マゾヒズムに花札を!

Female Domination & BDSM …とは殆ど関係ない花札に関する四方山話です。

衣にほはせ 旅のしるしに

2006年05月18日 17時42分44秒 | 菖蒲 - 5月
yatuhasi突然ですが、情感テストです。
皆さんは、お花といえば、どんな色を思い浮かべます?

そうですよねえ。
大体は、ピンクとか赤とか、そんな感じですよねえ。
事実花札の花も大よそは、淡赤系統です。

ところが、5月の菖蒲はといえば見てのとおりの見事な紫、非常に色素の強い花でして。
花弁も大きいし、やたらに触ったら色に染まってしまうかも、
って、よく知りません。それこそ、僕の情感ですので読み飛ばしてください。

遥か遥か昔のこの旅人も、今の僕と同じ情感だったのでしょうか?
万葉集巻一.五七、10点札の八橋と同じ三河を旅したおりの長忌寸奥麿の歌です。

    引馬野に にほふ榛原 入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに

えーっと、
「引馬野」、「阿礼の崎」の地名については、賀茂真淵が「万葉考」で「十六夜日記」に浜松の北方を曳馬野というとあるのを根拠に遠江説を立ててから、以後、多くの万葉研究者はその説に従っていたが、仙覚、荷田春満は三河説を立てていられる。
ということで、万葉と十六夜日記が結びついたわけです。

因みに岩波書店・萬葉集は三河説をとってます。
「榛原」とはハンの木の原っぱ、「衣にほはせ」とは、衣に榛の美しい色をうつせ、という意味です。
引馬野に色づいている榛の木の原っぱに入って、榛を乱して衣に美しい色をうつしなさい、旅の記念に、
というのが全訳になりましょうか。

と、この言い回し、



万葉集、十六夜の二語検索をかけて

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!



二ブチ可愛やゴケ勝負

2006年05月17日 18時32分48秒 | 菖蒲 - 5月
松井小丸5今日はまた、おいちょかぶから5月の話をしましょう。
カブの世界では、独特の数の数え方をすると各月で話してます。
5月は「ゴズ」とよぶということで、すでに話題にしました。

ところが別の数え方もあるのではないか、ということでタイトルにした金言。
意味はといえば、子の札の3枚目に2月札がきたときは、親は5月(平均スコアである5)でも勝てるということで、まあ、経験率的確率からくる親の自信を示す言葉です。
どうです? 5をゴケと呼んでますでしょう。

「可愛や」に後家さんをかけた、ちょっとした猥句で、江戸時代の博徒たちはヘラヘラやってたんじでしょう。
典型的なセクハラ! 今ならば大問題になりますか。
しかし、しかし、人の口には戸は立てられないということでして、同じく江戸期に完成した俳諧の世界でも「後家いじめ」の例があります。

  朝顔や 釣瓶とられて もらひ水

この句を知らない人はないと思います。
そうですよねえ。加賀千代女。
最も有名な女流の代表作ですね。
もともと「朝顔に」だったのを「朝顔や」に改作したようです。
僕なんかは、「に」のほうしかしりませんでしたけど。

まあ、この人も、あまりにも有名になったために、当時から「朝顔~」をもじった川柳やら、寡婦であることをからかった句やらが出現したようですよ。

  翌年は 千代井戸端を よけて植え

  朝顔の 名句貰った 水で書き

  蚊帳の中 千代は小首を 傾ける

  後家の名は 蚊帳より広い 発句也

  ただ広い 蚊帳に風雅な 後家一人

  お千代さん 蚊帳が広くば とまらうか

女コテ叩きは江戸期から、

と、この言い回し、



蜀山人ばかりでもなんですからここらで女流を
そうそう、千代女も

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!

