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頭山 満述 『英雄ヲ語ル』藤田東湖(4)尊皇の文と詩歌

2020-04-22 | 茨城県南 歴史と風俗

   
    頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(4)
 

  

  

尊皇の文と詩歌 
 東湖の皇道主義の迸(ほとばし)る處、悉く言論となる。文章となり、詩歌となって、一百年後の今日獪猶嚴として、尊皇、愛國の経典となり、力強き、皇道絶對の叫びとして、今人を導いて居るのである。

 東湖も幕府の追害に遇ひ、前後二回、幽囚の辛酸を嘗めて居る。江戸で二年半、水戸で七年、前後約十年近い幽囚の生活は、遠大の理想をつ東湖にとって、誠に堪へ難きものであった。

 此間、毫も素志をゆるめず、著述と作詩に、勤皇、愛國の至誠を被瀝し、敬天、愛人の道を説いた。
「弘道館述義」や「囘天詩史」「正気歌」は此幽囚裡の作である。
 幽囚中に寺門政次郎に送った書簡の中左の一節がある。

 弘道館記中に、忠孝無二、文武不岐、學問事業、不殊。
其效と遊ばされ候段に學者立志の模範、志士報國の根本に御座候。
 今世親孝行の様にても、父子の中、得と致さざる向も相見え、是等は決して聖人の道にあらずと存じ候。
 又少々書を讀み候へども何かな仔細らしき顔色を致し、言語等漢文交にて、しやらくさく候へども、劍槍等の一切出來申さず、文弱白面の書生と相成候段、毛唐人ならばそれでも宜敷哉相分ず候へども、かりそめにも、神州尚武の域に生まれ、且つ武家のめしを食候ものは、左様白面の書生は風上へも置兼候事、勿論御座候。

武人の愚にも困り候へども、どちらかと申し候へば寧ろ文弱の書生にはまさり申すべきか併し成るべきだけは文武不岐、兼備これあり度事是又勿論に御座候。

學問事業、不殊其効に至りては中々難物、僕か輩、頒白に相成候へども、今以て學問事業、修己活人の工夫、明倫正名の講究、時々刻々離れ申さず候。云々。

 更に左の一説がある。
 慶、元、以來、人物林の如く、豪傑も追々出で候處、其の中にも、仁斎の學に、徂徠の文章、熊沢の経済、新井の敏捷、皆畏るべきに御座候。

併し右の内、徂徠は更に名分を存せず。自分を東夷の人と稱し候義、不届至極に御座候、新井も才気絶倫に候へども、東都を張りて立て候志は悪むべき御座候。

左候へば今に在りては、右數氏の長を取り短を捨て、實學講究、孔子の意に叶ひ候様、
御同意企望致し度事に御座候。

今世の儒者、動もすれば唐人の事は丁寧に申し、司馬温公、朱文公、韓魏公、など唱へ、扨、新田義貞が云々、楠正成云々と申候類、相済まず、右様の人をば僕毎に、「和唐人」と唱へ申候。御一笑下さるべく候。
其外尚世の學風、其弊少からす候へども、迚も書中に盡し
兼候故其一端を擧げ候のみに御座候。
和唐人の形など、誠に愉快だ。東満ならでは謂ひ得ざる虔である。
吉成南圜に財った書簡の一節に左の如きものがある。

野生儀、年三十九、即ち、蕃山が芳野に隱れ候齢に御座候、最早人間世に念を絶ち、著述三昧と
覺仕候へ共、人間世に念を絶ち候へば、著述も魂入申間敷と存候、且つ笙を取て吹候事も不相成候間、日夜朝暮、憂憤と著作のみに御座候、云々。

 更に、囘天詩史と申小著出來煥虔、如何にも實録と言ふも危く候間下し不申、貴書にて御拜領の御記存出し、今日立稿仕候、乍併鹵弊、御存分に御斧正可被下、御序に伯民へ御見せ、直しを受け候上にて、清書、御囘し可申候、乍併、今程は雄力も空しく匣中に鳴候半、噫。
とある。

 さすがの東湖も幽囚には滿腔の憤激を感じたらしく、著述と作詩は此間の唯一の義
気を吐くよすがであった。
   鳳暦二千五百春  乾坤舊依物光新 
   今朝重感縁何事  印是橿原即位辰 

