もう何十年も遠くなるような昔
19歳の夏、和歌山の白浜温泉で3か月ほどホテルの住み込みのバイトをした
ホテルの名は‘ハイプレイランド,白浜有数の大型ホテルだ
紀勢本線の白浜駅から路線バスに乗り白良浜の海水浴場前を通って急な坂道を上る
坂道の途中右側にそのホテルは建っていてホテルの裏側に太平洋が広がり
坂の上から対岸のホテル群にオーストラリアから白い砂を取り寄せた白良浜の海水浴場
海岸通りに立ち並ぶリゾートマンション、お土産物屋に立ち寄り湯などが一望でき
ホテルには広いプールと裏手には白い海中展望台があって海の中を覗く事が出来た
僕の仕事はホテル直営の中華レストランのウェイターで他の連中は配膳とか布団係だった
大阪のバイト先で知り合った連中4人と行ったんだけれど
最終的にバイトだけで100人くらいになって
従業員宿舎の大きな部屋でタコ部屋のような状態だった
何日か経つと住み込みなのでグループごとにあちこちで仲間割れが始まって
新しいグループが出来るんだけど
僕も最初の連中とは袂を割って別のグループに入ったりした
バイトは大阪とか京都の大学生がほとんどで
あの頃の大学生は一浪二浪が当たり前だったので僕より年上が多かった
宿舎では誰かが持ち込んだカセットテープレコーダーからいつも大瀧詠一の曲が流れていた
ぼくはここで初めて麻雀を覚えてスナックでカラオケを歌った
高校を卒業して大阪で暮らした2年間で唯一青春らしい3か月だった
あくる年に上京して全然それまでと違った人生を始めた
夏の思い出と言ったらビキニ姿の彼女と白い砂浜でオイルを塗り合って・・
とかの思い出はまったく無くって
夏・・暑い夏の思い出と言ったらチンジャラ♪チンジャラ喧騒の金属音と煙草のヤニの臭いが充満した
パチンコ屋で血走った目で台を睨みつけてる思い出しか無いな
まだお金があってクーラーの効いたパチンコ屋に居られるうちは良いけれど
お金なんてすぐ底を突いていつも熱波と湿気のこもった万年床の敷いた部屋に帰るしか無かった
我慢できなくなると便所の手洗いほどの台所の水道の下に頭を突っ込んで冷やしていた
19歳の頃か人生の先が見えなくってのた打ち回っていた
お金が無くて食べる物も無い、彼女も出来ない、ロクな奴と知り合いにならない、ロクな事を考えない
NHKの集金人と新聞の勧誘とトラブルになった、今思い出しても腹が立つ
梅田の歩道橋の上でおっさんに声をかけられた
タコ部屋への誘い(借金背負わせられて働かされるのは女性だけじゃ無かった)
あの頃、崖っぷちやったね
19歳の夏の終わりにいつものようにパチンコに入揚げてアパートに帰ったら
アパートの前でバットで素振りをしている青年に出会った
同郷の元高校球児だ
あくる年から彼のおかげで人生が逆転した
人生は出会いだ
もう何をするのも面倒くさくて・・・
庭の芝刈りもせにゃならん・・・・・
いつの頃までだろうか田舎のフェリー乗り場の裏山のつづら折れの石の階段を上って行くと白い灯台があった
灯台は明治の初めに建てられた物で眼下を見下ろすと太平洋の水平線が何処までも見渡せた
港の入り口には天然の良港を形づける葛島と言う小さな島があって嵐の日にも港に大波を寄せ付けない
港を出たフェリーボートは葛島を大きく左回りに回って大阪湾を目指す
灯台下の遊歩道に立つと赤い夕暮れと光る海、故郷を後にするフェリーボートの航跡
母も兄も姉もあの船に乗って故郷を出た
僕もあの船に乗っていつかこの町を出る、そこにどんな人生が待っているんだろう
僕の小さい頃、灯台の周りは素晴らしく手入れをされた公園のようになっていて
遠足やハイキングに町の人が灯台を目指した
灯台より一段高い広い敷地に灯台職員の平屋の官舎があって壁も柵も灯台と同じ白一色で塗られていて
広い庭は青い芝生が植えられていてまるで外国映画に出てくる家の様だった
ぷちアマルフィか
僕も将来、家を建てたら絶対芝生を植えようと思った
現在、あの白い灯台ジャングルの様な藪の中で崩れかかりつづら折れの階段は通行禁止
あのあこがれの官舎は廃屋になりました
外はまだシトシト雨が降っている・・歩道の水たまりに雨の波紋が・・
お客様は来ない
うちの田舎はとっくに田植えも終わった頃かな
農家の幼なじみは誰ももう田植えなんてしていない
あの頃、稲が青々と茂って稲穂が頭を垂れた田圃は雑草の蔓延る原野になって
崩れかかったあぜ道と周りの廃屋は典型的な限界集落だ
幾つの頃までか田舎の田圃の用水路には‘のっこみ,と呼ばれる鮒の遡上が見られたんだけれど
農薬のせいか中学生の頃には見られなくなった
僕の田舎は海と山に囲まれた小さな町で昔、山の麓にある八幡宮の周りは皆、田圃だった
田植えが終わって小雨降る日は蛙の声がゲコゲコとつづら折りの山道に響き渡る
小さい頃、山の上に養魚場があって鯉や金魚を育てていた
