧積立金といふものを拵えて貯金をした。且つ烈公時代に幕府から二萬兩の金を借りて、それを諸方へ貸したといふこどがあって、その金が元利共烈公に交付された。それで水戸は金の上で少し餘裕を得た。  

 それに天保6年(1835年)から年々幕府から五千両金を借りたが、5ヶ年間の期限つきであったのが4ケ年間延長された。それからまた、哀公の時代に幕府から夫人を迎へ、その持參金として年々一萬兩を幕府から貰ふといふことになった。かういふわけで烈公時代は、貧乏ながらも、経濟的に恵まれた。これにより大いに科学を応用して仕事をやって行けたのである。 

 更に人的資源としては藤田東湖、戸田蓬軒、白井久胤、金子教孝、佐久間致敬、福地 政次郎、山野邊義観といふやうな連中がをった。これ等の人材が烈公を輔けて事業をやった。
 また技師の方においては、造船の係には鱸重時がをり、銃を拵える方面では國友 吉兵衛、桑谷善太郎、或は鋳砲技師としては大島高任、熊田嘉門、竹下矩方、その下に 大工與七、弟の與次衛門、瓦職として福井仙吉、手島勘吉といふやうな連中か揃ってゐたから、都合が宜かった。卽ち財政において比較的豊なるを得、人的資源においても自
由であった。
 これで烈公の科學に對する事業が大いにやり易かったわけである。


(七) 軍需工業の進展  
 次に烈公が殖産方面ではどういふことをしたかと言へば、工業では煉瓦製造、硝子鼻 造、瓦斯事業、製藥、製紙、製陶等であって、また鑛業方面では鐵、石炭、煙石の採掘、それから軍需方面では造船と銅砲、殺製の大砲、その他小鉄、彈藥を拵えた。 

 かういふわけで殖産方面、軍需工業方面、この2つに亙って非常に努力した。ここに水戸が他藩に率先して如何に興業上また國防上から色々貢獻したかが考へられる。當時、烈公はどうしても大きな船を必要とした。即ち西洋と同じやうな船を造り、海國日本として大いにやって行かなければならぬといふので、先づ造船事業に著手した。
 烈公は無論最初に大きな船を造らなければならぬとしたが、幕府の方で、さういふものを造られては困る。

 即ち軍艦を利用して、萬一幕府を脅やかすやうなことがあっては困ると、容易に許可しなかったけれども、烈公は茲に考へ及び、那珂湊に製艦材料として槻、樫、檜を集めた。そして藩士の淺沼、白須の2人に日立丸といふ軍艦の雛形を造らせ、その外、短艇を2隻造った。  

 それから軍艦の雛形を幕府に献上して、「この軍艦の雛形を御覽なさい。この短艇を御覽なさい。これでどしどし海防をおやりなさい」とと言って、詰り實物敎育を與へた。

 折柄、嘉永6年(1853年)ペルリが浦賀に來て、砲聲一發を放って以來、これでは堪らぬといふので、幕府でも大きな船を造って宜しいといふので、その命令が烈公に降った。
  

(八) 國防充實に努力   
 併しその時分は軍艇を製造する技師がをらぬので、それを製造するのにオランダの原 書に據って此處はかうだ、其處はかうだといふことでやってみたが分らない。本に書か れた軍艦製造圖なるものは役に立たぬ。ここで烈公は大いに苦心をして漸くこれを造り 上げた。
 それで先づ蘭學者、黸重時を造艦委員長、それから助手として、小幡算衞門と いふ數學家を任用した。その他御用係5名を選任し、いよいよ軍艦製造をやらうといふ ことになった。
 その軍艦を最初製造する土地として認めたのが今の石川島造船所のところで、あれに烈公はその基礎を置いた。此處ならば軍艦を製造するに最も好適な域として、石川島で 造船起工式を擧げた。それが安政元年(1854年)正月で、同4日から工事に着手した。

