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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

国指定史跡「小田城跡」と周辺の遺跡

2019-11-14 | 茨城県南 歴史と風俗

小田城跡と周辺の遺跡  
 
現在残る小田城跡は、鎌倉時代以来何度も作り替えられ、廃城後に士塁を崩して堀を埋めるなどの改変が行われている。現在残る戦国時代末期の遺構は、方形の曲輪(本丸)を中心にほぼ三重の堀と大小の曲輪が取り囲む構造で、史跡指定範囲でも東西500m、南北600m以上の規模がある。

 古絵図などには外側の町場を囲むような堀も描かれている。また小田城跡北側の山上には、堀跡や士塁跡など城郭の遺構が残る前山城跡がある。 
 小田城の最終段階には、この前山城と長大な堀で囲む全長3km以上にも及ぶ外郭があったとの説もある。
        
  
  
       

 小田城跡周辺には小字や通称などの地名に中世の名残りをとどめたものが多くある。城内の曲輪には「南館」、「丹後屋敷」、「新左工門屋敷」,「太郎右工門屋敷」、「信田郭」、「田士部郭」などの屋敷に関係した地名があり、有カ武士の屋敷などがあったと推察される。

 その外側には、町場に関係する地名として「西町」、「荒宿」、「大町」、「今宿」、「見世屋」、「台見世屋」などがある。 
 また、宝慶山山頂に所在する天文8年(1539)の板碑銘では「下宿」の存在も確認できる。

 前山城跡がある北の山裾には神仏に関わる「不動下」、「諏訪下」、「北斗」などが、さらに北東の山裾には三村山極楽寺に関わる「神宮」、「尼寺入」、「常願寺」などが、地名として残っている。
 この付近の山麓には五輪塔などの石造物が多数存在しており、瓦も大量に出士していることから、宗教に関連する場であったと推測される。 

小田城周辺の石造物 
 
小田域跡北東の山裾には、三村山極楽寺遺跡群がある。そのうち、三村山清冷院極楽寺跡は、1252(建長4)年から10年間、奈良西大寺僧忍性が止住し、関東での律宗布教の足がかりとした寺院の跡である。

 周辺には極楽寺の存在を物語る鎌倉時代の不殺生界碑や地蔵菩薩立像、石造灯籠、宝慶印塔、五輪塔、といった石造物が多く見られる。
 地蔵菩薩立像や石士苔類は西大寺系石工の関与が推定される優品である。  


 極楽寺の終焉時期は不明であるが、室町時代以降も、筑波山山麓では大型五輪塔を始めとした多数の石造物が造られた。こうした仏教美術の広がりに、極楽寺が強い影響を与えていると考えられている。

 また、この山裾一帯は自然の宝庫であり、宝慶山へ登るルートも整備されている。

 
    
   


発掘調査の概要   
 小田城では、戦乱が激しさを増すにつれ、様々な防御の工夫がなされている。

 その変遷をたどることは、日本の城がどのような変化をしたか考える上で重要である。一方、本丸は足利将軍邸とも共通する建物群や園池の配置、豪華な出土遺物は、大名特有の生活な文化を物語っている。

 関東の伝統的な名家として「八屋形」(千葉、小山、佐竹、結城、宇都宮、長沼、那須)に数えられる小田氏の高い家格を象徴している。 

  


① 建物跡 
 写真左側に見える石は、建物の柱を支えていた礎石である。他に礎石は残ってはいないが、列状に並ぶ穴の位置にも据えてあったと考えられ、ここに礎石建物跡があったと推測されている。
 建物域の南側では、もう1棟礎石建物跡が確認されており、この区士或に礎石を据えるほどの立派な建物群があったと想定される。 

           


② 西池跡 
 当初は南側の士塁付近まで広がっていたが、改修によって北へ狭まるとともに、深く掘り直された。改修後の規模は、南北約14m、東西約17m、深さ約1mで、斜面には石が敷いてあった。
 写真の石は崩れているが、本来は池の周りを飾る景石だったと考えられている。景石が少ない東池とは、様子が大きく異なっている。 

   



③ 南西虎口跡
  

 石列と礎石を持つ門があり、虎口両脇の士塁裾部から本丸内側へ低い石垣を築いていた。写真中央の石は、石塔の部材である。
 また、南西馬出との間には、木橋が架けられていた。 

    


④ 南西馬出跡  
 南西虎口を守る約50m四方の馬出曲輪である。
 幅約10mの堀で囲まれているが、北西の堀は鉤の手状に屈曲して本丸の堀へとつながっている。
 北東には、東隣の曲輪へ渡る士橋が、盛士で構築されている。 
    
     

 

⑤ 北虎口跡  
 北虎口跡には、2時期の変遷があり、最終期の虎口は幅約4mで、通路は小石等で舗装されていた。
 橋は障子堀や木橋の橋脚を埋めて構築した士橋で、裾部分には石積みが施されていました。一時期前の虎口跡は、最終期よりも西へずれた位置にあり、埋められた木橋と対応するものと考えられる。 
 
      

 
⑥ 暗渠跡  
 本丸中央南寄りの地点には、大溝へ続く石組みの暗渠跡があり、この上には通路が通っていたと考えられる。

      



⑦ 東虎口跡
  

 東虎口跡は3時期の変遷があり、改修毎に位置を南へ移動している。
 複数の橋脚跡が確認され、障子堀の障壁が木橋部分を避けて構築されていたことから、長く使用されたと推測される。
 最終期の虎口幅は約4mで、そこから両側に側溝がある幅6mの通路が建物域へと伸びている。
  

    


⑧ 東池跡  
 東池跡は、南北32m、東西13mの不整形で、深さ30~80cm。
 池底には石が敷かれているが、斜面は西側の一部を除き石を使用していない。
 池跡は多量の炭化米層や黄褐色士層で一気に意図的に埋められており、出士品の年代から第1面の頃には機能していなかったと推測される。
   

      


⑨ 遺物出土状況  
 本丸跡からは、13~16世紀の土器が多く出士している。
 特にかわらけが多量で、本丸で酒宴や義式が行われていたことが窺える。
 写真は、東池へ続く溝跡での出士状況である。

     


 
【関連記事】 

 筑波山麓 国指定史跡 「小田城跡」   
   
  つくば市小田の国指定史跡「小田城跡」発掘調査の概要 

 【参照資料】

  つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡」平成22年2月   

 


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