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頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(1) 東湖は勤皇の横綱 

2020-04-19 | 茨城県南 歴史と風俗


    頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」
 

  


父子三代の勤皇 

 東湖の父幽谷は所謂水戸三田の戸田蓬軒、武田耕雲齋、藤田幽谷と竝び称せれた、勤皇學者の一人藤田幽谷だ。幽谷は實に水戸勤皇の碩學であるが、所謂神童で十二三歳の頃すでに立な學者で、押しも押されもせぬ大丈夫の風格があった。
 彼の豪遇の高山彦九郎が初めて幽谷に會ったのが恰度その頃で、幽谷は高山に、
   聞君高節一心雄 
   奔走求賢西又東  
   遊學元懷寄偉気
   正知踏海魯連風  
と言ふ一詩を贈り、高山を魯仲連に比し彼の奇策、高節を稱へてをる。

 高山はいたく幽谷の風格に敬服し、自分の娘もあんな人に預けおら仕合せだと、羨ましく思った程である。
 幽谷は、文政年間、早くも「英、米撃滅」を叫んでをる。無論ベルリ来航の前だ。英の捕鯨船が、常陸の大津濱へ來て、英人が其附近を荒し廻ったことがある。烱眼の幽谷は英人に対し其肚裡を糺し、米、英が東洋侵略の野望を蔵することを看破し、其の時すでに、米、英討伐を決意し、年少の子、東湖に英人排撃を命じ、東湖も亦、一死、國難に當らんと誓ひ、勇躍大津濱に馳せつけてをる。
 後年、東湖が向島小梅に幽閉せられた時、一夜十萬の兵を率いて英国を討つ夢を見て一詩を試してをる。さすがに米、英撃滅の父の血そのまま、受けてをつて痛快ぢや。
   渡海連檣十萬兵 
   雄心落々壓胡城 
   三更覺夢幽窓下  
   唯有秋聲面似第  
と言ふのだ。

 幽谷の米英撃滅の決意はそのまま又高弟、會津正志齋に傳へられ、正志齋の著「新論」は明治維新、日本革新、大業の一つの原動力となった。

 東湖の三子、小四郎も亦、英邁の勤王家で、若干、筑波山尊皇の義擧に領袖に推された程の器量人だ。彼は二十四歳で刑死するまで、勤王運動に終始した。刑に臨み、朗々、文天祥の正気歌を高吟し従容として死んだ。

 彼は自ら、蓪頭、亂髮、弊衣短袴、怒髮天を衝く志士の繒を描き、賛をなし、
   亂髮蓬題如夜叉 
   不言可識是藤田 
と自画自賛する位痛快淋漓な快男児であった。

 小四郎、先憂樓と號し、矢張り熱心な攘夷の實行派だ。彼に譲位の詩がある。
   何憂醜虜迫日東 
   三軍巳曾幾英雄 
   飜飜鏃旗連營外
   燐爛甲光帷幕中 
   破洋要仲弘安蹟
   
欲継文禄年間風 
   不闢世俗呼狂賊 
   晃嶺神霊鑑寸忠 
と言ふのだ。相模太郎の如き膽略の男だ。

 斯くの如く、藤田家は、幽谷、東湖、小四郞と三代連綿たる勤皇、米、英撃滅の名門だ。


忠孝兩全、文武兩道の達人
 東湖は、忠孝兩全、文武兩道の達人、勤皇の結晶とも言ふベき英雄であつた。
東湖が水戸で、勤王討幕、王政復古の大義を説くや、水戸學は勤皇室精神涵養の絶対的學派となり、水戸藩は、勤皇討幕の大本山となった。

 幕末、諸藩、勤王の諸豪は竸って水戸を訪ひ、東湖に學んだ。
吉田松陰然り、西郷南洲然り、久坂玄瑞、高杉晋作、平野國臣などはもとより、勤王の先達は悉く東湖を欽慕し、其の風格に接せんとした。

 吉田松陰が水戸を訪ふた時は、恰度、東湖の幽閉中であって、親しく東湖に敎へを仰ぐことが出來なかったやうだが、松陰も深く東糊に私淑し、松下村塾中心の學風と思想とは、東湖の精神と學風に感化を受くるところすこぶる多い。
 

