5月30日は護佐丸の日です。2009年に中城村が制定しました。5.30で護佐丸、語呂合わせですねえ。
護佐丸は1390年ごろの生まれ、読谷山按司の子といわれています。ただ、生まれ年にも諸説あり、詳しくは分かっていないのですね。
尚巴志が北山の制圧に乗り出すと、護佐丸はその大将に抜擢され、今帰仁城に攻め入り北山王国を滅ぼしてしまいます。そして尚巴志は引き続き北山を見張るように命じるのですね。そこで、護佐丸は読谷に座喜味城を築城し、北山を監視しました。この座喜味城、かつての護佐丸の居城だった山田城の石垣を運んだそうです。堅牢で、美しく曲線を描いた座喜味城によって、護佐丸は築城家としての名声を高めました。
北山は制圧したものの、今度は勝連がきな臭くなってきます。勝連城を根拠地とする茂知附按司(あじ、地方豪族)が徐々に力をつけて来たのです。そこで尚巴志は、中城の自分の領地を護佐丸に与え、城の建設を要請します。中城城で勝連を牽制しようとしたのですね。
さて、ここからいよいよ話が面白くなります。阿麻和利の登場です。
阿麻和利は悪政を行っていた勝連按司 茂知附を滅ぼし、勝連城を手に入れました。そして東南アジアとの交易を盛んにし、勢力を大きくしていきました。
そんな中、1454年に王位継承権をめぐる王家の内乱「志魯・布里の乱」が起きます。尚巴志の子尚布里が失脚、尚泰久が第六代国王となりました。しかし、内乱で王権は失墜し、地方豪族達がいつ王府に反旗を翻すかわからない情勢になりました。護佐丸の娘を正室としていた尚泰久王は、長女百度踏揚(ももとふみあがり)姫を阿麻和利に嫁がせます。護佐丸・阿麻和利という二大実力者を親戚にして、自分の立場を確かなものにしようとしたのですね。
しかし1458年8月、「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発します。
ことの始まりは護佐丸が阿麻和利征伐のために兵馬を整えたことによります。これを見た阿麻和利は国王に「護佐丸が反乱を起こそうとしてますぜ」と告げ口をします。すっかり信じ込んだ尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ中城城に派兵します。城を包囲した軍勢が王府軍であることに護佐丸は悲嘆し、反撃もせずに自害してしまいます。
宿敵護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、その勢いに乗じて首里王府に攻め入ろうと計画します。夫の計略に気付いた百度踏揚は勝連城を抜け出し、国王に阿麻和利の策略を伝えるのです。こうして阿麻和利は鬼大城率いる王府軍によって急襲され滅ぼされました。
この話にも諸説あり、史書では護佐丸が首里城の攻略を計画していたとか、もともと尚泰久王は、護佐丸、阿麻和利ともに滅ぼすつもりだったとかいう説もあります。
尚泰久王は最初は護佐丸・阿麻和利を利用したのですが、彼らが力を持つようになると邪魔になったのかもしれませんね。
琉球の群雄割拠の時代、壮大なドラマがあったのですねえ。
ないのですが、こうして、当時の歴史を
解説して貰うと、徐々に理解できますね。とはいえ、一人の美しい女性が翻弄される姿を読むのは、昔のことであっても
切ないものが、込み上げてきますね。
ところで、2枚目の写真ですが、大きな
虹色の日傘が写ってますよね?
目の錯覚ではないですよね?
それにしても 沖縄の歴史を知るチャンスは少ないので
いつも 勉強になります。
稗島さん、歴史の影に女あり、ですな。
2枚目の画像は中城城ですが、曇りの日でした。雲の向こうに太陽があったのだと思います。
osakakenさん、琉球の歴史は学ぶ機会がありませんからね。わたしにとっても、知らないことだらけです。