もうじき、今年も終わりです。年賀状等、そろそろ準備しなけりゃいけない時期になりましたね。
今年は、あの大きな災害の影響で、至るところで「支えあい」とか「絆」、といった言葉が繰り返される年となりました。
来年の年賀状の文言も、例年に同じ「おめでとうございます」というより、「今年一年も、皆様と支えあって生きていきたいと思います」とか、皆との絆を再認識する言葉の方がしっくりくる気がしますね。実際、そういう年賀状が増えそうだ、という傾向はあるようです。
さて、絆とか、支えあうとか簡単には言いましたが、勝手なもので、人は「人間」「日本人」「友達」「家族」とか勝手に作った、同じ枠の中ではそういう言葉を口にするかもしれませんが、その枠の規模が大きくなればなるほど、無関心になります。
例えば、昔、イエローモンキーの歌詞でもありましたよね。世界のどこかの飛行機事故。「乗客に日本人は居ませんでした。」と繰り返すテレビ。犠牲者は日本人でなければOKなのか?実は私も、いつもそんなニュースを耳にするたび違和感を覚えていました。でも、自分の家族が、友達が、もしそっち方面に旅行に行ってたら、「日本人が居ない」という情報は重要なソースとなり得るでしょう。
また、例えば幼い命が失われる交通事故。そうしたニュースを聞くたびに、「可哀想」だという意識を共感しているつもりでも、それは、日本の知らないどこかで起こっている事であって、それは知り合いでもなく、ましてや身内でもない。そういうところからは、本当の意味での共感であったり、支えたいと感じる力は生まれないものなのかな、と思います。
ただ、今回の震災では、誰もが支えたいと思い、不幸な境遇に共感し、また支援し続けています。今まであまり、他人事には感心を示さなかった私自身も、些細な事ではありますが、今回はできる限り寄付活動を続けています。
震災後8ヶ月、被災地が復興していく様には、本当に人間の底力を感じます。
もちろん、その源には、人々の些細な募金活動や、直接的なボランティアの力があるわけですが、そういう支援の輪の原動力は、大抵が同じ「日本人」であるというくくり、枠の中だけで発生していることに嬉しく思います。私にとっても犠牲になった人々の中には、自分の親戚や、友達、知り合いも居ません。もっとも、国籍を飛び越えて世界各国から支えられてもらっているのだから、その枠はもっと大きく、「人間」として共感できる事だったのかもしれません。
本当に不幸な災害でした。ただ、その災害自体を、またその災害を乗り越える気持ちを、共感できる枠が大きくなれたことは、人としては良いことなのかな、と思います。
まだ、振り返るには少し早いですが、今年は、色んな意味で、絆、支えあえる輪は少しでも広く持てる自分でいたいと思った年となりました。