「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの随想:マスク着用で思ったこと

2020年09月11日 | 時事随想

 猛暑の夏でしたが、蝉の声も急速にまばらとなり、秋の風を感じる時もある今日この頃です。私はこの夏、手に携帯の扇風機を持ちながらも、顔にマスクをしている人を見ると、感動ともいえる感情が湧きました。

 たぶん多くの人が、マスクを付けただけでは、自分のウイルス感染予防には十分ではないことを知っています。それでもマスクを付けるのは、周囲の人に対する思いやりが大きいと思います。仮に自分が感染していても、絶対に周囲の人に感染させないという意志を感じます。ですから、マスクをしていない人を見ると、公衆衛生の意識が低い人という印象を受けます。そんな人が隣の席に座り、咳払いなどされると恐怖さえ感じます。

 最近、飛行機の中でマスク着用の注意を無視した人が、飛行場に臨時着陸して飛行機から降ろされたというニュースがありました。航空会社が決めたルールを守れなければ、当然の結果だろうと思います。以前ホリエモンが、飛行機の中でのマスク着用について搭乗員から注意を受けたことを憤慨し、SNSで不満を発信していました。ルールを守れなければ飛行機に乗るなよと私は思いました。また、同乗した他の乗客の損害を各自が申し立てることは難しいことですので、飛行機を下ろされた人物には、航空会社が損害賠償請求をすることが必要でしょう。

 新型コロナウイルスの第二波はようやく封じ込めつつある印象を受けます。多くの人のしっかりとした認識が、それを可能としたと思います。ある大臣が、そうした状況を外国の方に「民度が違う」と誇ったそうですが、国内でそうした状況を評価するのは良いのですが、相手を見下す言い方は良くありません。ホリエモンを代表とする公衆衛生を無視する考え方に振り回されずに、努力した結果は誇って良いと思います。

 先ほどのマスク着用無視の乗客は、マスク着用が科学的ではないと理由をこねたそうですが、ホリエモンを含め極端な考え方をする人たちは、専門家の提言や科学的な分析結果を無視する傾向があります。ところで、地下鉄駅から教室までの私が毎日通る道の途中に、多くの人が信号を無視する横断歩道があります。車の往来を目視できる場所であることが理由です。けれども、マスクを着用する習慣が一般的となった現在、不思議と赤信号無視がほとんどなくなっています。マスクの着用が、各自の自制心とモラルを高めているという副次的効果もあるようです。

 新型コロナウイルスに対する対策は、政治的判断に左右されます。アメリカのトランプ大統領は、本人は否定していますが、初期段階に私さえ違和感を覚えるほど新型コロナウイルスを軽視した発言を繰り返していました。その結果、世界で断トツの感染者と死亡者を出してしまいました。経済優先で、国民の健康を軽視した政治的な判断ミスでしょう。このことは、ブラジルでも言えるこどです。

 わが国の政治判断は、強制的な施策ではないのですが、国民がそれを根気強く守った結果、極めて稀な良好な状況を作り出しました。夏の暑い時期、熱中症に注意して、場所によってはマスクをはずす判断をするように訴えましたが、それほどまでに生真面目にマスクを付ける国民性を、私は高く評価しています。決してそれは、ホリエモンにバカだ・頭が悪い・くそ野郎とネットで罵詈雑言を浴びせられる人たちではありません。こうした人たちを悪く罵る人たちは、問題になった自粛警察の人たちと、意見が違えども精神的に同じ傾向の人たちと考えられます。

 日本人の公衆衛生に対する高い意識と実行力は、どこから来ているのでしょう。日本人の村社会意識でしょうか。災害の多い環境で培われた連帯感なのでしょうか。私たちの多くは、新型コロナウイルスが一時的な出来事ではなく、将来的にも同様の感染症が襲ってくる恐ろしさを感じつつ、その予行演習を行っている意識もあると思われます。諸外国程、今回の感染症の被害が大きくなかったとはいえ、社会的に大きな影響を与えた出来事でした。

