音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

音楽雑記帳:音律ー➀ 何故人々は音律を定義しようとしたか

2017-02-22 17:08:37 | 音楽
ギリシャ時代(B.C.500年頃)、ピタゴラスは万物の根源は「数」であると考え、様々な現象を数あるいは簡単な整数比で説明した。これから考察する音律のみならず、彼の教団は天体運動や男女関係まで数で表現した。例えば男(3)と女(2)の和(5)が結婚を象徴するという具合だ。

ピタゴラスは全く著作を残さなかったうえ、彼の教団は厳しい秘密主義を貫いていたため、彼の思想を知るには弟子あるいは後世の伝記記者の記録頼るしかない。彼が金槌(かなづち)の槌音を聴いてその重さの比率から協和音程が単純な振動数比に基づく事を発見したという有名な逸話の真偽は定かではない。ただ、彼はそれを実証するためにモノコードという一弦の作ったという。

モノコードのコンセプト・モデル(株式会社アーテック 製 但しこの製品は2弦になっている。)

そこには、音の調和は単純な振動数比にあるという信念が読み取れる。実際、振動数比1:2はオクターブ、2:3は完全五度でありモノコードで簡単に確認できる。同時代の哲学者アリストクセノスは協和音程の理論よりも響きを重視した音律論を展開したがしりぞけられてしまった。
ピタゴラス音律は実際に演奏するための形式というより、この世界がどのような調和の原理に基づいて構成されているのかという哲学的な問いへの答えであった。とはいえ、この音律は楽器の調律が容易であり、また旋律を奏でるには問題が無いので、多声音楽が登場するまで使用された。

ピタゴラス音律では三度音程は不協和音として扱われていたが、多声音楽の隆盛によって5度・4度だけでなく三度音程が美しく共鳴する音律が必要になってきた。ルネッサンス期になって三度音程を多用した曲がたくさん作曲されるようになるとそれに対応した音律の必要性がますます高まった。15~19Cに鍵盤楽器で使用された中全音律(ミーントーン)は完全五度音程の響きを少しだけ犠牲にして長三度の音程が美しく響くようにしたものである。これによって3和音が美しく響くだけでなく、関係調への転調がやりやすくなる。例えばハ長調・イ短調及び♭3つまで、♯2つまでの調はきれいに響く。実際バロック音楽ではほとんどの曲がこれらの調で作曲された。ただ、♭4つ、♯3つ以上の調は中全音律ではきれいに響かず、使い物にならない。

バロック後期になると様々な調性の音楽が現れ、転調の手法も多様になってきた。そこで、すべての調に対応できるウェルテンペラメントという音律が登場してきた。この音律を使って24全ての調性で作曲したJ.S.Bach の「平均律クラヴィア曲集」"Wohltemperiertes klavier"が有名である。(ここで訳語として使われている「平均律」は現代の平均律ではなく、ウェルテンペラメントのことである)

1オクターブの12音全ての音程を均一な振動数比率(12乗根√2)で調律する平均律の理論は16世紀(バロック時代)に登場した。しかし、一般に普及したのは18世紀頃、古典派の時代になってからと考えられる。
平均律という調律法は共鳴という現象を犠牲にしており、響きの点から問題を抱えている。しかし、平均律の普及は音楽の大きな変革をもたらした。一つは、共鳴という観点から考えると、どの調でも音程が同じならどの音を基音としても同一の響きがすることである。ハ長調のド・ソでも、二長調のド・ソでも5度音程は同じ振動数比(2:3)になるので、同じ響きになる。もちろんニ長調のほうが2度高い音ではあるが。つまり、転調に全く制約がない。二つ目は、付加和音の制約がなくなり、和音(コード)進行の自由度が拡大したこと。
これによって音楽は縦方向(和音)にも横方向(和音進行や転調)にも機能が飛躍的に拡大した。そして20世紀になって行きついたのが無調音楽や十二音音楽であり、またモダンジャズだった。

