明治時代ー14
(明治・大正・昭和)
高村光太郎
明治16年(1883年)~昭和31年(19562年) 東京都出身 73歳没。
日本の彫刻界を指導した高村光雲の長男で、彫刻家でもある。今日にあって「道程」、「智恵子抄」(レモン哀歌-知恵子抄の中の1つの詩)等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もある。能書家としても知られる。
1911年(28歳)、雑誌『青鞜』創刊号(平塚雷鳥創刊)の表紙絵を描いた3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会う。3年後の1914年(31歳)、光太郞は第1詩集『道程』を刊行し、同年智恵子と結婚する。
1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)55歳に智恵子と死別。
1941年(58歳)、智恵子の他界から3年後に光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した
1956年(昭和31年)肺結核のために死去した。73歳没
光太郎が智恵子の臨終をうたった詩『レモン哀歌』
智恵子抄の中の一つの詩
高村智恵子
1886年(明治19年)~1938年(昭和13年)52歳没。
1886年(明治19年)福島県安達郡油井村字漆原に産まれる。1913年(大正2年)9月、上高地に行く光太郎を追いかけて一緒に絵を描いた時に結婚の意思を固めたという1914年光太郎と結婚。
1931年(昭和6年)8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中に統合失調症の最初の兆しが表れた。光太郎は病室へ千代紙を持っていき、1937年(昭和12年)頃より智恵子は病室で紙絵の創作をするようになり、病床から千数百点の紙絵を生み出した。
智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立つ。
私は子供の小さいころ、図書館に通っていろんな本を借りて子供と一緒に絵本を楽しみました。その中でも心にやきついている一冊の本です。
こんな素敵な紙絵の世界が広がっています。智恵子の優しさと純粋さが凝縮された一冊です。
ー紙絵ー
智恵子抄の唄
この唄も鮮明に覚えています。光太郎と智恵子がいかに当時の人々に愛されていたかがよくわかると思います。長くなってしまいましたが、智恵子は光太郎に愛されて、人生を全うした幸せな女性だと思います。
今日も見ていただいて有難うございました。
では又~~