真間の井 見れば

2006年05月16日 23時10分19秒 | 菖蒲 - 5月
手書き菖蒲5月菖蒲の種札は菖蒲に八橋、花札48枚中唯一地名が入った札であるということは前に話題にしました。
地名が入っている、これを考えてみれば旅人視点、都人が異郷を旅したときに感じた旅情の絵柄と言い換えることができます。

48枚中唯一の旅情風景…
となれば、伊勢物語の平安よりも更に上代へと思いは広がります。
今日は、万葉時代の歌枕、水の名勝をおとがって見ましょう。

 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿(かつしか)の 真間の手児名(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿(あをくび)着け ひたさ麻(を)を 裳(も)には織り着て 髪だにも 掻(か)きは梳(けづ)らず 沓(くつ)をだに はかず行けども 錦綾(にしきあや)の 中に包める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや 望月(もちづき)の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑み立てれば 夏虫の火に入るがごと 港(みなと)入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城(おくつき)に 妹が臥(こ)やせる 遠き代(よ)に ありけることを 昨日(きのふ)しも 見けむがごとも 思ほゆるかも (巻九、一八〇七)

反歌

 勝鹿(かつしか)の真間の井(ゐ)見れば立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児名(てごな)し思ほゆ (巻九、一八〇八)

あまりにも有名な高橋虫麻呂の歌ですね。
僕もいつか記事にしようと考え、実際に散策したり下調べしたりしてたんですけど。
いざ記事にしようとしたら、もう記事としてwebに存在してましたよ。
せっかくですから、いただいちゃいましょうか。



 ■真間の手古奈のはなし 
 このあたりではわりとメジャーな伝説。
 万葉歌人も歌に詠んだほどなので相当昔のこと(記紀神話時代か?)、真間と呼ばれる(今でも呼ばれる)場所に美しい少女が住んでいた。
 名前を手古奈と言い、貧しい暮らしをしながらもその美しさが損なわれることはなかったという。
 彼女が毎日水汲みに来た井戸は「手古奈の井戸」として今でも残っている。
 さて年頃になった手古奈は、当然年頃の男たちからの求愛を受けることになるのだが、まあもちろん取るか取られるかのデスマッチで、手古奈はその男たちのいさかいを大変心苦しく思い、「私がいるから、あのようなことになるのだわ」と思いつめて真間の入り江で入水自殺をしてしまったそうな。

 かぐや姫と違って入手困難(ていうか不可能)な物品を要求しないあたりが育ちの慎ましさとも言えるが、「私の美しさって罪」みたいなナルシストっぽさというか、「私のために争わないで」的な発想で自殺するあたりが、まあ奇妙っちゃ奇妙な話である。
 ちなみに兄上の意向で日本全国ほぼ平定を命ぜられていたヤマトタケルノミコト(日本武尊)も惚れていたという噂。

 同県内にミコトとミコトの妃であるオトタチバナヒメ(弟橘比売)が東へ向かうため相模湾あたりから船で同行していた時に、海の神が行く手を阻んだので、ヒメが「わたくしがミコトのかわりに海へ入りましょう」と菅の畳皮の畳衣の畳それぞれ8枚ずつ敷いて(もうこれで沈みそうな気がするが)海へ入って、海の神の怒りを鎮めたのでミコトは無事県内に着くことが出来、ヒメの着物の袖が流れ着いた場所を「袖ヶ浦」、布を敷いて身を投じたので「布流津(ふるつ)」→「富津(ふっつ)」になったとも言われており、ミコトは妃を失った悲しみから、その場所からしばらく立ち去ろうとしなかったため、「君去らず」→「木更津」という地名の由来になっている。
 これは県内東京湾沿岸の話ですが、そこから東へ行くと真間なのです。妃を失ったばっかりでもう新しい娘に気を取られるとは、なんとも…。
 しかし今ではすっかり「入り江」も埋め立てられて、海は遥か彼方となっております。
 
 ■別の「手古奈」伝説。
 手古奈が絶世の美女であったのは同じ設定。
 ただこちらの手古奈は母を早くに亡くし、継母に苛められて暮らしていたそうな。しかし健気な手古奈はそれにも耐え、唯一真水の出る井戸に手古奈は毎日水汲みに行っていた。
 ただやはり美女である手古奈を口説きに男が家の周りをうろつき、継母は手古奈が手引きした泥棒と思って手古奈を折檻して追い回し、手古奈は逃げに逃げて真間の入り江に飛び込んだ…というもの。
 …「継子いじめ」という言葉は『真間』から来ているのではないかという言葉の由来。
 