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古典芸術の現代化 ② オペラの場合 - 1

2016-07-25 01:44:51 | 音楽
オペラはルネッンス後期のイタリア、フィレンツェではじまった古典文化(ギリシャ)を復興しようという運動に起源をもつ。古代ギリシャ演劇を復興しようというグループ「カメラータ」が1570年~1580年代にかけて活動を始めたのである。それはギリシャ悲劇を基に台詞を歌うように語る劇だった。後の研究により、ギリシャ演劇では台詞と合唱が分かれており、カメラータの運動は古代演劇の復元という意味では正しくなかったが、セリフを歌い、また音楽にのせて語る(レチタティーボ)という新しい音楽劇様式を生み出すことになったのである。
カメラータの活動は劇場ではなく貴族のサロンで行われていた。これには物理学者ガリレオ。ガリレイの父で音楽家だったヴィンチェンツォ・ガリレイも参加していた。

カメラータによるルネッサンス音楽批判は、ポリフォニーが多用されるために歌詞が聴き取れないという点にあった。そのため、古代ギリシャ演劇では単純な器楽伴奏にのせた単旋律で歌われたと考えたのである。この様式がモノディ様式と呼ばれる独唱又は重症に器楽伴奏を付けた新しい音楽様式を生み出した。モノディ様式はポリフォニーに比べて旋律や歌唱表現の自由度が高く、オペラと共に瞬く間にイタリア全土に広まった。また、この様式は新しい様式「バロック音楽」を生み出すことになる。

モノディ様式はメロディが一本なので歌詞が聴き取りやすくなり、ソリストが活躍する場面が用意されたことになる。そこで注目されたのがソプラノ歌手である。高音で大きな声を張り上げ、伴奏の上でメロディを自在にアレンジし、誇示する。まるでのど自慢だ。時にはソリストが即興で歌いまくり、延々とアリアが続くという場面もあった。伴奏は単純な和声進行だからなんとでも対応可能である。さらに、この状況にピッタリはまったのが男性ソプラノ「カストラート」である。肺活量が大きく、声量で聴衆を圧倒する。歌を聴いて失神する女性が続出するありさまだった。*1

オペラが始まった16c末から17cは、中央官僚と常備軍によって国家統一を成し遂げた絶対王政の時代であった。君主は民衆を力で押さえつけるだけでなく、オペラを欲求不満のはけ口として利用した。だから、この時代のオペラ劇場の絵を見ると平土間や最上階は立見席で(現在でもウィーン国立歌劇場にはその名残がある)なっている。
一方、貴族にとってはオペラ劇場は社交場であった。開演中にボックス席でのおしゃべりはもちろん、飲食までするありさま。休憩時間のロビーはお酒を片手に語り合う人々であふれた。


こんな中で演じられるオペラは豪華絢爛、空中ブランコに乗って歌い、グロテスクな着ぐるみが舞台を動き回る。時には花火まで上がり、舞台上に池を作って水浴する。聴衆はこれにやんやの喝采で応えた。こうなると、オペラのストーリーや登場人物の心理描写なんてどうでもよくなる。(だから、現在この時代のオペラが上演されることはほとんどない)
カストラートが大声を張り上げ、自由気ままに歌いまくり、ど派手な衣装と奇をてらった大道具。筋は支離滅裂。こうしてオペラは単なる見世物と化した。

実はモーツァルトの歌劇「魔笛」にその名残を見る事ができる。ハチャメチャな筋書き(最後には収束するが)、奇想天外な登場人物、夜の女王(ソプラノ)が歌う名人芸的なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」。もちろん17C のオペラと魔笛を同一視するものではないが。

そこに登場したのがグルック(1714~1787)である。『彼は、歌手のためにオペラがあるのではなく、オペラのために歌手が奉仕するような、あくまで作品とドラマの進行を第一とするような方向にオペラを再び立ち返らせ、ドラマの進行を妨げる余計な要素を一切廃したスタイルのオペラを書いた。』(Wikipedia「オペラ」より引用)改革された最初の作品が「オルフェオとエウリデイーチェ」(初演 1762年)である。
グルック自身は終生 絶対王政の貴族の保護下で活動した作曲家である。(神聖ローマ帝国の皇女マリー・アントワネットの音楽教師として共にパリに移った。)もちろん彼の改革は一筋縄ではいかなかったが、それでもそれが可能になった背景には次のような事がある。
➀ 行きすぎたバロック・オペラへの反動
② 作曲家としての強い意志とそれを支える聴衆の存在 (一部の貴族と官僚や技術者等のインテリ達)
③ 絶対王政のほころび(1789年にはフランス革命が起こる)により、民衆の欲求不満のはけ口としてのオペラの役割が弱まった。
その結果、オペラが他の演奏会と並行して芸術鑑賞の対象に変化してきた。