 ところが本だけでは分らぬ。本に書いてあるのを見るとすぐ出來るやうに思はれるけれども、いざとなると本では役に立たぬ。玆に於いて烈公は自分の近臣に命じて、アメリカの軍艦を見學させた。また長崎に水戸の家來をやって、オランダ人に就いて學習させた。

 そして烈公自ら石川島に乘り出して軍艦工事の監督をなした。 斯くの如くにして、黸重時委員長、小幡副委昌長、その他の連中の努力に依り、安政2年(1855年)正月に進水式を舉行するに至り、それからまた正月26日に船霊祭を舉行し、ここに當時江戸方面、或は關東方面に於いて軍鑑が無い時に當り、それがほぼ誕生した。
 更にこれを横浜に廻して、内部の構造にかかったがなかなか難かしい。 

 黸委貫長が豆州戸田浦へ行つて、ロシア人の船に行き、かういふところはどうやったらいいかといふ風にロシア人から色々聽いて、それで内部の飾り附けが解り、これを完了して、遂に「報國丸」といふ船が生れた。それは安政3年(1856年)5月のことである。
 ところが、幕府は報國丸の名に滿足せず、新しく協定して「旭日丸」と附けた。そして安政4年(1857年)5月に横濱の本牧沖で試運転をしたところが好成績で、それから静岡県の清水港から1500石の米を横み込んで江戸灣へ來た。
  
 その時江戸人はこの軍程を見て雪に喝采し、實に立派なものだ、日本人の手に依って始めて軍艦が出來たといふので江戸人は喜んだのである。 烈公は自分の手に依って、遂にこれを拵え上げたといふ欣びを切に感じ、これを目出度く幕府に納めた。その時、黄金百枚と、それから時服30を賜ったのである。
 この製艦費は幕府から半分出して水戸から半分出したのか、或は全部幕府が出したのかといふことは分らないが、いづれにしても、烈公が非常な困難を排除して相応の軍艦を拵えたわけである。

 ところが、これには一つの缺點があって、波風が立つと、なかなか運転が出來ない、どうも厄介だといふので、當時厄介丸といふ名が附けられた。けれども相當貢献してゐる。 

 一方烈公は天保7年(1836年)に大砲製造を開始し、天保10年まで拵えた大砲は14門である。この後鍛鐵砲、長身砲を拵えたたが、この砲身造るには鐵砲の名人・國友理介を委員長として、これに當てた。これに就いて烈公曰く、「どうしても外國の軍艦をやッつけるのには大きな鐵砲の弾でなければいかん。大きな鐵砲彈を射ち出すには大きい大砲を造らなければならん」と、
この方もなかなかの大苦心で、度々失敗して多大の費用を費したが、天保13年(1842年)、長身砲の如きは3回目に始めて出來た。


 この時烈公は手を拍って喜んで痛抉がり「一發鏖虜」といふ銘をそれに打った。ところが、その當時銅の値が髙くなるといふので、御承知の通り、水戸藩内に於けるところの釣鐘を鋳潰して大砲を造った。これが抑も慰公が無實の罪を被せられた一原因で、お寺の鐘を取上げてまで大砲を造らなくてもいいじゃないかといふ怨みを買ったのである。これ等の鐘で造られた74門の大砲はこれを幕府に献上して国防に資した。 

 更にその後その他の色々な變った大砲も造り、嘉永6年(1853年)に那珂川の沿岸に大砲射的場を建て、更にその後、安政元年(1854年)に神勢館を創めて、弾藥倉庫、測量術、火薬製法、それから大砲を專らにする演習場を創めた。即ちこれは砲兵工廠或は軍需工場を兼ねたものである。其處で大砲も練習すれば、火薬製造法にも大いに熟練するといふ意味でなかなか發展した。

 そして烈公の拵えたものの中で、一番困難なものは反射爐であった。反射爐を造るに は、1700度の熱に耐へる耐火煉瓦を要する。これに非常に苦心したことを申し上げたい。その耐火煉瓦に彫み附けた東湖の歌がある。