東湖は勤皇の横綱
 自分はどうも不思議なり廻せ合せで、東湖が安政の大地震で、非業の死を遂げた、安政二年(1855)に生れた。自分は八十八歳を東湖の歿後八十八年になる訳だ。 自分は安政の大地震で既世に振り出されたやうなものだ。 

 明治十年西南の役に、自分どもは、西郷に相應ずするとの嫌疑を以て、長州萩の牢獄に投ぜられ、西南役の平定を待って釋放せられた。

 明治十二(1879)年、鹿児島に西郷の邸宅を訪ねた。南洲翁の書道の先生と傳へられてをる、川口雪蓬老が居って何くれとなく慇懃にもてなしてくれた。
 其際、雪蓬は、西郷さんは勤皇諸傑の話が出る度に、「水戸の藤田東湖先生が健在でごわしたら、おいどんなどとても末席も汚せん」と言うてをられたと話してをつた。
 南洲は餘程、東湖を畏敬してをつたものと見ゆる。

 明治政府になって、西郷、木戸(孝尢)など一所に臺閥に居る頃、南洲は木戸に向って、「オイ木戸、藤田東湖先生が元気であったら、おはんやおいどんは、こんな地位についてをれんぞ」述懐したと言ふことだ。

 南洲は安政二(1855)年は藩主齊彬に随って江戸に上り、第一に訪ふたのが藤田東湖である。南洲が、其際、母愛の實家、椎原家へ贈つた書簡を読むと、如何に南洲が初對面の東湖に、敬服、感奮をしたかヾ判る。

 即ち、東湖先生も、至極丁寧なる事にて、彼宅へ差越申と、清水に浴候塩梅にて、心中一點の雲霞なく、唯清浄なる心に相成り、歸路を忘れ候次第に御座候。櫻任蔵にも追々差越候厳、是も豪傑疑ひなく、廉潔の人物、其上博識に御座候、彼方の學問は、始終忠義を主として、武士となるの仕立てにて、學者風とは、大いに違ひ申候。自画自賛にて、人には不申候へ共、東湖も心に被感候向に而は無御座。毎日丈夫と呼ばれ、過分の到りに御座候。

 我ものに一義も被引受頼母敷其難有共不被申、身にあまり、國家の爲悅敷次第に御座候。若しや老公鞭を擧げて、黒船へ魁御候はば、逸散駈付むべ草(埋草の意)に成共成罷成申度心醉仕申候。
御一笑被下度候。云々。

 清水を浴びたやうなる心地で只々清淨になったと言ひ、いかにも純情の南洲、靈感に打たれた模様見るやうにある。殊に、感激の餘り、遂に歸路を忘れたとある。いかに、南洲翁が東湖の人物、識見に傾倒したかが想像される。


父は「正名論」著者幽谷 
 彼が父幽谷は元、水戸の商家に生れたが、幼より學を好み江戸に出で、天二日なく地に二王なく皇朝、自ら眞太子ありと喝破し、正名論を著し、其の大義を明にし、大いに勤皇、愛國を説いた。高山彦九郎、蒲生君平などと深く訂交し大義明分の鼓吹者で、尊皇攘夷の實行者であった。
容貌、魁夷、意気豪遇の碩學であった。

 文政七(1824)年幽谷五十一歳の時、イギリス船二隻、常陸大津の濱に來泊した。
常陸は、鹿島の神鎭まります神代の霊域だ。此神聖な淨上に事もあらうに、い異狄の船が泊るとは、實にけしからぬ話だ。これは神國に挑載するものだ。
 神國を汚すものだと勤皇、攘夷、公憤の迸しる處、遂に一首の和歌となった。
   常陸なる大津の濱にいぎりすの 
    船をつなぐと君は聞かずや 
恐らく藩主に示したものだらう。イギリスの此無禮をなぜあなたは、手を空しうして、傍観してをらるるのか、なぜ、おつ拂はれぬのか、痛憤したのである。 

 彼は憤激の餘り一子東湖をして、上陸の外夷を斬り殺させようとしたと云ふ。實に豪快無双の勤皇學者であったのた。

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