本当に最近、年月の経つのが早すぎると感じる。
昨年などは篤姫ブームでもって何が何だかわからないぐらいめまぐるしい一年であった。日々に追われ、自分が今日何処に居るのかわからないといった状況であった。
しかし、貴重な体験もした。特に、琵琶をほぼ毎日、人前で弾奏すると云う事。毎日「崩れ」という弾法を用いていると、肩が凝ったり、手がしびれたりという事態になってくる。それでも弾き始めると、自分の意志とは別に、撥を持つ手が自然に動き出し、止めるに止められなく乗ってくるのである。また、武士達の雄叫びや、馬のいななき、戦場の匂いのようなものがリアルに五感を刺激する。「来たっ!」と思う瞬間がある。
だからなおさら最近は「供養」を意識する。自分の身の至らなさ、精進の不足さを恥じつつ、今ある自分の精神的立場で出来得る最高の供養になればと思うのみである。
今年は「供養」の一年であった。己自身、大いなる動きを控えたつもりである。
残りひと月の、一年のとじ目を肝要とせねばなるまい。
ウッガンサ-祭りはまだまだ最中である。
来年は、少しアクティブに動けたらと計画している。
昨年などは篤姫ブームでもって何が何だかわからないぐらいめまぐるしい一年であった。日々に追われ、自分が今日何処に居るのかわからないといった状況であった。
しかし、貴重な体験もした。特に、琵琶をほぼ毎日、人前で弾奏すると云う事。毎日「崩れ」という弾法を用いていると、肩が凝ったり、手がしびれたりという事態になってくる。それでも弾き始めると、自分の意志とは別に、撥を持つ手が自然に動き出し、止めるに止められなく乗ってくるのである。また、武士達の雄叫びや、馬のいななき、戦場の匂いのようなものがリアルに五感を刺激する。「来たっ!」と思う瞬間がある。
だからなおさら最近は「供養」を意識する。自分の身の至らなさ、精進の不足さを恥じつつ、今ある自分の精神的立場で出来得る最高の供養になればと思うのみである。
今年は「供養」の一年であった。己自身、大いなる動きを控えたつもりである。
残りひと月の、一年のとじ目を肝要とせねばなるまい。
ウッガンサ-祭りはまだまだ最中である。
来年は、少しアクティブに動けたらと計画している。