仕事を効率にこなすには、優先順位を決めろと言われます。優先順位の低いものに時間を割いていては、今やらねばならないことができなくなってしまうからであります。人生の優先順位を考えたとき、年代によって、その優先順位は当然違うのであります。子育てが優先な時もあれば、仕事が優先の時もある。遊びが優先の時もあれば、勉強が優先の時もある、人それぞれ違うのであります。もし臨終を迎える時、優先順位は何かと言えば、私は死んだらどうなるのか?それが1番の優先順位ではないでしょうか。臨終に迎えた時では遅いと思われるかもしれませんが、遅くは無いのであります。いつでも、救いが間に合っているのが浄土真宗であります。いつでも、阿弥陀如来の救いが先に働いてくれているからであります。臨終の時、一声の南無阿弥陀仏の念仏を称える時、この南無阿弥陀仏は、仏様が、お前を必ずお浄土に救うと、呼んでくださる声であったと聞かせていただいた時、そこに、救いは間に合うのであります。しかし、若い方だけでなく、もうかなりの年配の方であっても、私は、まだまだ大丈夫だ。死ぬ事はないと、死んだらどうなるのかと後生の一大事を、先送りにするのであります。それよりも、もっと人生を楽しまなくては、病院に行かなくては、健康に気をつけなくては、それも大事でありますが、それよりも真っ先に聞いておかなければならないのは、南無阿弥陀仏とは何かということであります。南無阿弥陀仏は、阿弥陀の呼び声、阿弥陀如来が必ず救うから、我に任せよと呼んでくださるのであります。それを聞いたら、もう助かるのです。まずはそれを聞いて、人生を楽しんでも、早すぎる事はない。それが1番安心して生きる道であり、人生を精一杯生きる道であります。お寺参りは、年寄りがやるものだと言っているけれども、明日生きてるかわからないのは、老いも若きも同じであります。
昨年は、お彼岸に桜が満開になったのですが、今年はまだ蕾です。毎年お彼岸の時期に綺麗な花を咲かせる君子蘭も、今年は、どうも色が良くありません。少し早く外に出してしまったからでしょうか、このところの寒さで色あせてしまったのかもしれません。今日は日曜日でしたから、まだお彼岸が続いているような感じがいたしました。
今日は1日、お彼岸の事務仕事を片付けておりました。そろそろ暖かくなりそうなので、今日で、本堂のファンヒーターはお役目を終えました。今年は、入学式にちょうど桜が満開になるかもしれませんね。人生の卒業式は、仏様の世界への入学式であります。仏様としての誕生日なのでもあります。
皆さまは、今、何か探し物はありますか?探し物というのは、諦めた頃に見つかるものであります。夢中で探しても、なかなか見つからないのでありますが、どういうわけだか、忘れた頃に、思いもしなったところから見つかったり致します。
今は、末法の時代です。救いはあっても、修行をして悟るものがいない時代です。末法の時代は、他力でしか救われないのであります。他力とは、100%阿弥陀如来の本願力のはたらきによって救われる教えであります。浄土真宗の教え以外に、私が仏になる道はないのです。皆様は、人生に、忘れ物はないですか?この世に生まれて、いつか命が終わる、その先は、真っ暗闇ではありませんか、どうなるのか心配ではありませんか、死んだら終わりでは無いのです。これからも、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしていくのであります。しかし、私たち現世を最後に仏となるのであります。命を終わった先を、一生懸命蓋をして、一生懸命ごまかして、一生懸命考えないようにしても無駄なのであります。お札やお守りは、助けてくれません。私のような、修行のできないものであっても、仏になる道があるのです。それを知らないのは、本当にもったいないことであります。阿弥陀如来の一生懸命なご修行によって、完成した救いは、南無阿弥陀仏のいわれを聞く救いであります。私の修行を必要としないのであります。こんな救いは、他には無いのです。私たちは、どこか、心の中に本当に救われる道を、探し続けているのではないでしょうか。しかし、何が真実なのか分かりませんから、探し物を、諦めてしまうのです。でも、不思議なことに、阿弥陀如来の方から、至り届いてくださるのであります。私も、浄土真宗のお寺に生まれさせていただいた、この不思議を、ありがたく思っております。住職の勤めは、阿弥陀如来の救いを、皆様にお伝えする以外には何もありません。それ以外に住職は一生懸命やることなど何もないのです。
