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頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(2) 日本學の實行 

2020-04-21 | 茨城県南 歴史と風俗


    頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(2)
 

  

 

日本學の實行

 幽谷の勤皇愛國の血をそのまま受けついで生れたのが、東湖だ。
 東湖は
  稽古、徴今
  闡明本朝神聖之道 右文左武
を座右銘とし、尊皇精神の昻携と寳践に努めた。

 水戸藩は尾州、紀州の二藩と共に、所謂、親藩御三家で、諸藩の上にすぐれた勢力を持っておつたが、殊に、水戸藩は、所調水戸黄門以來、歴代の藩侯が日本學の研鑽に努め、修史に力を注ぎ、時代の碩學を招じ集めた。藤田東湖を初め、戸田蓬軒、會澤正齋等を篤く用ひた。

 所謂水戸學の隆盛を極めたのも此の頃だ。水戸學は乃ち日本學と言うてよからう。
「神州の道を奉じて西土の教に資り、忠孝二つなく、文武岐れす、學問事業その効を殊にせず、神を敬し儒を尊び、偏黨あることなし」との主張綱領を以て、藩政改革に托し、天下の改革に實践せんと欲した。


大義を明にす
   苟明大義正人心  皇道奚患不與起 

   新心奮發誓神明  古人有云薨而己 
 東湖は實に斯くの如き決意を以て、事の大義を明にし、尊道の振起に、奮勵した。
水戸學の中心思想たる、尊皇攘夷の説は東湖、正志齋等の示により、天下を風靡した。
 藩主齊昭の聲望も、一世を蓋ふの有様であった。

 斯くして水戸は三百諸侯の上に指導的地位に起っにのである。

   三決死矣面不死。 二十五回渡刀水
   五乞閑地不得閑。 三十九年七處徒
   邦家隆替非偶然  人生得久豈徒爾
   自驚塵垢充皮膚  猶餘忠義塡骨髓
   嫖姚定遠不可期、 丘明馬遷空自企 

と言ふやうな元気な詩を吟じて滿腔の熱誠を被瀝し、士気を振作した。

 徳川幕府の末期から著しく昻揚された、尊皇愛國、勤皇攘夷の國家意識は、東湖等の愛國的情熱に依り言論文章に迸り出で、各藩の具眼の士を鼓舞躍動せしめた。
 斯くして勤皇討幕の運動は燎原の火の如く滿天下に燃え壙がったのである。

 一君萬民の肇國精神と共政治體制が復活し、大政奉還、明治維新囘天の大業が成ったのは、東湖等の血涙の賜と言ふも敢えて過言ではあるまい。

東湖の蟄居と著述
 衰退の幕府は、水戸藩の隆々たる勢力に畏怖し抑圧之努めた。

 中納言殿、御家政向連年御気随之趣隨相聞え、且つは驕慢に被為募、都而御一之御了簡を御制度に被觸候事共有之、御三家方は國持始め諸大名可為模範所、御遠慮も不被在之候始末、御不興之事に被思召候との理由にて、斉昭は隱居の上駒込屋敷に謹慎を命じ、同時にその謀臣たる、東湖、蓬軒等も「中納言取の存意に任せ家政を紊亂せしめたる段不埒の至りなり」として蟄居を命ぜられた。

 併しながら、幕府は人物の貧困と泰西、外力の圧迫が露骨になるにつれ、幕府は、水戸藩を中心とする、●(不鮮明、判読不能)勃たる、輿論を汲み込まねばならぬ破目となり、齊昭の謹慎僅かに半歳にして之を解いた。
 尊皇攘夷の水戸藩の勢力が却って反撥して天下を風靡したのは當然のことである。


東湖の大乘攘夷論
 常陸帶の一節に、

 「上も下も諸共に、大和魂を磨き、天が下の蒼生一人も残り失せるまでは、皇國の地は、夷に踏ませじと思ひ定め云々」とある。 

 又東湖が或る時、閣老、阿部を訪ね、速かに攘夷決行を追ると、阿部は悚然として、「貴殿の説は言ふべくして実行し得ぬ事だ。貴殿の如き智謀の士が、どうして其やうな言を吐くさ」と意外の不機嫌であったと言ふので、
 東湖は此時のことを、人に語って、「閣老が若し幸ひに先づ自分の言を容れ、更に自分に策を問ふたならば、自分は、國民の統一、士気の振興、富國強兵の策を献じたかった。然るに閣老は、突如上して先づ怒った。更に共策を聞く事を欲しない。その時自分は、阿部と言ふ人が、時局救済の人物でない事を知り、爾来進んで、さうした事を言はない」と漏らしてをる。
 これが東湖の、大乗攘夷論である。

 東湖の言の如く、國老阿部には、確たる信念もなく、不抜の決心もなかった。阿部すでに然り其他幕僚をやだ。あの内外多難なる時局を収終する為には、廣く献策を容れねばならぬにも拘らず、更に人言を容れず、假りに容れたとしても、彼には其の献策を實行する政治力はなかった。

 只眠前を糊塗するだけの御都合主義の政治家であった。その爲、熱烈火の如き、烈公や、東湖とは、重大問題にぶつかると、常に意見の相違を来した譯だ。

 東湖の攘夷論は徒らに頑迷過激なる、小乗の攘夷論でなく、日本國民をして、皇道に徹せしめ、對外硬的思想に統一し、各藩の主張を打って一丸となし、武備を整備する考へであったのだ。
精爽にしての神の如く気霜に似たり
   朱鞘白柄丈餘り長し
   何れの時か酣戦す黄砂の上
   百萬の夷一槍に付す

などと言ふ元気な詩を賦し、大いに士氣を振作し、輿論の喚起に努めた。

 更にこんな痛快なのもある。
   盟喝威を示すも中實は懦
   人間の廉耻一毫もなし
   布恬被理何ぞ問ふを須ゐん
   伎倆従来狼にして狐 

 碣破し得て實に痛快だ。當時の外國人どもは、全くの虚偉、虚勢であって、更中實はない。此案山子の如外國勢力に狼狽した幕府の無気力、無気魄に驚く外はない。
 此間にあって東湖の如き見識あり膽略ある、指導者をもってをつたことは國家の爲せめてもの幸である。

   白髪蒼額萬死に餘る
   平生の豪気未だ全く除かず
   寶刀染め難し洋夷の血
   却って憶ふ常陽の舊草廬  
 東湖の國権伸張に對する意気は誠に壯烈なものであった。


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