 ちなみにその後、どちらの場合も行基という徳の高いお坊さん(この人は全国各地どこでも出現する人だ)がやってきて、手古奈の霊を慰めるべくお寺を「求法寺」と名づけて建立し、その後また弘法大師(こちらも全国各地神出鬼没ですが)がそのお寺を訪ねてきてしばらく滞在したので「弘法寺」となり、今なお「弘法寺」としてお寺が残っています。
その後日蓮上人も来ておりまして、お寺は日蓮宗となっております。

 真間山弘法寺ホームページ
 …なんつーか、寺っぽくない明るい感じのサイトです。
 なんとなく若い坊さんが作らされた感のある……。色々あっていちおう日蓮宗。
 境内には涙石という、常に濡れている石がある。
 これは日光東照宮の造営に使うべき石をこのお寺の石段に使ってしまって、幕府に責任を問われてその石段の石の上で割腹した鈴木修理長頼の血と涙で濡れているのだとか。
 …ていうか使うなよこんな石段に東照宮の石を!(と、私なんぞは思うのですが)しかもその石の上で割腹するか?(と思うのですが。)
 この石の写真がホームページで見れます。…確かに少し湿ってそう。

■万葉集と手古奈
「万葉集」は日本最古の歌集で、皇族から下々の者が詠んだ歌まで、あらゆる分野の、そして全国からの歌が集められているものとして、名前を知らない人はいないだろう。編纂が終わったのは759年のことであるが、「真間の手古奈」もこの歌集の中に収められている。これがなかったら現在まで「真間の手古奈」の伝説は残らなかっただろうとも言われています。万葉集バンザイ。
有名なのは山部赤人(やまべのあかひと)の歌で、彼は都の下級官吏であったが、生まれは現在の千葉県山武郡あたりらしい。
彼の有名な歌は「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ 不尽(富士)の高嶺に雪は降りける」だが、これも現在の駿河湾に面した静岡県の「田子の浦」ではなく、房総半島の鋸南町田子台から見た景色を歌ったもの、とも言われています。真相はわかりません。
さて手古奈の山部赤人の歌。
この頃の、というか本来歌は「問」に対する「返歌」として歌われるものなので、まず「問掛け」のほうから記述してみる。なお、「万葉集」はすべて漢文で書かれているため、読みやすいように上記のように古文形式に変換しておく。意味も間違ってたらごめんなさい~(-_-;)←一応大学では日本語が専攻だった人のセリフとは思えん…。

古(いにしえ)にありけむ人の倭文幡(しずはた)の帯解き交へて臥屋(ふせや)建て 妻問ひしけむ勝鹿(かつしか)の真間の手児名が奥つ城を こことは聞けど真木の葉や茂りたるらむ松が根や 遠く久しき言のみも名のみも我は忘らえなくに
 意味:「昔、男が織物を揃えて結婚の準備をし、小さい新居を建てて求婚をしたという、葛飾の真間の手児奈の墓はここだと聞くが、真木の葉が茂っているせいだろうか、松の根が長く伸びているように時が経ったからであろうか、その墓は見えないが、手児奈の話だけでも、名前だけでも、私はいつまでも忘れられないだろう」
<注釈>倭文幡というのは日本古来の織物のことで、中国から入ってきた唐織に対する言葉として使われるとのこと。また「帯解き交へて」は「共寝をする」、要するに夫婦になるという意味。

(これに対する返歌二首)
葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ
 意味:「葛飾の真間の入り江を見れば、そこにうちなびく玉藻を刈る手児奈を思い出されるることよ」
我も見つ人にも告げむ勝鹿(かつしか)の真間の手児名が奥つ城ところ
 意味:「私も見た、人にも教えよう、葛飾の真間の手児奈の墓の場所を」

もうひとり、常陸守となった藤原宇合(ふじわらのうまかい)の配下として都から関東へやってきた、高橋虫麻呂という人も、使者として房総各地を見回りながら、このあたりに来た時に手古奈の話を聞き、歌を作ったものが残ってます。
この人は「高橋虫麻呂歌集」という自分の歌集も作っちゃうような人でした。

鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に古(いにしえ)に ありけることと今までに絶えず言ひける 勝鹿(かつしか)の真間の手児名が麻衣(あさぎぬ)に青衿(あをくび)着け 直(ひた)さ麻(を)を裳には織り着て 髪だにも掻きは梳(いえづ)らず 履(くつ)をだにはかず行けども 錦綾(きぬぎぬ)の中に包める斎(いは)ひ子も 妹(いも)にしかめや望月の足れる面(おも)わに 花のごと笑みて立てれば夏虫の火に入るがごと水門(みなと)入りに 船榜(こ)ぐごとく行きかぐれ人の言ふ時いくばくも生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(おと)の騒く湊の奥城(おくつき)に妹が臥(こ)やせる遠き代にありけることを 昨日しも見けむがごとも 思ほゆるかも
 意味:「朝日の昇る東の国に、昔からあったことだよと今まで絶えず言い伝えられてきた葛飾の真間の手児奈は、粗末な麻の衣服をつけ、履物さえ履かずにいるのだが、錦や綾に包まれて大切に育てられた都のどんな女たちよりも、満月のような麗しい顔立ちに花のような笑みを浮かべる手児奈の美しさにはかなわない。虫が火にはいるごとく、船が港に入るごとく、男がこぞって求婚するのを、人の盛りは長く続くものではない、と思っていた手児奈は波音高い入り江に入って死んでしまい、その墓はこの港のそばにあると昔の時代のことにあったというが、まるで昨日見てきたことのように思えることよ」

(これに対する返歌)
勝鹿(かつしか)の真間の井を見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
 意味:「葛飾の真間の井戸を見れば、ここで水を汲んだという手児奈を思い出すものだ」

…高橋虫麻呂は叙情的な古代からの言い伝えを詠むのが得意な歌人だったそうで、かなり手児奈に対する熱い思い入れの伝わってくる歌となっております。

■更に別の手古奈伝説
…千年以上前の万葉時代に、既に「いにしえのことだよ」と言われたくらい昔々のお話なので、説がいっぱいあってもおかしくないんですが。

・手児奈は国造(くにのみやつこ)の娘として育ち、その美貌を買われてある国造の息子の嫁に行ったが、親同士の不和から船に乗せられて海に流され(なんつー仕打ちだ)、漂着したところが偶然にも生まれ故郷の真間の入り江であった。
・手児奈は神に仕える巫女であった。安産子育ての利益を持っていた。
…など。
まあ「手児奈は美人だった」つーのはどこにいっても変わらないんですが(笑)

■「てこな」の表記について。
「手児奈」「手古奈」と両方表記がありますが、万葉集が「児」の文字を使っているせいか、市で発行している本もすべて「手児奈」の表記になっております。読みは「てごな」と読む人もいるようですが、古代のやまとことばに濁音は使われなかったはずなので、恐らくこの呼び名は後世に入ってからの読み慣わしと思われます。ちなみに「てじな」は間違いです(笑)
ウチでは読み間違い防止と、個人的な好みで「手古奈」の表記を採用しております。
漢字は中国からの輸入品ですので、まあどちらにせよ『当て字』であることに変わりはありません。

さて「てこな」ですが、実はこれは固有名詞ではないという説もあります。
「てこ」は女性を表す古語で(「いも(妹)」というのもありますが)、「な」は「可愛い」「美しい」という意味の古語であることから、「美しい女性」という意味で、ひとりの女性としての固有名詞、すなわち名前ではない…とも言われてます。
ホントのところはどうかわかりませんが、この真間のあたりに人が「すっげえ美人がいてさ…」と口伝えになるほどの美しい女性が住んでいたのは間違いなかったのでしょう。