今日で、無事、春のお彼岸が終りました。お彼岸の期間中、たくさんの方がお参りいただき、誠にありがたく存じます。お彼岸には、真ん中にお中日というのがございます。秋分の日、春分の日であります。この日、太陽は真東より上り真西に沈む。その西の彼方に、極楽浄土があると信じ、日本人は、お浄土に想いをよせてまいりました。もし、皆さんが、いつか、臨終を迎える時、何を願うでしょうか。もっとお金が欲しいと願うでしょうか。もっと生きていたい、何故、私は死ななければならないんだと嘆き悲しむのだと思います。極楽浄土に、生まれたいとは思えないのであります。最後の最後まで、この娑婆の世界は離れがたいのです。浄土真宗の救いは、念仏を称えて、救われる教えではございません。南無阿弥陀仏の本当の意味を聞いて、救われるのであります。南無阿弥陀仏とは、「我に任せよ、必ず救う」と阿弥陀如来が声の仏となって、私を呼んでくださる呼び声であります。その呼び声を、聞かせてもらって、「お助けください」とお願いする必要はないのです。私たちは、煩悩がありますから、それに煩わされ悩まされます。しかし、煩悩がなくなった時、楽しみもまたなくなるのです。お金が欲しい、車が欲しい、ゲームが買いたい、彼女が欲しい、結婚したい、美味しいものが食べたい。それは、全て、煩悩です。もし、その煩悩がなくなったら、生きる楽しみもなくなるのです。お金もいらない、美味しいものも食べたくない、そうなったら、生きていても、楽しくないのであります。浄土真宗は、欲を持ったまま、煩悩のままで救われるのであります。阿弥陀如来は、欲をなくせとは言われないのです。もっと、生きていたい、死にたくない、最後の最後まで、その煩悩は消えなくて良いのであります。
今日のお彼岸法要お参りいただいた方々、ありがとうございました。法要が終わり、正直ほっとしております。ところで、皆さん、「ご先祖を大切にしましょう」これはどこかの仏壇屋さんのキャッチコピーか何かにありそうですが、お彼岸とは、ご先祖様を大切にするよりも、自分を大切にする。それがお彼岸だと私は思います。お彼岸とは、仏様の世界のことです。私は一体この世に何のために生まれ、何のために生き、命終わったら、どこへ行くのかと、それを他人事とせず、我が事として、明らかにするのがお彼岸なのだと思うのであります。お彼岸が1週間あるのは、そのためだと先生から教わりました。日頃は死をごまかし、蓋をしてなるべく考えないようにしていても、このお彼岸だけは、ちゃんとその大問題に向き合うのであります。この世に生まれたわけは、阿弥陀如来に出会うためであり、仏と成るのが最も大切な人間に生まれた目的であります。死んだら終わりだと、死んだ事もないのに言っている方がいらっしゃいますが、もし、そうでなかったらどうするのでしょうか?もうその時は、手遅れであります。お釈迦様は、私たちに阿弥陀如来の救いを説いて下さいました。それは、私を阿弥陀様の救いに出逢わせて下さるためであります。そして、そのご縁を作ってくださったのは、大切な亡き方であります。既に、亡き方は、阿弥陀如来の救いの中にあります。大事なのは、私が阿弥陀如来の救いの中に生かされていることを聞かせていただくのであります。墓参りさえすればいいと言うのは、浄土真宗の教えでは無いのであります。そんなこと書きながら、私は、新型墓地ができたので、皆さんいかがですかと勧めてるんですから、言ってることとやってることが、なんだか矛盾してますね。
新しい提灯です。鎌倉の長谷寺さんの大提灯のデザインを真似させていただきました。