 東湖は前の如く、皇道の大義を明にする爲、汎く山陵の修築を献策し、殊に、神武神陵の
修築に心を盡した。
 一日も早く其實現を念じたが、その寳現を見ざるに、早くも紀元二千五百
年を迎ふることになった。其共感慨の情よく察知することが出來る。

 詠古三十首の中一つとして、皇基を明にし、東湖の誠忠、勤王の至情を盡さざるはない。
   陰陽日月を生む、赫然として六合明なり、
   天神造化の功、蕩々として豈名を得んや、
   劍鏡萬古に輝く、皇統綿々として榮ゆ、
   茫々たる普天の下、孰れか神京を仰がざる。

 又、弘道館舍長となった、愛弟子、茅根伯陽に強った詩などはよく時弊を述べ、東湖が子弟に對する情誼を盡したものである。
   君をむ當世の利を慕ふ勿れ、
   君に期す須らく千載に馨を傳ふべし、
   大道の湮晦せる一日に非らす、志士發憤し闡明するを要す、
   大厦の朽腐亦漸く久し、良匠の用心経營にあり、
   泄々の徒何ぞ云ふに足らん、人壽幾何か河清を俟つ、
   君に勸む時に及んでは須らく勉強すべし、
   大道未だ減びす厦未だ傾かず、
   嗟予頑鈍機を知らず、陒窮遺佚死を與にするの濱、
   萬言の策略百用なし、七尺の形軀一棄人、
   金錫此閑豈偶然ならんや、
   將に文辭に擬し悠久を託す、
   箪瓢城屡々空しく渇又飢、朝夕追随唯丹心、
   風簷書を展いて蒼昊に對す。

 東湖の、正気の歌は、囘天詩史と共にあまりにも有名だ。東湖の、序文を熟讀すれば、正気の歌の由來がよく判る。
 
 彪 (東湖の幼名) 八九歳の時、文天祥が正気歌を先君子に受けぬ、先君子之を補する毎に、盃を引き節を撃ち、慷慨奮發、正気の天地に塞がる所以を談説し、必す之を忠孝大節に推本して、然る後に止みき。

 今を距る事三十年餘なり。凡そ古人の詩文、少時誦せし處、十に七八を
忘れたれど、天祥の歌に至りては、歴々暗記して、一字をだに忘れず。

 而して先君子の言容、
宛然として猶心目に在り、彪性善く病めり、去歳公の駕に従處處ひて來るや、方に感冒を患ふれども、疾を力めて途に上ぬ。

 公が罪を獲給ふに及び、彪亦禁鋼に就けり。風窓室湯邪交侵し、
菲衣琉食飢寒並び至り、其辛楚艱苦、常人の堪へ難き所なり。

 而るに宿痾頓頼に癒え、體気頗る
佳く、字宙を睥睨して叨りに古人と相期するは、蓋し天群の歌に資るを多しとなす。

 夫れ天詳
宗社の傾覆に値ひ、身胡虜に囚はれしは、實に臣士の至變なり。彪が幽せられる若きは、特一時の奇禍のみ。

 其事と、其跡と大に同じからず、然れども古人云へるあり『死生亦大なり』
と今彪の困阨既に此くの若し、然るに人猶或は意に慊とせず曰く『遂に何ぞ死を賜はざる』、曰く『何ぞ早く自裁せざる』と、彪の死生の間に出入する所以、亦復此くの若し、而かも頑學として變せす、自ら信ずる事愈厚きは未だ始めより、天祥と同じからすんばあらざるなり。

 鳴呼彪の生死は、固より道ふに足らず、公の進退に至りては、則ち正気の屈伸、神州の汚隆繋る。豈一時の奇禍とのみ言はんや。

 天祥曰く『浩然は天地の正気なり』と。
 余其説を廣めて
曰く
『正気は道義の積む處、忠義の發する處、彼の所謂、正気は、秦、漢、唐、宋、戀易一な
らず。
我の所謂、正気は、萬世に亘りて變ぜるものなり。
天地を極めて易らざるものなり。囚
って正気の歌を誦し、之に和して、以て自ら歌ふ』と明確なる説明をして居る。

 

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