美しい珊瑚礁が広がる慶良間諸島。那覇の南西に位置する島々です。
米軍は本島に上陸する前、慶良間諸島の阿嘉島、座間味島、渡嘉敷島を制圧しました。
座間味村の産業組合壕は、米軍が座間味島に迫り、1945年3月26日行き場を失った座間味村の村三役や役場職員、その家族67人が集団自決を行った場所です。
字座間味の集落から高月山に登る県道の途中、左側に石碑と案内板があります。
この石碑の下が、集団自決が行われた壕跡です。
壕には食糧や村役場の重要書類が保管されていました。現在は道路を造ったため、その土砂が谷側に盛られ、壕口は塞がれています。
以前はかつて、石碑の下に段々畑が広がっていました。その斜面に壕は開口していました。現在は草木に覆われた斜面が広がるのみで、壕の痕跡はありません。
遺体の収容は米軍が許可をせず、二カ月間住民は壕に近寄ることができなかったため、「集団自決」の詳しい状況はよく分かっていません。生存者の証言も無く、謎の多い事件です。
管理人が調べたところを記すとこうなります。
3月23日、米軍は座間味島上陸の前に、執拗な艦砲射撃を繰り返します。村民たちは壕に避難しますが、25日になると米軍が上陸してくるという噂で皆がパニックになります。
野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の三役は産業組合壕で協議し、どうせ死ぬなら村民が一緒に死のうと集合をかけます。三役は海上挺進第1戦隊梅澤戦隊長を訪ね自決用の手榴弾の支給を申し出ますが拒否されます。
そこで一旦は村民は解散しますが、翌日産業組合壕に避難していた67名の中で殺し合いが始まります。
村の幹部は小銃で自決したようですが、武器が十分にあるわけでなく、多くの村民は農具などで殺し合ったようです。
玉砕命令が軍からあったか無かったか、という議論は昔からあり、梅沢隊長の責任もずいぶんと論じられています。
しかし管理人は軍命があったか無かったは論じる意味はそれほど無いと思います。村民をこうした行動に追い立てたのは、日本が軍国主義に進む中での国民に対する軍事教育と皇民化政策にあったのだと思うからです。特に沖縄県民に対しては軍部は信用していなかったようで、方言を禁じ、方言を話すとスパイ罪で処刑するなど、徹底した同化政策をとってきました。要は「お前たちはちゃんとした日本人になれ」としてきたわけですね。県民の中にも「お国のために働いて、本当の日本人になりたい」と思う気持ちも、あこがれもあったと思います。
こうした中で玉砕を命じた村長が悪いのかと言われれば、当時この場所でこのような状況の中、他に選択肢を考えられたのかどうか疑問です。
天皇のため、国のため、一億総玉砕と軍部は県民を教育してきたわけです。その結果が村民をこういう行動に走らせたわけです。一村長、一隊長の責任を問う問題では無いわけですねえ。
生存者の証言もない、闇に葬られてしまったかにみえる島での事件。軍国主義の悲劇なのでしょうが、平和に見える今でも、内面はさほど変わっていないように感じてしまうのです。
写真で見せて頂くと、森の中から哀しい声が聞こえるような気がして、座っていられない気持ちになります。
でも、それは双方とも被害者だったのだと思います。
加害者はもっと上の方に居たわけですね。
おっしゃるように、加害者は上の方で素知らぬふりをしている!のだと思えます。議論するのもボ-ルのない、バットを振り続けるようなもの。これから足を運ぶつもりです。来週からやっと運転手の予定が決まって、これから中部に行かせて頂きます。
不勉強な生徒のご指導宜しくお願い致します。
軍命があったにせよ無かったにせよ、起こるべきして起こった事だと思います。
瑣末なことにこだわるほど、日本政府の責任が見えなくなります。
また、守備隊長という立場まで務めた人ならば(実際にはその遺族が裁判してますが)、さまざまな評価を受けるのは当然です。
それより過去から学び、同じ過ちを繰り返さないよう、また次の世代にどう伝えていくか、我々の行動が大切です。
それは、昔も今も同じです。
今も国と国は仲良くはありません。争いごとが絶えませんね。地球に国境がなければいいのに、、、。だれかだれか、国境を取り払ってください。