管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

西原の戦跡6 小波津家の弾痕跡のある石塀 

2011年11月23日 | 博士の研究日記

 西原町の戦跡の中で知名度も高く、保存状態も良いものがこの「小波津家の弾痕跡のある石塀」です。前回ブログでも紹介しましたが、より詳しくお伝えします。

 県道155線から1本入った小波津集落に小波津家があります。

 周囲はまだ畑の残る住宅地です。
 1944年10月10日に、那覇市内が火の海となった十・十空襲がありました。その後の本格的な米軍の攻撃から、沖縄守備隊第32軍の司令部陣地のある首里を守るため、ここ西原町(当時は村)小波津に独立歩兵第11大隊第1中隊と第3中隊が配備されました。この小波津家は1935年(昭和10年)に新築された豪邸であったようで、そのために日本軍に接収され、兵士の宿舎として使用されました。
 読谷に上陸した米軍が南下するにつれ、首里の防衛ラインである西原町は激戦地となりました。米軍は中城湾に艦隊を配備し、艦砲射撃を行いました。特に日本軍が駐留した小波津には攻撃が激しかったようです。

 上の画像とは反対方向からの小波津家です。中城湾に面した塀に弾痕跡が多く見られます。激しい砲弾を浴び、一帯は石塀を残し灰塵と化しました。
 電柱の横にある白い看板は西原町役場が設置した案内板です。こうした戦跡をきちんと説明する案内板は県内でもなかなかありません。

 案内板の拡大。

 おびただしい弾痕が残ります。この場にいたら、逃げ場は無かったと思います。

 その拡大。
 大小さまざまな穴が空いています。砲弾は着弾すると砕け散り、鋭く尖った焼けた鉄片が四方にばらまかれました。

 こうした戦争遺跡の中で、現在人々は生活をしています。弾痕に囲まれた日常生活とは、いったいどんなものかと考えてしまいます。

 



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4 コメント

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Unknown (☆アルファ☆)
2011-11-23 08:22:10
この案内板のように
史実を文字にして伝えるのはとても大切ですね。

先日ぐにさんに案内してもらったチビチリガマに
修学旅行生の団体が次々と訪れて、
地元のボランティアの人から説明を受けているのを見て、
こういう地道な活動が大切なのだと思いました。

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Unknown (osakaken)
2011-11-23 10:22:58
こんなに打ち込まれて どれだけ悲惨な状況だったのかと想像します。この塀が教えてくれるものは 大事ですね。残して行かねば わからなくなりそうです。
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コメントありがとうございます。 (管理人)
2011-11-23 21:14:26

アルファさん、
これだけ戦跡を回っていても、案内板が設置されているものはごくわずかです。
案内板どころか、消し去られている戦跡も多くあります。
物言わぬ証人を保存する必要性を非常に感じます。

osakakenさん、
遺跡はできることならばその場にそのままの姿で保存するのが一番だと思います。
沖縄の戦跡は私有地が多いので、協力を求めつつ、行政が中心となって動かねば、と思います。
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Unknown (兵藤)
2016-11-27 19:02:11
鉄片とは、砲弾の中に入れて殺傷能力を高めるための、釘や鉄くずです。国際法違反です。
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