それで少し大きな雨が降るとその養魚場から田圃の用水路を通って麓の小川に逃げだすんだ
僕の家にはけっこう大きな池があったから
雨の降ったあくる日に僕は田圃そばの小川に逃げた金魚を捕まえに行った
学校が終わると小さな自転車にバケツとタモ網を持って
片方下がったランニングシャツに半ズボン、麦藁帽
ペダルをえっちら漕いで町はずれの小川に向かう
金魚の逃げ出すのは梅雨時が多くていつも小雨が降っていた記憶がある
小川の水面にぽつぽつと雨の波紋とアメンボの足がすべる小さな波紋
そして生い茂る萱の根元に金魚の赤いシルエットを見つけると驚喜した
タモを持って小川の水の中に入ると遠くの山から遠雷がゴロゴロと鳴って
「もうそろそろ帰るんだよ」と
親の代わりに雷が僕を迎えに来たんだ
友達と遊ぶより一人で海や山、川に行く方が好きだったから
おっさんになった今でも雨が降ると小さかった頃の光景が浮かぶ
あの日の少年はどこに行った
この連休中は断捨離三昧です
捨てて捨てて捨てまくっています
古い写真が出てきました、友人のアパートですね
18歳・・・の私です
大阪でパチンコばかり打っていました
19・・歳の私です
ジャニーズに入っていたらジャニー喜多川さんの魔の手から逃れられなかったでしょう
この写真を撮る前まで西成の釜ヶ崎の工事現場でずっと見張りをしていました
今で言う警備員ですね
蟻の町のマリア(誰?)ならぬ釜ヶ崎の豊川譲?と呼ばれていました
(ほんまか?)
40数年前のかわいい頃の私ですが
現在の私はそんじょそこらのホームレスより気合の入ったホームレスの‘なり,です。
清水寺の三年坂で桜の木が倒れて修学旅行の引率の教師が大怪我をしたと言うニュースがあった
三年坂・・産寧坂とも言うらしい
三年坂を初めて上ったのは確か姉が京都の大学を出た年
引越しの手伝いに行って母と一緒に三年坂を上った
音羽の滝の向かいにコシの抜けたうどんを出す店があって二人でうどんを食べたんだ
ちなみに今でこそ讃岐うどんに席巻されてコシが硬くなったけれど昔の京うどんは皆コシがふにゃふにゃだった
高校を出て大阪に住んだ
18歳の時知り合った女の子と初めてデートしたのが清水寺で三年坂を上った
「三年坂で転ぶと三年以内に死ぬねんで」とかしょうも無い事を話した記憶がある
彼女と四条大橋側のそば屋でニシンそばを食べたんだ
有名なそば屋で今でもそのそば屋を見るとその事を思い出す。
(その時以来食べた事が無いけれど・・・)
あくる年の19歳の時、四条河原町のパチンコ屋に嵌った
電車で30分程だったけれどパチンコ屋に通勤している感じだった
パチンコの合間によく三年坂を上った
清水の舞台から京都の町を見下ろして・・
(俺の将来はどないなるんやろ・・・)とか思っていたな
あくる年の20歳の時大阪から東京に出た
京都が遠くなった
それでもちょくちょく帰省の途中とかに京都に寄って三年坂を上った
女房と上った
娘達も上った
18歳の僕は初老になった
そば屋もうどん屋も清水の舞台から見下ろす京都タワーもあの頃のままで
自分だけがどんどん老けて行くんだよ
5年ほど前になるか両親が老人ホームに入居して田舎の古い屋敷を残された
いずれは壊さなければならないので解体費用の見積もりを取ってもらったら
300万~700万円掛かると言う
そんなお金は無いので僕だけで田舎の実家に帰ってほそぼそと整理しようかと思った
それでも古い母屋が二棟、コンクリート造りの納屋が二棟
とてもじゃ無いが自分の力では無理だ
途方に暮れていたところ、うちの家を購入して宿泊施設にしたいと言う奇特な人が現れて
タダで引き取ってもらったけれど解体費用が浮いた
クソ田舎なので広い敷地を持っていたって税金を取られるだけじゃ
ただ環境は抜群に良い
遠浅の白い砂浜まで徒歩3分、この時期周りの山に山桜が咲き誇ってまるで桃源郷の様
リニューアル出来たみたい
(写真は会社のホームページよりお借りしました)
和室の床の間とガラス障子は昔の家の物をアレンジしてあって
涙ちょちょ切れですわ
今度帰ったら泊まろうっと
一棟貸しなんでけっこういいお値段ですね
今日は寒いね・・・
どこかに出掛けようと思っているんだけれど・・こう寒いと出足が鈍るね
暇だからネットを見ていたら他所さんのブログに下町の長屋の写真が出てた
随分前だけれど夏の暑い盛りに谷中の狭い路地裏を歩いていたら、
幾人かの観光客が足を止めて長屋の小さな庭を覗いていた
何だろうな?と思って僕ものぞいてみたら
縁側のある座敷のガラスを開け放してステテコ姿のお爺さんが寝ているんだ
ステテコ1枚で寝ているお爺さんが谷中の路地裏の景色に溶け込んでいい味を出してる
ステテコのお爺さんが本人は意識していないけれど観光客にとってのノスタルジーに一役買っていた