管理人のうちなーライフかりゆし日記

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読谷の戦跡 その7 読谷飛行場跡

2011年09月18日 | 博士の研究日記

 6月のブログ記事でもご紹介しましたが、沖縄には日本軍や米軍によっていくつもの飛行場が造られ、そのいくつかが現存しています。そのなかで飛行場の全容が最もしっかりと残っているのが読谷飛行場です。
 読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)は、日本陸軍の航空部隊が南方戦線を展開するための補給中継基地として昭和18年に造られました。土地は軍将校から「諸君の土地を国家に捧げてもらいたい。戦争に勝ったらすぐに返すから。」と半ば強制的に接収されたそうです。家屋の補償金も国債や郵便貯金に振り替えられ、結局住民の手には渡らなかったといいます。
 1500mの滑走路を3本持つ、日本陸軍の中枢の補給基地である読谷飛行場は、10・10空襲で甚大な被害を受けたものの突貫作業で修復され東南アジアへの中継基地として機能しました。しかし、米軍上陸を目前に控えた昭和20年3月に日本軍は撤退し、日本軍自らの手によって破壊されました。
 現在、村役場が飛行場の中心に建てられ、かつての滑走路は道路として活用されています。国道58号線のバイパスが計画されており、今後読谷の中心としての発展が期待されます。

 村役場の裏手にある掩体壕です。戦闘機の格納庫として造られたものです。地面に土で山を盛り、その上にコンクリートをかけて固まった後に土を取り除くという、非常に原始的な方法で造られています。少し前までは数基の掩体壕が残っていましたが、最近取り壊され現存数が減っています。

 村役場の脇にある「義烈空艇隊玉砕の地」の慰霊碑です。1945年4月1日に米軍が上陸し占領された読谷飛行場でしたが、日本陸軍は飛行場破壊・後方攪乱を目的とした義号作戦を実行し、5月24日に特攻隊による奇襲を仕掛けました。
 陸軍中野学校出身奥山隊長以下120名が搭乗した九七式重爆撃機12機は熊本飛行場を飛び立ち、読谷飛行場には5機がたどり着いたものの4機が撃墜されました。しかし米軍の火器をかいくぐって1機が滑走路への胴体着陸を成功させ特攻兵たちは飛行機を飛び出し拳銃で米軍機を破壊したといいます。
 アメリカ軍戦史では、米軍の損害として、20名が死亡、戦闘機9機炎上、29機破損、ガソリン7万ガロン炎上したといいます。読谷飛行場で確認された日本兵の死体は69名であったということです。



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4 コメント

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Unknown (☆アルファ☆)
2011-09-18 15:26:22
玉砕は嫌です。
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Unknown (ぐに)
2011-09-19 15:24:33
この場所も、いま土地区画などを整理して、
10年後には住宅地になるようです。

戦跡は残すと思いますがね〜。
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Unknown (osakaken)
2011-09-21 08:39:19
どこも 信じられない程の悲惨な歴史に包まれていますね。発展させても その歴史的遺産が消えてしまわないようにと 思います。
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コメントありがとうございます。 (管理人)
2011-09-23 06:43:48

アルファさん、
軍事教育が国民を洗脳していったのですね。

ぐにさん、
画像はちょっと前に撮ったものですが、ここは最近変わりつつありますよね。

osakakenさん、
行政がしっかりと保存してくれることを願っています。

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