 「ウィズコロナ」という言葉ができましたが、撲滅困難であることを前提とした新たな戦略や生活様式のことを意味します。また、新たな未知のウイルスとの遭遇も視野に入れた言葉だと思われます。今回の新型コロナウイルスの治療薬もワクチンも完成していませんし、新型ウイルスの的確な性質もまだまだ未知と言って良いでしょう。私たちは、こうした状況に賢く対応していきたいものです。

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マッキーの随想:アンという名の少女

2020年09月01日 | 時事随想

 『アンという名の少女』は、L・M・モンゴメリーの1908年の小説『赤毛のアン』に基づくテレビドラマシリーズです。カナダCBCとNetflixにより共同製作され、3シーズン27エピソードの作品です。文学史に登場する『赤毛のアン』・モンゴメリーとだけ知るだけで、私は実際にこの小説を読んだことがありません。新型コロナウイルスで、外出せずに自宅にいることが多くなり、Netflixで様々な動画を鑑賞しました。今回語る『アンという名の少女』もそんな作品の中の一つです。



 人生のスタートを孤児院で送ったアンが、手違いで老境を迎えつつあるマシューとマリラの兄妹の元に送られてくるところから物語はスタートします。想像力と語彙力にあふれたアンが、いろんな悩みを抱えながらも、周囲との軋轢を乗り越えて、まっすぐに立ち向かい成長していく姿が描かれています。アイデンティティ、偏見、いじめ、人種差別、先住民迫害、女性の自立など現代的なテーマが物語に散りばめられ、とても奥の深い物語となっています。おしゃべり好きで想像力豊かなアンは、いつも自分の心にまっすぐで、どんなにつらいことがあってもくじけません。そんなアンと出会い、周りの人たちも少しずつ変わっていきます。

 幸薄い人生のスタートを切った一人の少女が、厳しい環境を人一倍強い行動力で乗り越えて独り立ちしていくストーリーは、心を揺り動かします。そうした行動の源泉は、アンの類まれな想像力であり、文学的な知識や語彙力が豊富であることであると思われます。

 「思い出より想像する方が好き」と最初にアンは言います。アンの想像力は、辛い過去を消し去るための処世術なのでしょうか。『ジェーン・エア』や著名人の名言、そして大人が仰天する言葉がアンの口から出てきます。その例を幾つか挙げておきます。

 「もし今夜いらしてくださなかったら、線路をおりて行って、あのまがり角のところの、あの大きな桜にのぼって、一晩暮らそうかと思ってたんです。あたし、ちっともこわくないし、月の光をあびて一面に白く咲いた桜の花の中で眠るなんて、すてきでしょうからね。」

 「これから発見することがたくさんあるって、すてきだと思わない?あたししみじみ生きているのがうれしいわ―世界って、とてもおもしろいところですもの。もし何もかも知っていることばかりだったら、半分もおもしろくないわ。そうでしょう?そうしたら、ちっとも想像の余地がないんですものねえ。」

 「この部屋にはあんまりいろいろの物があって、しかもみんな、あんまりすばらしいもんで、想像の余地がないのね。貧乏な者のしあわせの一つは―たくさん想像できるものがあるというところだわね。

 2020年9月6日から、毎週日曜 午後11時00分より、NHKが『アンという名の少女』を放映予定です。時間帯からすると、子どもも含めた家族で観ることができません。もっと時間帯を早めてもらいたかったですが、無論大人でも楽しむことのできる物語です。やせっぽちでそばかすだらけの赤毛の少女アンが、豊かな文学的知識と創造力を使って、真直ぐに生きていく姿に感動することでしょう。

 物語中でのアンの考え方は、フェミニズムそしてウーマンリブと発展していくジェンダー論の先駆けといった印象を受けます。また、Eの付くアン、すなわちanneは、愛称がannieでアニーとなり、
小さな孤児アニーを主人公として製作されたブロードウェイミュージカル「アニー」を連想させます。「アニー」の舞台は1933年、世界大恐慌直後の真冬のニューヨーク。街は仕事も住む場所もない人で溢れ、誰もが希望を失っていました。そんな中、どんな時も夢と希望を忘れないひとりの少女がいました。ニューヨーク市立孤児院に住む11歳の赤毛の女の子、アニーです。日本でも有名なミュージカルの「アニー」は、明らかにモンゴメリーの小説『赤毛のアン』に発想を得た作品と思われます。

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