今日は母の命日でした。兄弟で本堂でお勤めをした後、法徳寺歴代住職 寺族の墓へお参りをさせていただきました。
亡き方はかわいそうで、生きているものは幸せ。迷っているのは亡き方だから、生きている者が、みんなでお金を出し合って、僧侶にお布施をして読経してもらって、その功徳で亡き方を、幸せにさせたい。これが、法事だと言われましたら、とてもわかりやすいのです。しかし、浄土真宗は、全く逆の話なのでありま
す。迷っているのは、私たち、救われなければならないのは、私たちなのですと言われても、世間の常識からしたら、理解ができないのです。生きているものが、迷っていると自覚してないからであります。浄土真宗の方でも、法事を勤めるのは、僧侶の読経によって、亡き方に功徳を回向して、亡き方が、成仏していただくため。そう思ってらっしゃる。亡き方は、迷ってはおりません。ですから、もし、上記のような教えであれば、お布施を多く包んでいただければ、いただくほど、亡き方は成仏できます。と言えるのであります。お寺も儲かります。しかし、それを言い出したら、浄土真宗の看板を下ろさなければなりません。亡き方の法事をご縁にして、自分は一体何のために生きているのか?、死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?、これからの残された人生はどう生きるべきなのか?、どう生きれば亡き方が喜んでくれるのか?それを、考えさせていただくのがご法事でございます。今日は、8月29日、私の母の11回目のご命日でした。兄弟で集まって、みんなでご命日法要を、お勤めをさせていただきました。