管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

ガイドブックに載らないツアー

2004年11月14日 | 博士の研究日記
早朝から海人オヤジさんを引っぱり出し、無理やりガイドブックに載らない戦跡史跡ツアーを決行しました。
海人オヤジさんを、12時には空港に送り届けないといけませんので、4時間でどこまで観光できるか、時間との勝負のツアーでした。
まず那覇から、日本軍の通信施設があった城岳に登りました。頂上には公園があり、正面に那覇高校が見下ろせます。この場所に奥武山から移設された二中健児の塔があります。

建立の詞
1945年、第二次世界大戦の終末戦となった沖縄戦において沖縄県立第二中学校職員生徒は軍命により、或いは鉄血勤皇隊として、北部の防衛に当り、或いは通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、その他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。
 茲に、母校及びその後継那覇高等学校職員生徒、同窓会員遺家族並びに一般有志相諮り、曽ってはスポーツに競った奥武山の此のゆかりの聖地を卜し沖縄県立第二中健児の塔を建立して以て英霊の至誠を追慕し、冥福を祈り永遠の世界平和を祈願するものであります。
 1957年12月29日  二中健児之塔建設期成会
※尚1990年11月22日、創立80周年記念事業の一環として奥武山より、二中の象徴 城岳に新築移転した。この塔は同窓28期成、故山里昌弘氏のデザインである。
 二中鉄血勤皇隊は北部宇土武彦大佐指揮、独立混成第44旅団、第2歩兵隊(球7071部隊)或いは第62師団通信隊(石3599部隊砂川玄一郎大尉指揮)、その他の部隊にも分散配属させられ、軍と運命を共にし、北部、中部、南部と、職員9柱、生徒168柱が戦没した。 (石碑文より)
とのことであります。しばし黙祷。

続いてシュガーローフに登っていただきました。
ここは私がHPを立ち上げようと思った原点の場所です。詳細は省きますが、いつ来ても重たい雰囲気になるところです。

泊小学校の、被弾した旧校舎のカベを見てから、次に高真佐理を訪ねました。これも詳細はHPに掲載しております。

ここから宜野湾まで脚を伸ばし、沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落現場に行きました。私は事故後初めて訪れましたが、これは操縦が上手だった訳でも何でも無く、たまたま沖国大に落ちたという印象を受けました。

その後嘉数台公園に行きました。ここは沖縄戦で激戦地となった場所です。
公園は丘陵の頂上にあり、地球をモチーフにした展望台に登ると普天間基地が一望できます。
また日本軍の使用したトーチカが残っておりました。

おそらく、周囲にはもっと多くの痕跡が残って「ると思われましたが、今日のところは時間が無いので、次回の宿題といたします。
それから、普天間基地を間近で見学、海人オヤジさんもその広大な土地に驚いておりました。

所用4時間のツアーでしたが、海人オヤジさんを引きづり回してしまいました。帰りにファッションキャンディ本店に寄ってちんすこうショコラをお土産にして頂きました。

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