ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (7)

2022-03-16 | 茨城県南 歴史と風俗

 馬籠宿の人々は水戸天狗党や幕府などの動きをどうとらえていたのか、
「夜明け前」第1部に描かれた水戸天狗党についての記述を抜粋する。
 

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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (6) の続き 


 
 第11章 2 


 「あなた、佐吉が飯田までお供をすると言っていますよ。」  
 お民はそれを言って、
あがりはなのところに腰を曲(こご)めながら新しい草鞋(わらじ)をつけている半蔵のそばへ来た。

 景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。 


 「飯田行きの馬は通っているんだろう。」と半蔵は草鞋の紐を結びながら言う。 
 「けさはもう荷をつけて通りましたよ。」  
 「馬さえ通っていれば大丈夫さ。」 
 「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです。」 

  そういうお民から半蔵は笠(かさ)を受け取った。
 下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、
その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅を背中に背負(しょ)った。
一同したくができた。そこで出かけた。 

 降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。
雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、
猿羽織を着た村の小娘たちまでが集まって、
一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。

 愛らしい軽袗(かるさん)ばきの姿に、鳶口(とびぐち)を携え、
坂になった往来の道を利用して、
朝早くから氷滑りに余念もない男の子の中には、
半蔵が家の宗太もいる。 


  一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山連峰の谿谷を右手に望みながら、
やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。

 木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は
一石栃(いちこくとち)(略称、一石)にある。
いわゆる白木の番所だ。
番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。 


 その辺は馬籠峠の裏山つづきで、
やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山の付近へと続いて行っている。
  
この地勢のやや窮まったところに、
雪崩をも押し流す谿流の勢いを見せて、
凍った花崗石の間を落ちて来ているのが蘭川(あららぎがわ)だ。

 木曾川の支流の一つだ。
そこに妻籠手前の橋場があり、伊那への通路がある。  


 蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。
ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、
伊那諏訪へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。

 そこにはまた、
幾世紀の長さにわたるかと思われるような
沈黙と寂寥との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。

 蘭(あららぎ)はこの谷に添い、山に倚(よ)っている村だ。


 全村が生活の主な資本(もとで)を山林に仰いで、
木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。
そこで造らるる檜木笠(ひのきがさ)の匂いと、
石垣の間を伝って来る温暖な冬の清水と、
雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。

 しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。  


 そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路(せいないじ)も近い。
清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間の関門である。

 千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、
飯田藩で間道通過を黙許したものなら、
清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、
番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。

 飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、
半蔵らにとってまだ実に生々しかった。


 蘭(あららぎ)から道は2つに分かれる。
右は清内路に続き、左は広瀬、大平に続いている。

 半蔵らはその左の方の道を取った。
時には樅(もみ)、檜木、杉などの暗い木立ちの間に出、
時には栗、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。

 そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを
後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。

 枝と枝を交えた常磐木がささえる雪は恐ろしい音を立てて、
半蔵らが踏んで行く路傍に崩れ落ちた。

 黒い木、白い雪の傾斜・・・・・・・一同の目にあるものは、
ところまだらにあらわれている冬の山々の肌だった。 


 昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。

 旅するものはもとより、
荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。
 まず笠を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。

 香蔵も半蔵も草鞋ばきのままそのそばにふん込んで、
雪にぬれた足袋の先をあたためようとした。 


 「どれ、芋焼餅でも出さずか。」と供の佐吉は言って、
馬籠から背負(しょ)って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。   


 「山で食えば、焼きざましの炙(あぶ)ったのもうまからず。」とも言い添えた。  


 炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。
いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。
しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、
そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。  

それを割ると蕎麦粉の香と共に、
ホクホクするような白い里芋の子があらわれる。
大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。
   
佐吉はそれを茶屋の婆さんに頼んで、
熱い焼餅におろしだまりを添え、
主人や客にも勧めれば自分でも頬ばった。 


 その時、藁(わら)頭巾をかぶって鉄砲をかついだ1人の猟師が土間のところに来て立った。  

 「これさ、休んでおいでや。」と声をかけるのは、
勝手口の流しもとに皿小鉢を洗う音をさせている婆さんだ。
半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。 

 「お前はこの辺の者かい。」  
 「おれかなし。おれは清内路だ。」 
 肩にした鉄砲と一緒に一羽の獲物の山鳥をそこへおろしての猟師の答えだ。  

 清内路と聞くと、
半蔵は炉ばたから離れて、
その男の方へ立って行った。

 見ると、耳のとがった、尻尾の上に巻き揚がった猟犬をも連れている。
こいつはその鋭い鼻ですぐに炉ばたの方の焼餅の匂いをかぎつけるやつだ。  


 「妙なことを尋ねるようだが、お前はお関所の話をよく知らんかい。」と半蔵が言った。  


 「おれが何を知らすか。」と猟師は藁頭巾を脱ぎながら答える。 

 「お前だって、あのお関所番のことは聞いたろうに。」  

 「うん、あの話か。
  おれもそうくわしいことは知らんぞなし。
  なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、
  2、30人の足軽の組が出て、お関所に詰めていたげな。
  そんな小勢でどうしようもあらすか。