■何で今まで忘れられずに残っているのか?
さて、遠い遠い昔。まだ私の家が海の中だったような時代の「手古奈」の話が、何故現代まで忘れられずに残っているのか?
まして市の主催で、『手児奈フェスティバル』を開催するほどのメジャーな伝説になったのか?
確かに『万葉集』の力は絶大でしょう。しかし、一介の女性の伝説がいろいろな説を取られつつも、今に生き残っているのはなんででしょう?
ここからは私の仮説ではありますが、まず真間山弘法寺の日与上人という方が、住民の悲惨な生活状況を見て、これは信仰によって救うしかないと考え、伝説の乙女である手古奈を信仰の対象とし、「手古奈霊堂」を建てたのが大きかったと思います。これがあることによって、「手古奈」の名前は人々の間で受け継がれていくわけですし、それにまつわる伝説も、いろいろな形となって口伝えになってきたのだと思われます。
その後、上田秋成の『雨月物語』の第三話「浅茅が宿」の中で、この頃(1452年~1455年)の真間の有様を語った一節があります。ここに手古奈の文字は出てきませんが、大変荒れていて、人の家も何もなくなっている…と書かれています。
こうした歴史の中で何度か思い出され、口の端にのぼって、現在まで手古奈の伝説は残ってきたのではないかと考えてます。
…個人的には「美人薄命」を地で行っているというか、「美女だったのに悲劇的な最期」というのが一番のポイントではなかったか…とも思ってますが。



僕が書こうとしていた原稿は、手古奈とは一般名詞、を先に出して、後から諸伝説を加えるという逆順表示でした。
一般名詞説を支持します。

当時の地理状況を説明すれば。
平安時代あたりまでにおいては、日本の東端は東海道の終点である相模・武蔵。
その奥に員数外の常陸があり、更にその奥に下総、上総、安房と続く、という位置づけでした。
海路もまた同じです。
因みに常陸の北には陸奥が広がる、古地図を見ればそれが裏付けられますよ。ねえ、房総半島が非常に大きく東南方向に曲がった形で描かれ、逆に(今日でいうとこの)東北地方はコンパクトにそして心なしか東曲がりに描かれる、あんなイメージが畿内人にはあったわけです。

ですから、彼ら当時の日本人にすれば、現在の千葉県市川市付近は外国だったわけですよ。
この際だからいってやりますけど、未開の地と表したほうがいいのかな?
「私のラバさん~南洋じゃ美人」
あの歌のクチと言ったら一番あたるでしょう。

そうそう。実際に人種も違ってたんですよね。
この時期でしたら現在の首都圏にも、アイヌが住まってましたものね。
それから、アイヌでもない原日本人でもない蝦夷という民族も。
どこかで記事にしたような記憶もなきにしもあらずです。

もうひとつ、話しちゃいましょう。
勝鹿というは、ご存知のとおり現在は葛飾と書きますよねえ。
そもそもは、一都二県に跨る広大な地域です。
その本家本元は、市川と船橋の市境辺りになります。駅名でありました。
ところが、どうしても葛飾といえば、23区の葛飾、柴又は帝釈天ののイメージになってしまうわけで、駅名変更を余儀なくされたんです。

京成西船駅の駅名表示板には、「旧称 葛飾」の副記が残っています。

と、この言い回し、



「平成の女蜀山人」コラム盗用か!?  9/20加筆


を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様その他見ず知らずのお一方! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!



下手こそよけれ

2006年05月15日 21時08分33秒 | 菖蒲 - 5月
山與菖蒲菖蒲の月、5月。
今日の話題は、あまり花札とは関係のないところからです。
と言っても、本ブログにおいてはしばしばあることなので、そこら辺は如才なく本文に移りましょう。

投稿日付では前後するものの過去数回話題にしている、セガの看板ゲーム『サクラ対戦』の話です。
花札をイリュージョンしたこのゲーム登場のヒロインたちは、全員花に関係する名前であることは既に話しました。
そんな中、花札のテーマ植物の名前がついているのは?
うーん、意外… 真空寺さくら だけですよねえ。
強いて言えば、藤枝あやめ が挙げられますけど、これは攻略対象ヒロインにはならないし、、、

と、考えているうちに、はたと思い出したという訳です。
アイリス。
えーっと?

>アヤメ科アヤメ属の単子葉植物の総称。アヤメ・ハナショウブ・カキツバタなど。

目出度くも、ぴたり5月テーマであるハナショウブでした。
さてさて、『サクラ対戦』のアイリスがどんな女性かと言えば、登場人物中最年少、女性というよりは幼児ですよねえ。
体格といい、行動様式といい、いいとこ5歳児でしょう。

ところが設定資料を読むと、決してそんなガキではないようで。
シリーズ最終作などに至っては、もう中学生の年代に達してます。
どう見ても不自然、どう考えても矛盾。
思えば、『サクラ対戦』の泣き所のひとつといえるでしょうね。