 「皆つぼみ冬の早咲こよひしも等しく開く梅の初花」といふのである。耐火煉瓦を造へる技師連中が、1700度の耐火煉瓦を造るためにどんなに苦心したか知れぬ。また安政5年(1834年)4月16日朝、最後の鐵製大砲を鋳込む時に,その前から3人の技師は朝晩神に祈り、それから不動樣に祈って、そして鋳込みの當日は白裝束、白鉢卷で現はれた。彼等は成功しなければ鐵が煮えてゐる中に飛び込んで、そして烈公に申訳をしようといふ決心をした。 

 斯くの如く反射爐を作るには多大の犠牲を拂ってやっと出來上ったわけである。これは水戸藩に人的資源が整ひ、財政が或る程度まで許されてをったといふこの2つが巧に調合してここに效果を奏したのである。  

 そして軍需工業の當畤に於いて最も模範的なる仕事として宣伝された。さういふ國防上最も重耍なるものが科學を応用されて水戸藩で造られたのは、何としても烈公の多大なる愛國心に依るところであると言はなければならない。

 またこれを輔けた藤田東湖、會澤正志齋、その他の人々の多大なる献身的努力に俟つものがあった。 

 次に工業方面に於いては硝子製造をやった。これは天保11年(1840年)に神崎に製造所を置いて、燧石を原料として硝子を造った。その主要な目的は烈公が北海道移住を計畫したから、北海道に渡るに當り、大きな船に板硝子を持へて用ひなければならぬといふので、 製造したのである。その副産物として硝子鏡、それから盃などを造った。

 この北海道經營は水野越前守の反對に遭って頓挫し、硝子製造業も中止して了った。次に瓦斯は、製作所用の燈火として、實用に適したものといふので瓦斯燈を造った。
 それを江戸の職人 林田利八に造らせ、安政2年(1855年)9月に那珂湊に工場を創創めた。そして助川から取寄せた石炭を使ってこれが立派に出來た。
 それから製薬方面では、弘道館内に医學館を拵えて、 藥園、製薬局を置き、櫻野牧場に牛を飼って、バターを造り、また乾バターを造った。牛乳も盛んに烈公自ら飲んだほか、藩臣にも頒ったのである。紫雲、神仙丸などの藥を拵えられた。 

 次に製紙事業として、天保10年(1839年)、下町に製紙場を掂へ、梅皮紙、松皮紙などの手紙用 の紙、唐紙も造った。この製紙事業は相當發達を遂げた。また煉瓦事業は反射煙を造る ために始められ、反射城一基を造るには2萬枚の煉瓦が要った爲め、耐火煉瓦をどうしても造る必耍がある。反射焼が出來た後にも、耐火煉瓦その他上等の煉瓦を作つた。
 この原料は野州那須郡小砂村から取って來たのである。

 それから瀨戸物だが、これは肥前 唐津から陶工傳五郎を雇ひ入れ、また藩士を京都に派遣して製陶法を研究させた。そし て天保四年に陶窯を下町瓦屋に設けていよいよ瀬戸物を造るやうになり、天保六年(1835年)に産出したが、これが江戸まで出るやうになった。併しながら、これも軍需工業の方に力を 注いだため中途で止めた。その他鑛業に於いては、製鐵事業その他色々なことをやったのである。

 要するに烈公のなされたことは獨り國民精神作興のみならず、色々な科學的活動が續けられた。ここに烈公の非常な苦心と努力があるわけで、先づ精神科學、自然科學、この兩面に於いて水戸學は相當貢載してゐる。要するに頑固の本山のやうに他から思はれてをった水戸が一番新知識の本山で、立派に西洋の科學知識を族用して、國家に頁献してゐる。われわれは水戸學に於ける科學といふものをもっと硏究して行きたいと思ふ。  
 


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