具志頭運動公園の脇の農道を競技場を右に見ながら進むと、畑の中に白梅学徒隊の慰霊碑が建っているのが見えてきます。
ここは「ヌヌマチガマ」とよばれる壕で、戦時中、第一野戦病院分院として昭和20年4月下旬頃、八重瀬町富盛の八重瀬岳にあった第24師団第一野戦病院が、軍医1名、看護婦1名、白梅学徒隊(県立第二高等女学校)3名を派遣し新城分院として開設されました。
壕は自然壕で、約500mほどの長さがあり、西側の出入り口をヌヌチガマ、東側の出入り口をガラビガマとよんでいました。
野戦病院とは名ばかりで、患部が化膿し腐るのを防ぐため麻酔も薬も無い状態で負傷兵の手足を切断していました。学徒隊は、血や膿、排泄物の匂いが立ち込める中で、1,000名を越える患者の世話をし続けたのです。
米軍が迫ってくると、解散命令が出され、歩けない患者は「処置」と称して青酸カリを注射されました。
壕口のかたわらに白梅学徒看護隊の塔が建っています。昭和56年6月に建立されました。
塔の裏側に回り込むと、壕口に下りる通路があります。壕口は岩の裂け目の下にあり、赤土が流れ込んで滑りやすくなっています。
壕口から見上げます。湿度が非常に高く、カメラのレンズが曇ります。
湿気がすごく、天井の鍾乳石からは地下水が滴り落ちてきます。
壕内部。終戦間際、壕内で約800名の傷病兵が手榴弾や薬品で自決し、息ある者は衛生兵によって銃殺されました。
あってはならないことです。
ここに1000名もの負傷した方々が、、そして800名もの方が、銃殺や自決、、で最期のときを、、、手を合わせて祈ることしかできません。訪ねていただいて感謝いたします。亡き方々も、喜ばれたと思います。お体お大切に。
二度とあってはならないことですね。
稗島さん、
ここは集骨は完了したことになっていますが、いまだに骨片が見つかるそうです。
応援団さん、
確かに壕口の周囲はのどかな農地が広がっています。でも戦時中は激戦地だったわけですね。
想像を絶するって言うんでしょうか?
言葉も無いです。
こんな事が 行われるなんて・・戦争への道だけは 何としても反対したいと思うのです。