グルックによるあたらしいオペラを支持したのは、主として当時育ってきた中産階級の人たちであった。これはハイドン、モーツァルト、ベートーベンの音楽を支持した層と重なる。
新しいオペラや古典派の音楽とそれに続くロマン派の音楽を支持したのは、貴族、官僚、技術者等のインテリ達であった。その中で音楽の思想性、構造性、論理性が醸造されていった。その結果、これ以降のオペラには即興が無くなり、作曲家の書いた譜面は絶対となる。他方、オペラを作曲することは今まで以上の時間とエネルギーが必要になり、モーツァルト以降の作曲家が作ったオペラ作品数は激減した。ちなみに交響曲もモーツァルト以降では10曲未満になったことはよく知られている通りである。

フランス革命以降 絶対王政下の領主が没落し、芸術音楽の担い手は新たに富を手にした中産階級に移った。*2
芸術音楽は擁護者の後ろ盾を失い、オペラも管弦楽曲も公演は経済的な自立が求められる時代になった。それまでほとんどのオペラ劇場は貴族が建設し、安い料金で民衆にチケットを販売していたのである。

*1 映画「カストラート」にもそんな場面があった。
*2 松田智雄「音楽と市民革命」岩波書店(1985年)に詳しい。
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音楽雑記帳:ピッチ(音高)

2016-06-10 01:05:19 | 音楽
クラシック音楽のピッチを統一しようという動きは1859年のロンドンの会議に始まるらしい。その後1885年にもウィーンで同様の会議が行われている。この時はいずれも A=435Hz に決まった。時は後期ロマン派時代。リヒャルト・ワーグナーが楽劇の作曲し、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラが成熟期を迎え、ヨハネス・ブラームスが交響曲を作曲していた。その後1939年、ロンドンの国際会議で A=440Hz となり今日に至っている。
ピッチが統一される以前、ルネサンス、バロック、古典派時代のピッチは地域や楽器毎に異なっていたため、演奏家は演奏場所や他の楽器(主にオルガン)に合わせて自分の楽器を調整しなければならなかった。リコーダーやバロックオーボエのような木管楽器は数Hzしかピッチを調整できないので、ピッチの異なる楽器を複数持ち歩かねばならなかった。

バロック時代のピッチがどのくらいであったかを知る手掛かりはこの時代に作られたオルガンや楽器にある。ルイ十四世(1638~1715)の時代に作られたオルガンがベルサイユ宮殿に現存しており A=396 である。これは現在よりも1全音低くなる。つまり、フランスの宮廷音楽家であったラモ―やリュリの音楽を現代の楽器で演奏すると全音高く響くことになる。
一般論としては歴史的にピッチは高くなってきたと言える。

ところで、ピッチが変わると何が変わるのだろうか。一般的にはピッチが高くなると音の透明感が高まり、緊張感が増す。逆に低くなるとしっとりとして落ち着いた響きになると言われる。最近の古楽演奏では現代の国際標準よりも約半音低いバロック・ピッチ A=415 を使う事が多いが、同時に音律も快適音律(ベルクマイスター、キルンベルガー)と呼ばれる長三度が良く響く物を採用するので、ピッチだけの効果とは言い難い。
作曲家 黛敏郎氏が存命の頃、司会をしていた題名のない音楽会でシューベルトの交響曲8番(未完成交響曲)を全音高く嬰ハ短調(原調はロ短調)で演奏したことがあった。この時これに気付いたのは会場でたった一人だった。もっとも「次の演奏には何かおかしいところがあります」という前置きがあって演奏を開始したのであって、もし前置きが無かったら誰も気が付かなかったろう。つまり、ピッチが半音ないし全音上下しても我々は直ぐには気が付かないのだ。もちろん演奏会が終わってみると、なんか変だなぁという感想を持つ人は出てくるかもしれないが。
我々に与える印象としてはピッチの差よりも音律の差のほうが影響が大きいと思う。音律が変わると響きが変化するだけでなく、転調した時の響きが大きく変わって調性感が目立ってくる。平均律に慣れた我々の耳には古楽演奏の快適音律はとても心地よく響く。最近の古楽演奏の流行の背景にはこんな秘密も隠されていたのだ。

