※いちばん左がRさんからもらったお手紙。
Rさんへ
お返事が遅くなってごめんなさい。
カラフルで可愛いエルちゃん・カルちゃんのイラスト入りお手紙、ありがとうございました。
プールと木や植物・動物たちを心配する気持ちが伝わってきて、読んでいてとても温かい気持ちになりました。
お手紙の文章や丁寧なイラストから、Rさんが賢い女の子なことがわかりました。
その辺のことはぴぴーんとわかっちゃうのです。私には( ̄▽ ̄)☝️
なのでこのお手紙では、ちょっとだけ難しい話を書いてみようと思います。
Rさん、私、そしてたくさんの人が大好きだったとしまえんは今年8月31日で閉園しました。
今、としまえんの閉園を残念がったり、あるいは、閉園までの経緯に疑問を感じる大勢の人たちが思い思いの声を上げています。
プールだけでも残して欲しいという人。
大切な樹木は切っちゃだめだという人。
小動物や昆虫たちを助けてほしいという人。
ハリーポッター・スタジオツアーなんていらないという人。
色んな人が色んな考えから色んな声を上げていて、Rさんのようにそれを応援してくれている子どもたちもたくさんいます。
みんな「自分は正しいことをしているんだ」と自信をもって活動をしています。
でも、そういうときほど、ちょっと立ち止まって、自分のしていることは本当に正しいのか、としまえんを閉園させてハリーポッター・スタジオツアーを作ろうとしている人たちは本当に間違っているのか、としまえんの樹木を切ってしまうのは本当にいけないことなのか、小動物や昆虫の住処を奪うことは絶対に許されないことなのか、プールを壊すことは何故ダメなのか、見つめ直してみることも大切です。
そうすることで、今、自分は本当は何に声を上げなければいけないのか、どんな言葉で、どんな方法で声を上げるべきなのか、あるいは声を上げるべきじゃないのかが見えてきます。
自分がしていることを見つめ直すときに一番いいのは、相手の立場になって考えてみることです。そして、できるだけ自分の身近な例に置きかえて考えてみる。
としまえんを閉園させて、樹木を切って小動物や昆虫のすみかを奪いハリーポッター・スタジオツアーを作ろうとしている人たち。プールを壊して練馬城址公園にしようとしている人たち。そして、それに反対している人たち。
自分の身近な例に置きかえてみましょう。
私はRさんの住んでいる家を知りませんが、たとえば、Rさんがお金持ちの家の女の子で、広い庭のある大きな家に住んでいるとしましょう。
Rさんの家の庭には毎年春に綺麗な可愛い花を咲かせるモッコウバラがたくさん植えられています。モッコウバラの甘い蜜を求めてたくさんの昆虫や小鳥たちもやってきます。庭の真ん中にはお父さんが作ってくれたブランコがあります。小さい頃よく遊んだビニール・プールも置いてあります。暑い夏の日にはお母さんがビニール・プールに水を入れてくれて近所の友だちと水遊びをしました。ブランコも友だちに大人気でした。近所のおばさんたちはモッコウバラの花が咲く季節になると、「きれいねぇ」といつもほめてくれます。
でも、モッコウバラは花の咲く季節が終わってもどんどん枝を伸ばし葉を茂らせ、お父さんは毎週日曜日になると真夏に汗だくで枝や葉を切らなければなりません。放っておくとお隣の家の庭にまで枝が伸びていってしまうからです。
Rさんの家族は話し合って、「これ以上、モッコウバラを育て続けることはできない。Rも大きくなったのでブランコとプールは取り払って捨ててしまおう。そして、大き過ぎた家を小さな家に建て替えて、その代わり、広くなる庭に今度は近所の人たちが遊びに来てくれる小さなバーベキュー場を作ろう」ということになりました。
ところが、モッコウバラを取り払おうとしていたらいつも花を見に来ていたおばさんたちが「私はこのモッコウバラが大好きだから抜くのは反対」と言い出しました。小さな弟や妹たちをブランコに乗せてあげたいRさんの友だちや、ビニールプールでまだ遊びたい友だちが「ブランコを残して。ビニール・プールを捨てないで」と家に押しかけてきました。
モッコウバラが好きなおばさんの気持ちも、ブランコやビニール・プールが大好きな友だちの気持ちも分かるのですが、それらはどれもみんなRさんの家のもので、Rさんの家の庭にあるものです。
Rさんのお父さんとお母さんは困ってしまいました。
これがRさんの身近な例に置きかえてみた今のとしまえんの問題です。
としまえんの問題は、としまえんを経営していた西武鉄道さんという会社や、ハリーポッター・スタジオツアーを作ろうとしているワーナーさん、東京都や練馬区といった地方自治体が相手。人間であるRさんの家族と同じには考えられない、と思いますか?