ここに至った原因を考えてみるに。
好評に答えて、次作をつくり続けたせいでしょうね。
登場時において幼めのキャラクター設定したものだから、やすやす変更するわけにはいかなくなる。どんどんどんどん歪が広がっていったという訳です。

なにか、ネットの上でも同じような事例を、よく見ますよ。
こちらはアマチュア創作ですけど。
ねえ、誰かが小説めいたものを書くと、「続きを書いてくれ~」という声が出てくる。
それに応じて書く。
当初から想定してなかったものだから、木に竹をついだような作品になってしまう。
まあ、プロがつくっている『サクラ対戦』ですら述べたとおりですから、至極もっともなことでしょう。

  SSは 下手こそよけれ クレクレが 暴れ出しては たまるものかは

公開掲示板でも詠み人知らずのSSが書き付けられることがよくありますでしょう?
でもまー、見てると大概はこの狂歌の傾向。
うまいものが投稿されているところほど、早くに空中分解してしまいます。
あ、それからSSだけでなくCG投稿もそう。
どなたかがご自分のオエビで「アマチュア創作家にリクエストなどしない」とおっしゃってました。僕も申し上げたような意味でまったく同意見です。
 
と、この言い回し、



公開掲示板における創作投稿について考察する

を巧みに丸写ししました。

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わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!

たがやす月

2006年05月14日 20時23分45秒 | 菖蒲 - 5月
皐月花札菖蒲の月・5月の異称は皐月ですね。
これは有名ですよ、何せスバリ五月と書いて『サツキ』と読ませることもあるくらいですもの。ここで説明するまでもなく皆さん知ってるでしょう?

ところがね。
その語源は意外なところに。
「皐」とは「神に捧げる稲」という意味、それから転じた耕作を意味する古語「さ」から、稲作の月として名づけられたようなのです。
耕作ですか? タガヤスは「田、かえす」ですね。英語ではcultivate。

ふふん、少々英語の知識をひけらかしましょうね。
cultureってのは?
そうです。文化です。
で、cultivateとcultureは同じ語源なんですよ。文化というのは耕すということなのです。
(cultも同じ語源なんだが、それは書かぬが花)

先人が遺してくれた土地を耕作するがごとくに創り上げていくのが文化。
意外や意外、全くの外国語に和の心がありました。
そういえば、花札5月は在原業平が遺してくれた文化、和歌と歌物語のワールドでしたね。
英語経由で、菖蒲に八橋と5月がつながったと言ったところです。

さて、文化といえば年号にもありますよ。
ちょうど花札で、江戸の粋文化が花開いた時期と一致します。
お馴染み狂歌師・大田蜀山人の、今日は正統派の和歌を見ましょう。

   富士のねの 烟はたゝず なりぬれど あさまの山は とことはにもゆ

                文化十三年(1816)  丙子 秋九月

うーん、この時代はまだ宝永(ほうえい)四年(1707年)におきた富士大噴火の記憶が残ってたのですね。
地学的見地からすればこんな新しい時代に噴火した富士山が、最近まで休火山に分類されていたのが不思議でたまりません。

日本は火山帯の上に形成された大地。
極端な話、火山の噴火口の上に住まっているといっても言い過ぎではないでしょう。
天災は忘れた頃にやってくる、災害対策は万全ですか?

と、この言い回し、



浅間山は活火山、そして富士山も

を丸写ししました。

………
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わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
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いけない僕をイヂメて、イヂメて!
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    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!




降り残してや

2006年05月13日 22時11分21秒 | 菖蒲 - 5月
米あやめ花札菖蒲の月は、風薫る五月。
また旧暦で考えれば、梅雨時に当たります。

言いましたように、5月のタネ札は花札48枚中唯一の水の光景ですよねえ。
そして、よく使われる夏の季語『五月雨』。

  五月雨の 降り残してや 光堂

投稿日付に拘らず、前にお話しました松尾芭蕉の句です。
僕個人的には、この句が好きなんですけど、まあやはり芭蕉の五月雨の句と言えば、これになってしまいますよねえ。

  五月雨を 集めて早(疾)し 最上川

奥の細道・最上川。こう、なんか、

  ええや えんやえ~ えんや え~と
  よいさのまかせ えんやら まかせ

の掛け声が聞こえてきそうです。
さて、この最上川なんですけど、あの唄は、ロシア民謡のヴォルガの舟歌の影響を受けてるんですって。どっかの音楽番組で耳にしたことがあります。

うーん、どうなんでしょう?
ヴォルガの舟歌に似てる日本民謡といえば、むしろ貝殻節のような気がするんですけど。
地理的にもその方が辻褄があってきますし。
と、この言い回し、



あ、言いませんでしたけど

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!