ピアニスト故ベネディッティ・ミケランジェリの演奏は透明感のある響きで評判が高かったが(気分が乗らないと演奏会をキャンセルする事でも有名だったが)、いつも演奏会にお抱えの調律師を同行していた。来日した時の彼の演奏を聴いて感じたのは長三度と完全五度の響きが特別にきれいだったことである。思うに、彼の調律師は演奏曲目に合わせてピアノの調律を調整していたのではあるまいか。作曲家の別宮貞夫氏も同様の指摘をされていた。

話を元に戻そう。古典派の時代のピッチはどうなっていたのだろうか。この時代にはまだ国際標準は無かったものの音叉が普及していた。Wikipedia 「音叉」の項によると「1711年、イギリスのジョン・ショア (John Shore) がリュートの調律のために発明したのが起源である。」と記されている。そして音叉は瞬く間に欧州に広がった。つまり、古典派の時代になり、ようやく楽器のピッチを統一しようという機運が盛り上がってきたと考えられるのだ。モーツアルト(1756~1791)が所持していた音叉は A=421.6 だった。自分の演奏会では奏者にこのピッチを指定していたのかもしれない。指揮者アーノンクールはウィーン・コンツェルトムジクスと演奏したモーツアルトの交響曲でこのピッチを使っている。

人間がどのように音高や同音をとらえているのか、科学的に解明されているとは言えない。440Hz の倍の 880Hz がどうして同じ音だと認識できるのだろうか。物理的には同音 440Hz(一点イ) や倍音 880 Hz(1オクターブ上のA=二点イ)は共鳴する。ピアノでオクターブ上の A 音(二点イ)のキーを音が出ないように押したままにし、中央の A(一点イ) をスタッカートで叩いてみるとオクターブ上の A 音が鳴っていることが確認できるだろう。これが共鳴である。A の隣の B, C, E...キーを押しておいても鳴らない(共鳴しない)。同音の認識には共鳴現象がかかわていることが予想される。しかし、なぜ共鳴する音が同音だと認識されるのだろうか。これは人間の脳の認識の問題であって、いまだに解明されていないのだ。
ところで、音高については無限音階(Shaperd Tone) とい面白い錯覚現象が知られており、音が無限に上昇又は下降するように聞こえる。
【無限音階の例1】
【無限音階の例2】
不思議なことに運動する音高の感覚は周波数だけで決まるわけではないらしい。
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音楽雑記帳:テンポ(速さ)

2016-05-02 01:05:11 | 音楽
ヨハン・ネポムク・メルツェル(独)がメトロノームの特許を取得したのは1816年だった。そして作品に最初にメトロノーム記号(数値による速度記号)を書いたのはベートーベンである。彼は自分のイメージしたテンポで演奏されないことを強く警戒したようで、元々はメトロノーム記号が無かった初期の曲にも後から追記している。 しかし、彼の指定したテンポには異常に速いものがある。例えば交響曲第三番「英雄」の第4楽章の導入部(♩=152)*1 や交響曲第八番の第4楽章(♩=336)*2 の指定は速すぎて演奏不可能なので、通常は演奏可能なレベルに落として演奏する。それでも、第八番の古い録音の演奏では出だしの三連音符二つが分離して聴こえないケースがたくさんある。音楽学者によってはベートーベンのメトロノーム記号の指定がどの程度彼の意図を表しているのか疑問をいだいている。
話はそれるが、モーツァルトも自分の曲がイメージとは異なるテンポで演奏されたことに憤慨している手紙が残っている。イタリア語による速度記号(Allegro, Andante, etc.)だけでは作曲者の意図を正確に反映できない。
ベートーベン以降の作曲家はメトロノーム記号を書くのが普通になった。