でも、法律では会社であっても人間と同じく権利や義務を持つことができます。これを「法人」といいます。地方自治体も同じ。そして、「人間から切り離された会社や地方自治体」というのは原則としてないのです。西武鉄道さんにもワーナーさんにも東京都にも練馬区にも、そこで働いてお金を稼いで、家族を一生懸命養っている人たちがいるのです。
さて、こういう状態になってしまったとき、Rさんや、Rさんのお父さんやお母さんはどうするでしょう?
「みんな、なに勝手なこと言ってるの?そもそもモッコウバラもブランコもビニール・プールもウチのものでしょ。私たちが私たちのものを切ろうが壊そうが捨てようが勝手でしょ?」
そう言いますか?
たしかに自分のものをどうしようと自由なのです。それは人間でも会社でも同じ。
近所のおばさんたちは勝手にモッコウバラが大好き、と言ってるだけなのです。
友だちは勝手にブランコとビニール・プールをもっと使わせてよと言ってるだけなのです。
そのためにRさんの家族は自分の家の自分の庭を作り変えることもできないのでしょうか?
それもなんだか、少し、おかしい気がします。
「私たちが私たちのものを切ろうが壊そうが捨てようが勝手だ」
「モッコウバラもブランコもビニール・プールも捨てるな」
お互いが言い続けていたら、その町はとても息苦しい、住みにくい町になってしまうでしょう。
法律的に正しいことだけがすべてじゃない。法律的に正しいことをしていれば確かに警察に逮捕されたり裁判にかけられたりすることはありません。でも、それだけでみんなと仲良く暮らしていけるかといったら、そうでもありません。
弁護士をしている私がこんなことを言うのも変ですが、世の中は法律だけで動いているのではありません。法律を守ることは大切。でも、世の中はみんなが法律を守りつつ、法律ではない部分で動いている方が多いのです。
「私たちが私たちのものを切ろうが壊そうが捨てようが勝手だ」というのは法律に従った正論。
「モッコウバラもブランコもビニール・プールも捨てるな」というのは単に自分の気持ちを相手にぶつけているだけ。
でも、世の中って、そういう人たちの考え方や気持ちのぶつかり合いでできている。
そして、そういうぶつかり合いを仲直りに変える知恵を僕らは持っている。もちろんRさんも。
その知恵は、「法律」とはちょっと違うものなのです。
Rさんは賢い子どもだと思うので、この手紙にはその仲直りの答えは書きません。
自分で、あるいは仲のいい友だちと考えてみてください。
考えてみることは絶対に無駄じゃない。いつか、仲のいい友だちと喧嘩しそうになったとき、きっと役に立ちます。
弁護士平岩利文
追伸:もし、Rさんが植物が大好きなら、お父さんとお母さんに頼んで屋久島というところにある縄文杉という木を見に行ってみてください。
縄文杉は「4000年以上生きている」「いや7000年以上だ」といわれている、気が遠くなるような長い時間を生きてきた杉の木です。ユネスコの世界遺産にも指定されています。
私は絵が下手っぴいなので代わりに昔私が見に行った縄文杉の写真を送ります。
当時、私は弁護士になるための試験に受からなくて、行き詰った毎日を過ごしていました。
何故、縄文杉を見に行ったのか、その理由は忘れてしまいましたが、目の前で見た縄文杉は「何をくよくよしてるんだ。宇宙の寿命に比べたらお前の悩みなんてチリのようなもんだ。ゆっくり、大きく生きろ」と言っているような気がしました。「私が生きてきた時間と比べたってお前の一生なんて一枚の葉っぱみたいなもんだ。大丈夫、心配するな」と言っているような気がしました。
試験に受からなくて悩んで苦しんでいた自分がとてもちっぽけに思えました。
それからしばらくして、私は試験に受かりました。
植物というのは、人間を悩みから救ってくれる不思議な力を持っている。
暑い暑い夏の日、大きなクロガネモチの木陰で休むだけでホッとするのも同じです。
としまえんで伐採されてしまう予定の木を一本でも助けられれば、もしかしたら7000年後、人間を勇気づけて助けてくれる巨木になるかもしれない。
私やRさんやその子供やそのまた子供の代でも間に合わないかもしれないけれど、7000年後の子孫が、成長した木を見上げているのを想像すると少しだけワクワクしませんか?
追伸2:としまえんは閉園してしまったけれど、それをきっかけにして私はRさんからお手紙をもらい、こうしてRさんにお手紙を出すことができました。
これまで会ったこともない、もしかしたら一生会うはずもなかった一人の女の子に手紙で何かを伝えることができた、というだけでもとしまえんはすごく意味のある存在だったのだと私は思っています。