くさくさの…

2006年05月11日 21時31分42秒 | 菖蒲 - 5月
syoubu花札競技で、藤、菖蒲、萩の5点札を集めると出来役『くさ』になる、
くさでなく木である藤や萩は、堂々くさにランクインしているのは興味深い、
日付では投稿順序の前後が分からないこのブログの過去投稿で話しました。

そうですよ。5月の菖蒲は『あやめ草』、文句なしのくさではありませんか。
くさくさ、
こんなの知ってます?

  草々の 名は知らぬらし 花守も 名は知らぬらし 花の咲く咲く

如何にも花札の『くさ』に相応しいといった感じです。
それだけじゃないですよ。
仮名書きにして逆さから読んで御覧なさい。
ね? 回文。
五七五七七にせよ五七五にせよエレメンツが奇数ですから、回文が創りやすいのかもしれませんね。
ちょっと季節感がずれますけど、

    今朝の滝 覗きて木曽の 北の酒

回文川柳、ということで仮名書きにして逆さから読んでも、ということなのですが、なかなかどうして。
正統派の、この詩情には肝銘されられます。

うーん、旅情豊かな旅人の感性、他の土地の人からみた木曽路ですね。
そして、地元の人には生活の場・生産の場としての木曾がある、
ってことで、この歌この歌が流れてきました。

正調木曾節…
犬養先生も講義中、ご自慢ののどでご披露なさっていたことがありましたっけ。

さて、ネットのことをよく言ったことのない僕ですが、決して要らないものだと思っているわけではありません。
こうして、空間を超え、リアルタイムでいう意味で時間を越えて、他の方と『こころ』を共有することができる。
便利なものだからこそ欲が出て色々文句を言うわけでして。

犬養先生はおそらくネットには触れることなく、お亡くなりになくなったものと思います。
もし、ご存命なら、あのご気性とお考えの先生のことです。
今頃きっとネットワークを駆使して、こうした多くの『現代の万葉人たち』のこころに触れようとなさっているに違いありません。

と、この言い回し、



『嬉しいことに』これはミユの句ではありません

を丸写ししました。
うん、名前は外したYO
だって彼女、僕のBBSカキコを他所転載されたとき、エラく起こってたんだmoon!

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!

業平

2006年05月10日 17時20分23秒 | 菖蒲 - 5月
菖蒲タイルさてさて、投稿日付ではずっと先になるものの実のところは昨日、雨に小野道風は明治以降の配図、元々は番傘だった! と投稿しました。
うーん、そうなってくると花札には人物は登場しないことになるのでしょうか?
いやいや、ということで今日の話です。

5月は菖蒲の10点札、繰り返してますように八橋、三河の八橋ですよねえ。
ここに、隠れキャラが潜んでます。在原業平、そうでしたでしょうが。
三河の八橋、現在の愛知県知立市のマスコットで『なりひらくん』なるキャラもいるらしいですよ。
結構親しまれている歴史人物です。

そうそう、落語にも。

 千早振 神代もきかず たつた川 から紅に 水くくるとは

百人一首の業平の歌ですよねえ。
これもまた日付は後の方の紅葉カテゴリにて、過日話題にしました。
して、落語です。

お馴染、長屋の八っつぁんと熊さん、味が知りたくて、横丁のご隠居さんに聞きに行きました。

ご隠居さんが言うには、

昔、竜田川と云う相撲取りがいた。
かの竜田川、芸者の千早に振られ、同じく芸者の神代も云うことを聞かせることができない。
こんなに女にもてないのなら相撲取りなんかやめてしまえ、一大決心をした竜田川は豆腐屋に転職する。
とある日豆腐屋になった竜田川に、みすぼらしい女がオカラを恵んでくれるように乞う。
よくみると、あの千早ではないか! 昔の意趣のある竜田川はこれを拒否。
そして、世を儚んだ神代は入水自殺。

これが歌意だ、と。

おやおや、

と、この言い回し、



業平の歌も横丁のご隠居さんにかかれば

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!