ベートーベンやロマン派の作曲家はソナタ形式の曲では楽章の冒頭及び構成上の転換点でのみテンポ指定をしているが、ショスタコーヴィチのテンポ指定はとても細かい。
おそらく最も演奏頻度の高い管弦楽曲の一つである交響曲五番の第4楽章では Allegro non troppo ♩=88 (4/4) ではじまり、提示部はほぼ10~20小節毎に ♩=104,108,1020,126,132...加速してゆく。その後も10~50小節ごとに少しずつ速くなり、一度だけ減速するが後はコーダまで一貫して加速する。作曲者の意図はよくわかるのだが、このテンポを正確に再現するだけだと指揮者はメトロノームになってしまう。実際の演奏は指揮者独自の解釈でテンポをつくり、演奏されているが。
余談だが、米ソ冷戦時代、西側諸国では Boosey & Hawkes 社のスコア(総譜)が使われていた。そこでは第4楽章のコーダは ♩=188 となっている。ところが戦後本家であるソ連の国営出版社ムジカから出版されたスコアでは第4楽章のコーダが ♪=184 となっていたのだ。これで世界の音楽界は騒然となり、日本でも全国紙に記事が掲載されるほどだった。最後の35小節は加速の頂点として盛り上がるどころかテンポがほぼ半分のになり、荘重な音楽になってしまうからだ。
1980年に出版されたムジカのスコアでは ♩=188 に訂正されている。

五線譜が無かった時代の音楽はどんなテンポで演奏されていたのだろうか。
グレゴリオ聖歌についてはネウマ譜(4線の譜線ネウマではなく、歌詞につけられた記号)の写本が残っており、グレゴリオ聖歌セミオロジー(古楽譜記号解読解釈)によってその演奏法が解明されている。そこにはテンポの指定はない。しかし、
・典礼聖歌である(典礼聖歌以外の聖歌もある)
・残響の長いロマネスク様式の礼拝堂で歌われた
・歌詞(ほとんどがラテン語訳聖書からの引用)の1フレーズを一呼吸で歌う
という原則があり、歌唱法の制約から必然的にテンポが決まる。また、修道院という外界から隔離された空間と組織に於いて千年以上も伝承されてきた現在のグレゴリオ聖歌のテンポもこの原則のほぼ合致している。

モーツァルトのピアノ・ソナタ K331 の第3楽章 Alla Turca(トルコ風)のテンポは Allegretto と指定されている。これが実際の演奏ではどのくらいのテンポになっているか、調べた人がいる。それによると、
 ♩=132 ケンプ、エッシェンバッハ、シフ、内田光子 
 ♩=144 リリークラウス
 ♩=100 ピリス
 ♩= 88 グールド
となっている。この曲の何処にも「行進曲」とは書かれていないのだが、2/4拍子なので行進曲とするなら ♩=144 では重武装の歩兵は歩き続けられない。すぐにへばって隊列が乱れてしまうだろう。♩=100,88 では遅すぎて士気は上がらず敵に脅威を与えられない。
ところで、17世紀の中央ヨーロッパの人々にとって強大なオスマン・トルコ帝国軍のバルカン半島侵攻は差し迫った脅威であった。
1683年にはオスマン帝国軍がハンガリーを突破し、オーストリアの首都ウィーンが2ヶ月間も包囲される事態になった。幸いポーランド、オーストリア、ドイツ諸侯の連合軍が到着。長引く包囲戦によるオスマン軍の士気低下もあり、ウィーンは持ちこたえる事ができたが、人々にとって異教徒の侵攻は脅威であった。この記憶がモーツァルトのピアノ・ソナタやヴァイオリン協奏曲第5番の第3楽章の背景にある。共通するのはオスマン軍の鼓笛隊が打ち鳴らすのドラムの基本リズム |♩|♩|♫|♩|である。
人間は目覚めている時、通常は五感の働きで意識が緊張状態にあり脳はβ波を出すがリラックスするとα波に変わってゆく。テンポ ♩=116 の音楽は人間をリラックスさせ、集中力、思考力、運動能力を高める効果があることが医学的に証明されている。おそらく何処の軍隊も経験的にそのことを知っていただろう。だから、オスマン軍の鼓笛隊もそのテンポで演奏していたと想像してもよいだろう。
モーツァルトのK331 第3楽章 Alla Turca(トルコ風)の Allegretto はそんな背景を持った速度記号なのである。

北京出身のピアニスト Yuja Wang (王羽佳) の演奏しているVolodos編曲の Alla Turca は丁度 ♩=116 だが爽快である。卓越したピアノ・テクニックとユーモアあふれる編曲は聴く者に笑みをもたらす。もちろん眉をしかめる気の毒な人もいるだろうが。


*1 スコア上では Allegro molto (二分音符=76)と指定されいるが、ここでは比較のため四分音符で記載した
*2 スコア上では Allegro vivace (全音符=84)と指定されいるが、ここでは比較のため四分音符で記載した
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古典芸術の現代化 ① 現代化の背景