  通るものは通れというふうで、
  あのお侍様も黙って見てござらっせいたそうな。」と言って、

  猟師は気をかえて、
 「おれは毎日鉄砲打ちで、山ばかり歩いていて、
  お関所番の亡くなったこともあとから聞いた。
  そりゃ、お前さま、この茶屋の婆さんの方がよっぽどくわしい。
  おれはこんな犬を相手だが、ここの婆さんはお客さまを相手だで。」  


  日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。
  水戸浪士が間道通過のあとをうけて
  この地方に田沼侯の追討軍を迎えることになった飯田では、
  またまた一時大騒ぎを繰り返したというところへ着いた。  


  飯田藩の家老が切腹の事情は、
  中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。

  しかし、半蔵らは木曾地方に縁故の深いこの町の旅籠屋(はたごや)に身を置いて見て、
ほぼその悲劇を想像することはできた。
 人が激しい運命に直面した時は身をもってそれに当たらねばならない。

 何ゆえにこの家老は一藩の重きに任ずる身で、
それほどせっぱ詰まった運命に直面しなければならなかったか。

 半蔵らに言わせると、
当時は幕府閣僚の権威が強くなって、
何事につけても権威をもって高2万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするからである。
その強い権威の目から見たら、
飯田藩が弓矢沢の防備を撤退したはもってのほかだと言われよう。

 間道の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。

 飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出(きょしゅつ)を約したことなぞは
なおもってのほかだと言われよう。
 しかし、砥沢口(とざわぐち)合戦の日にも和田峠に近づかず、
諏訪松本両勢の苦戦をも救おうとせず、
必ず20里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、
そういう幕府の追討総督だ。 


 ともあれ、
この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。
もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。

 御会所の軍議は籠城のことに一決され、
もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷ともなるべく予想されたから、
飯田の町としては未曾有の混乱状態を現出した際に、
それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。

 稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、
高崎はじめ諏訪高遠の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、
当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認(したた)めてあった。  


 豊三郎はそれをもって、
おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、
郡奉行はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。

 その足で豊三郎は飯田の町役人とも会見した。
もし北原兄弟の尽力で、兵火戦乱の災(わざわい)から免れることができるなら、
これに過ぎた町の幸福(しあわせ)はない、ついては町役人は合議の上で、
13か町の負担をもって、翌日浪士軍に中食を供し、
かつ三千両の軍資金を醵出(きょしゅつ)すべき旨の申し出があったというのもその時だ。

 もっとも、この金の調達はおくれ、
そのうち千両だけできたのを持って浪士軍を追いかけたものがあるが、
はたして無事にその金を武田藤田らの手に渡しうるかどうかは疑問とされていた。 


 「これを責めるとは、酷だ。」  

 その声は伊那地方にある同門の人たちを奮いたたせた。
上にあって飯田藩の責任を問う人よりも
さらによく武士らしい責任を知っていたというべき家老や関所番の死を憐むものが続々と出て来て、
手向けの花や線香がその新しい墓地に絶えないという時だ。
半蔵が景蔵や香蔵と一緒に伊那の谷を訪れたのは、この際である。  


 水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうとした
北原兄弟らの骨折りは、しかし決してむなしくはなかった。

 厳密な意味での平田篤胤没後の門人なるものは、
これまで伊那の谷に36人を数えたが、
その年の暮れには一息に23人の入門候補者を得たほど、この地方の信用と同情とを増した。  


 その時になって見ると、
片桐春一らの山吹社中を中心にする篤胤研究はにわかに活気を帯びて来る。

 従来国恩の万分の一にも報いようとの意気込みで北原稲雄らによって計画された
先師遺著『古史伝』31巻の上木頒布(じょうぼくはんぷ)は一層順調に諸門人が合同協力の実をあげる。

 小野の倉沢義髄(くらさわよしゆき)、清内路の原信好のように、
中世否定の第一歩を宗教改革に置く意味で、
神仏混淆の排斥と古神道の復活とを唱えるために、
相携えて京都へ向かおうとしているものもある。  


 この機運を迎えた、伊那地方にある同門の人たちは、
日ごろ彼らが抱いている夢をなんらかの形に実現しようとして、
国学者として大きな諸先達のためにある記念事業を計画していた。

半蔵らが飯田にはいった翌々日には、
3人ともその下相談にあずかるために、
町にある同門の有志の家に集まることになった。  


 ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。
篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、
その多くは庄屋、本陣、問屋、医者、もしくは百姓、町人であった。

 先師篤胤その人がすでに医者の出であり、
師の師なる本居宣長もまた医者であった。
半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。 


 
【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (8)
    


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