野原岳の近くに大嶽按司の居城だった大嶽城跡公園があります。大嶽城には按司の長男であるピギタリが祭られています。
大嶽按司は14世紀の中頃、与那覇原軍に滅ぼされました。このとき次男の知呂按司は東の門を守り戦死し、三男の全丸金按司も西の門で討たれました。しかし長男のピギタリは武術を嫌って戦いから逃れ、平屋久峰に隠れ住み、荒れ野であったウパアラス原を開墾し、農作物を作って、野原の再興に貢献しました。後の人々がこの長男ピギタリをユーヌヌス(豊穣の神)として崇め、大御嶽の祭神としたのです。
城跡は中世の宮古の石工技術を今に伝える石垣や石畳みが残されており、昭和51年に大嶽城跡は上野村指定文化財として登録されました。こうした場所にも沖縄戦の遺構が残されています。
大嶽城跡公園は小高い公園で、山頂部分に展望台が作られ、すそ野には広場や遊歩道が配置されています。ただ訪れる人は少なく、広場には雑草が生い茂っている所も多々あります。
展望台に通じる小道です。登っていくと左側の柵が途切れる手前、左側にほとんど埋もれた大きな岩があります。
その岩に長さ60cm位の隙間が空いているのが分かります。地面と同じ高さであり、注意して見ないと単なる岩の隙間にしか思えません。この岩が日本軍の設置したトーチカです。
沖縄守備隊第32軍司令官牛島満中将は、米軍は沖縄本島攻略の足がかりに宮古島占拠を狙い攻撃して来るものと想定していました。
マラリアで多くの兵士が倒れる中、昭和19年10月に野原地区に中飛行場が建設されました。野原岳一帯には日本軍の司令部が駐留しており、このトーチカは要である中飛行場の防衛のため、歩兵第三連隊が構築した施設であるといわれています。
わずかな隙間から内部を覗くと、コンクリートで作られた狭い空間が見えます。人ひとりがやっと入れるほどの広さです。後方に連絡壕があるようですが、崩落したのか外部からは分かりませんでした。
展望台からの眼下の眺めです。この場所に飛行場が建設されたのですが、今は痕跡はありません。この機関銃1丁設置するのが精一杯のトーチカで、空港防衛ができると思っていたのでしょうか?
福岡の飛行場を造らされた人が話してました「毎晩造り・・毎日攻撃を受け壊された・・」って。敗戦後 何をしていたのやら?と嫌になったそうです。
沖縄の地を平和の砦でしたいものですね。
宮古島の空港建設は、補給路を断たれた中、マラリアと飢餓との戦いであったようです。
おそらく、離島では戦いの犠牲者よりも、病死や餓死者の方が多かったのではないでしょうかねえ。
ほんとうに悲しくなりますね。
でも、今の日本には、
またこういうことを始めかねない危うさを感じます。
無抵抗のまま殺されろと?
当時の状況をもう少し想像してみてください
島民が全員駆り出され、必死に防空壕を作ったのです
必死に戦った人々を小馬鹿にして……
ちなみに、この公園は下に降りる遊歩道があり、そこに無数の防空壕が展開しているのが分かります
あなたはそもそも事実をしっかり把握していない
要するに始めから結論ありきなんでしょうね