池鯉鮒

2006年05月09日 21時09分47秒 | 菖蒲 - 5月
知立さて、花札5月のタネ札(10点札)の図柄は、菖蒲に八橋。
八橋とは、三河の八橋、現在の愛知県知立市あたり、繰り返し話してきました。

知立の読み仮名をふってませんでしたね。『ちりゅう』、東海道五十三次 39番目の宿です。
そして元々の字は『池鯉鮒』、将に水の景そのものの土地柄だったようです。

鯉&鮒、まあちょっと前までは、知立に限らず日本の河川湖沼のどこにでもいた駄魚なんですけどねえ。
ブラックバスですか? あんな余所者に追い立てられてすっかり肩身の狭い思いをしているようです。
それに何よりも、自然水系の絶対数の減少、これが大きいですよね。
川や水をきれいに! 当たり前のことを訴えかけておくとしましょう。

でも、あんまりきれいな水でも住みにくいようですよ。

  白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼ぞこひしき

こんな狂歌もあるくらいですし。

なんて。
この歌でいうとこの真の意味での白河とは、あの鬼平が畏敬した「年下上司」、松平定信のことですね。
「田や沼や汚れた御世を改めて清らに澄める白河の水」、定信は田沼親子の賄賂政治により乱れきった幕政を建て直すぺく寛政の改革を断行しました。
ところが、その結果招いたのが大不況、そして生まれたのが冒頭の狂歌です。
つまり、今日流に言えば政治浄化のために経済の停滞を招いたということになりますね。

さて、もう一方の役者である田沼意次にスポットライトをあてましょう。
鬼平と同じく、やはり池波正太郎さんの作である『剣客商売』のなかに登場しますね。
そして、数え年19歳の美少女剣士『佐々木三冬』は意次の娘。
舞台では当時50歳の香川桂子さんが三冬を演じたそうです。
池波さんは、その点について著書『男の作法』の中で、「三冬は意次の娘という(むずかしい)役だから、ベテランでなければ演じられない」と記してます。
田沼意次という人の歴史上の評価はむずかしい、ということにも通じますか?

と、この言い回し、



50歳にならないと19歳を演じられないとな?

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!


杜若(かきつばた)

2006年05月08日 20時07分18秒 | 菖蒲 - 5月
手書菖蒲いずれをあやめかきつばた、で始まった5月。繰り返してきたように、花札に描かれるところの植物は、果たして(現在の植物学上の)アヤメなのかショウブなのかカキツバタなのか、実際のところは判らないのじゃないかと個人的には思います。

さて、古語辞典を捲るに。
カキツバタ、ああ杜若ですね、という用例が案外と多いのに気付きます。
先ずは、襲(かさね)の色目の名、表は二藍(ふたあい)、裏は萌葱(もえぎ)。一説に、表は薄萌葱、裏は薄紅梅とも。日本流の色彩美ですね。
それから、家紋のカキツバタにも触れて置くべきでしょう。

そして、何よりも謡曲の杜若です。
旅僧が三河の八橋に来ると杜若の精が現れ、在原業平の歌の功徳で成仏したことなどを語る三番目物。
ほらほら、出てきます菖蒲の10点札の構図、やはり、アヤメなのかショウブなのかカキツバタなのか、の疑問はダボラではなかったようです。
因みに、この謡曲の下地にあるのは伊勢物語ですね。

 から衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ                 

でた~~
古典の授業の定番!
和歌の技法の説明でよく使われますよね。

つまり、
かきつばた、の折句、
から衣、は着るその他にかかる枕詞、
から衣 着つつなれにし、までが、つま、の序詞、
衣、着る、つま、はる、が縁語、
これらの技法のための掛詞多数。

でしたっけ?
「旅」は「足袋」にかけた縁語ではないか?
と質問した僕。。。

と、この言い回し、



永字八方、さてさて和歌の技法では

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!