音階
つい先日、飼い犬が交通事故に遭ってしまった。
元々右前足が不自由で、いつもヨタヨタと歩いてはいたのたが、この事故でついに両前足が完全に動かなくなり、目も見えなくなり、ワンともクウンとも言わなくなってしまった。
この事故から不屈の精神でもって立ち上がった犬は上半身を引きずりながらも後ろ向きに歩くようになり、腰のあたりにベルトを巻いて散歩にも出かけるほどにまで回復した。
そしてさらに、尻から出る空気、つまり屁で人間と会話ができるようになった。
考えてみれば犬は舌ばかり出していて喉も開きっぱなしだ、これでは口から出せる音の種類はどうしても限られてしまう。
尻の穴のほうがよっぽど様々な音を括約筋を駆使して出すことができるのである。
犬は大変頭の良い動物で、古来から人間と狩猟から愛玩まで様々な関係性のもとに共存してきた。
この犬も、人間の言うことを事故に遭うよりも前から理解していたようだ。
ある日の散歩中、犬が話し出した。
「おい、聞こえるか」
「聞こえてるよ、どうした」
「おれはもうしばらくの間、身体の上と下が逆になった生活をしている」
「うん、苦痛だろう?」
「いや、それがそうでもない。上半身をずっと引きずっているのが最初は苦痛と言えば苦痛だったが、もう胸や喉の皮もだいぶ分厚くなった。下半身も鍛えられ、結果尻の穴から出せる音の種類も増えて、お前とも複雑な会話ができるようになった」
「確かにそれは成長したと言えるのかもしれない」
「だろう、だから俺は最終の仕上げにかかろうと思っている。肺と胃袋と心臓を、どうにか下半身のほうに移動できないかと考えているんだ。俺は下半身を主体として生きていこうと思う」
なるほど、それもひとつの選択肢だ。
その日から、僕は新しい生物の誕生過程を庭で目撃することになる。
犬は少しずつ、内臓を下半身へと移動するための準備を始めだした。
まずは尻から可能な限りの空気を吸い込み、身体の中に空きスペースを作る。
そして壁に向かって頭から激突し、少しずつ、内臓を下半身へと押し込んでいくのだ。
当然一発では押し込み切らないので、何発も何発も激突を繰り返す。
壁にぶつかるたびに大音量の屁が近所一帯にこだまする。
鍛えられた下半身から発せられる屁は多様な音階を持つまでに至っており、近所の住人から奇異の目を向けられることもしばしばだった。
しかし、僕は長年連れ添ってきた飼い犬の決死の努力をとがめることはできなかった。
1週間が経った。
朝の散歩へ連れていこうと庭に出ると、そこには頭から血を出してのびている犬の姿があった。
脈はなく、身体は既に冷たくなっている。
下半身ばかりが異様に鍛えられたその身体は、今更ながらひどくアンバランスなものに見えた。
彼の決死の努力は、結果、死を導いた。
青空が車窓を隔てて矩形に広がっている。
僕は初めて乗る私鉄ローカル線で、川沿いへと向かっていた。
普段キャンプに出かける時に使うザックの中には、シャベルと、ビニール袋に何重にもくるんだ犬の死体が入っている。
死亡から間もないので腐臭はないはずだったが、心なしか他の乗客に距離を置かれているような気がして、居心地は決して良いものではなかった。
車窓の向こうに競馬場が現れ、青空を白くふさいだ。
2メートルはあろうかという川沿いのススキを掻き分け、少しスペースを見つけると、僕は穴を掘り出した。
雨の降った後で土は湿っており生々しく、ぬくもっているようにも感じられる。
犬との会話をとりとめなく思い出しつつ、一手一手シャベルを動かした。
「好きな女の子ができたんだ」
そう僕が言った時、犬からの反応は無かった。
「好き」という感情が理解できなかったのだろうか、今となっては確かめることはできない。
ザックの中から犬を取り出す。
ビニール袋の口を結んだ紐を解いて犬を持ち上げると、「クウン」と、犬の尻から屁が漏れた。
腸にまだ空気がたまっていたのだろうが、犬の尻から、犬の鳴き声を聞いたのは初めてだった。
交通事故に遭う前に発していた声そのままだった。
涙があふれた。
埋め終わると、シャベルを盛り土に立てて、僕は呆けた気分で当ても無く歩き始めた。
車窓から見えた競馬場に行ってみることにした。
大画面のモニター越しではあるが、筋骨隆々の競走馬たちが緑の芝の上を疾走している。
「行け!行けっ!」
前に立っている男性は、そう叫びながら「ブッ」と大きい屁をもらした。
しかし誰もその音に反応する様子はない。
僕と犬のように、屁を通して心を通わすようなことは、この場所では起こりえないことなのだと思った。
次のレースに数百円でも賭けてみようかとも思ったが、馬券の買い方がわからない僕は馬券売り場でまごついてしまい、結局何もせず家に帰った。
川辺に犬の死体を捨てたことを晩御飯の時に話すと、両親は「ちゃんとそういうのは届出をしなければいけないのに、勝手なことをするもんじゃない」と僕のことを責めた。
僕はそれに屁で答えた。
できるだけ音階をつけて犬の屁を真似ようとしてみたが、うまくいかなかった。
(2012/10/8~2014/2/27)