2015-12-16 23:45:19 | 音楽
西欧クラシック音楽や日本の歌舞伎・能のような再現芸術の古典作品を現代に演奏あるいは演ずる場合、作品が発表された当時の形態そのままで舞台にあげられることはきわめてまれである。それは舞台芸術がその時代の観客のニーズにフィットしなければ飽きられ、社会組織に適応できなければ淘汰されてしまうからである。歴史上で一時は隆盛をきわめても次の時代の要請にこたえられず、消滅していった芸術・芸能はたくさんある。むしろ、現在まで残っているものより淘汰されてしまったものの数のほうが多いだろう。
例えば日本音楽では平安時代に歌と踊りと音楽が一体になった今様が隆盛を極めた。記録によれば民衆も貴族もこぞってこれをたしなんだらしい。歌詞は後白河法王の撰になる「梁塵秘抄」として残っている。それは万葉集のように生き生きとしており、同時代の勅撰集である「新古今和歌集」と対照的である。ところが今様の踊りと音楽の伝承は途切れ、歌詞だけが書物として残った。

第二次世界大戦後、古典派より古い西欧クラシック音楽(中世、ルネサンス、バロック)を、音楽学の研究に基づいて作曲された当時の演奏様式で演奏することが多くなってきた。作曲された時代の楽器(もちろんそのコピー楽器を使う)を用い、現在よりも低い当時のピッチで演奏する。これを総称して古楽と読んでいることは御存じのとおりである。ただ、当時の録音は残っていないので、Purcell, Bach, Handel,Mozart が自作をどう演奏していたのか、わからない。従って、古楽の演奏にあたっては史的な考証が欠かせないが、現時点では古楽団体、指揮者によって同じ曲でもビックリするほど異なる音楽になるケースが多い。それほど古楽にはわからない事が多く、演奏者は想像力を駆使して演奏しているのが現状であろう。
中世、ルネサンス、バロックのピッチについても正確なところは分かっていない。そもそも国際標準などというものは無い時代であった。そこで現存する管楽器やオルガンのピッチから当時のピッチを推定する事になるが、それは概ね現在のピッチよりもかなり低いが、時代や地方によってかなりばらついている。それがMozart の時代になるとピッチが統一されてきたのではないかと考えられている。彼が使っていた音叉は現存しており421.6Hz である。これは現在のAs(変イ=415Hz)に近いので、約半音低いことになる。*1
従って、現代における古楽の演奏は当時の音楽の再現というより、古楽器と低ピッチ(楽器の特性を考えれば、この2つは一体で考えるべきであろう)条件下で新しい音・音楽を作り出す試みであると考えるのが自然である。300年以上も前の音楽を正確に再現しようとしても所詮それを検証する手段が無いのだから。

日本音楽においては時の権力者(貴族や幕府)の庇護を受けて育成・保存された雅楽や能と民衆の中から生まれ育った今様や歌舞伎では全く異なる歴史をたどって現在に至っている。
例えば、雅楽はもともと律令体制と共に中国から輸入された音楽であったが、長い時間を経る中で次第に日本化して今日に至っている。その背景には、雅楽担当の政府部門である雅楽寮の規模の(唐との)違いや、律令体制崩壊後(貴族社会が崩壊して武家社会になった)の日本雅楽が歩んだ独自の道がある。つまり、規模の小さい雅楽楽団では必然的に演奏者の人数も使える楽器の種類も制限され、オリジナルの曲を実情に合わせて編曲せざるをえ無かったのだ。だから、正倉院には現在の雅楽では使われなくなった芋(「う」、低音の笙)や大篳篥(「おおひちりき」、低音の篳篥)が残っている。それでも、その伝承は途絶えることなく現在まで続いている。
今様については冒頭に述べたとおりである。

それでは、現在残っている古典芸術・芸能がなにゆえに存続することができたのか。総合舞台芸術であるオペラと歌舞伎を例にとってもう少し詳しく考えてみたい。
尚、引き続き以下の投稿を予定している。

・古典芸術の現代化 ➁ オペラの場合
・古典芸術の現代化 ③ 歌舞伎の場合

(注) 
 *1 古楽の演奏形態やピッチについては柴田南雄「西洋音楽の歴史 中」(音楽之友社)に詳しい。
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