つい先日、飼い犬が交通事故に遭ってしまった。
元々右前足が不自由で、いつもヨタヨタと歩いてはいたのたが、この事故でついに両前足が完全に動かなくなり、目も見えなくなり、ワンともクウンとも言わなくなってしまった。
この事故から不屈の精神でもって立ち上がった犬は上半身を引きずりながらも後ろ向きに歩くようになり、腰のあたりにベルトを巻いて散歩にも出かけるほどにまで回復した。
そしてさらに、尻から出る空気、つまり屁で人間と会話ができるようになった。
考えてみれば犬は舌ばかり出していて喉も開きっぱなしだ、これでは口から出せる音の種類はどうしても限られてしまう。
尻の穴のほうがよっぽど様々な音を括約筋を駆使して出すことができるのである。
犬は大変頭の良い動物で、古来から人間と狩猟から愛玩まで様々な関係性のもとに共存してきた。
この犬も、人間の言うことを事故に遭うよりも前から理解していたようだ。
ある日の散歩中、犬が話し出した。
「おい、聞こえるか」
「聞こえてるよ、どうした」
「おれはもうしばらくの間、身体の上と下が逆になった生活をしている」
「うん、苦痛だろう?」
「いや、それがそうでもない。上半身をずっと引きずっているのが最初は苦痛と言えば苦痛だったが、もう胸や喉の皮もだいぶ分厚くなった。下半身も鍛えられ、結果尻の穴から出せる音の種類も増えて、お前とも複雑な会話ができるようになった」
「確かにそれは成長したと言えるのかもしれない」
「だろう、だから俺は最終の仕上げにかかろうと思っている。肺と胃袋と心臓を、どうにか下半身のほうに移動できないかと考えているんだ。俺は下半身を主体として生きていこうと思う」
なるほど、それもひとつの選択肢だ。
その日から、僕は新しい生物の誕生過程を庭で目撃することになる。
犬は少しずつ、内臓を下半身へと移動するための準備を始めだした。
まずは尻から可能な限りの空気を吸い込み、身体の中に空きスペースを作る。
そして壁に向かって頭から激突し、少しずつ、内臓を下半身へと押し込んでいくのだ。
当然一発では押し込み切らないので、何発も何発も激突を繰り返す。
壁にぶつかるたびに大音量の屁が近所一帯にこだまする。
鍛えられた下半身から発せられる屁は多様な音階を持つまでに至っており、近所の住人から奇異の目を向けられることもしばしばだった。
しかし、僕は長年連れ添ってきた飼い犬の決死の努力をとがめることはできなかった。
1週間が経った。
朝の散歩へ連れていこうと庭に出ると、そこには頭から血を出してのびている犬の姿があった。
脈はなく、身体は既に冷たくなっている。
下半身ばかりが異様に鍛えられたその身体は、今更ながらひどくアンバランスなものに見えた。
彼の決死の努力は、結果、死を導いた。
青空が車窓を隔てて矩形に広がっている。
僕は初めて乗る私鉄ローカル線で、川沿いへと向かっていた。
普段キャンプに出かける時に使うザックの中には、シャベルと、ビニール袋に何重にもくるんだ犬の死体が入っている。
死亡から間もないので腐臭はないはずだったが、心なしか他の乗客に距離を置かれているような気がして、居心地は決して良いものではなかった。
車窓の向こうに競馬場が現れ、青空を白くふさいだ。
2メートルはあろうかという川沿いのススキを掻き分け、少しスペースを見つけると、僕は穴を掘り出した。
雨の降った後で土は湿っており生々しく、ぬくもっているようにも感じられる。
犬との会話をとりとめなく思い出しつつ、一手一手シャベルを動かした。
「好きな女の子ができたんだ」
そう僕が言った時、犬からの反応は無かった。
「好き」という感情が理解できなかったのだろうか、今となっては確かめることはできない。
ザックの中から犬を取り出す。
ビニール袋の口を結んだ紐を解いて犬を持ち上げると、「クウン」と、犬の尻から屁が漏れた。
腸にまだ空気がたまっていたのだろうが、犬の尻から、犬の鳴き声を聞いたのは初めてだった。
交通事故に遭う前に発していた声そのままだった。
涙があふれた。
埋め終わると、シャベルを盛り土に立てて、僕は呆けた気分で当ても無く歩き始めた。
車窓から見えた競馬場に行ってみることにした。
大画面のモニター越しではあるが、筋骨隆々の競走馬たちが緑の芝の上を疾走している。
「行け!行けっ!」
前に立っている男性は、そう叫びながら「ブッ」と大きい屁をもらした。
しかし誰もその音に反応する様子はない。
僕と犬のように、屁を通して心を通わすようなことは、この場所では起こりえないことなのだと思った。
次のレースに数百円でも賭けてみようかとも思ったが、馬券の買い方がわからない僕は馬券売り場でまごついてしまい、結局何もせず家に帰った。
川辺に犬の死体を捨てたことを晩御飯の時に話すと、両親は「ちゃんとそういうのは届出をしなければいけないのに、勝手なことをするもんじゃない」と僕のことを責めた。
僕はそれに屁で答えた。
できるだけ音階をつけて犬の屁を真似ようとしてみたが、うまくいかなかった。
(2012/10/8~2014/2/27)